――何もかも失ってしまった。
けぶるような雨だった。
水滴が小さすぎて雨音がしない。本当に雨が降っているのか、ふいに疑問に思ってしまう。
軒から手を出してみれば冷たい雫を味わうこともできるのだろうが、そうまでして確める気にはなれなかった。
空は暗い。
風はなく、
音はなく、
開いた障子の向こうに降る霧雨を、座布団に座って早苗は見ていた。
つけたままにしていたテレビからは、明日の降水確率が90%だとアナウンサーがまくしたてている。今日の降水確率は80%、一週間雨が降り続く可能性が65%。洗濯物は部屋で干しましょうと余計なお世話にまで話が飛び、いい加減耳障りになったのでテレビの電源をきった。
必要のなくなったリモコンを放り投げると、畳の上で跳ねてカバーが外れ、単三電池が二つころころと転がった。
空気が湿気って重い。
気分までが深く沈んでいる。
吐いた溜め息の比重は重く、外にまでたどり着かずに部屋の中で沈殿していく。
部屋の角につられた物干し竿には、制服と私服と巫女服がかかっている。どれも水を吸っていて、微かに臭った。洗いなおして、乾燥機に持っていかなければならないかもしれない――その手間を考えると余計に憂鬱だった。
山の上から麓まで、雨の中洗濯物を運ぶほどの気力を、早苗は持ち合わせていない。
それでも、このままでは着るものがなくなるのが明らかだった。
まさか人様の服を借りるわけにもいくまい。
「………………」
溜め息が漏れた。
ふぃ、と問題から意識をそらすようにして顔をあげる。柱にかかった時計は、もうすぐ五時を指そうとしていた。
夕餉の準備をしなければならない。が、それよりも気に掛かることがあった。
常ならば真っ先に食事をねだりにくるはずの同居人が、今日に限って音沙汰がない。
雨が降っているので庭で遊んでいるのかと思ったが、それにしては静か過ぎた。
どこか遠くまで遊びにいって、迷って、帰れないのかもしれない。
そう思った。
猫じゃあるまいし、そもそも彼女がこの社を見失うわけがないのだが、あそびに夢中になって帰る時間を忘れている可能性はある。そういうことは今までにも幾度かあって、そういう時早苗が迎えにいかないと、彼女は逆に怒り出すのだった。
――探しにいこう。
溜め息は――出なかった。これ以上ここで陰鬱な気分を抱えているよりは、いっそ雨の中でも外へと出かけたほうが幾分かは健全でもあった。
早苗は重い腰をあげ、座布団をまたいで玄関へと向かう。玄関で鏡を見て、初めて自分が制服のままだということに気づいたが、今から着替えなおす気にはなれなかった。
革靴に足を入れ、爪先で地面を叩いて踵を押し込む。とんとん、と硬い音。迷った末に、大きめの黄色い傘を傘立てから取り出す。
扉を開けて外へと出ると、柱時計がなり始めるのが聞こえた。
外は暗く、雨は降り続けている。
† † †
足許がおぼつかない。
山はそう高いものではなく、かろうじて丘から抜け出したような、こじんまりとした山だ。当然車道などは走っているわけもなく、頂にある社から中腹の辺りまでは土道を歩かなければならない。
街灯がないせいで、今日のような雨の日は薄暗くて仕方がなかった。
夜になれば真に闇が訪れることになる。そうなる前にはは、社へと戻ってきたかった。
「――――――」
彼女の名前を呼ぼうかと早苗は口を開き、結局呼ぶことなく口を閉じた。
黙ったまま、早苗は山を下りる。ぬかるんだ土を革靴が踏むたびに水音が立った。
傘をたたく水音は聞こえない。本当に雨が降っているのか――再び疑問を感じてしまい、傘の外へと手を差し出す。たちまちのうちに、袖が水を吸って白く透けた。
手を引き、軽く息を吐いて、吸う。
吸い込んだ空気が冷たかった。
急がなければ、と思ったし、逆にゆっくりと歩きたい、とも思った。
視線だけが、無意識に彼女を探して右へ左へと彷徨っている。
視界は悪いが、彼女の姿は目立つのであまり問題にはならない。
雨音は静かで、遠い麓を走る車の音が微かに聞こえた。
「――――」
早苗が住む社は、神を祀る神社である。生まれついての巫女でありながら、力なき現人神でもある早苗は、己が家系が、そしてこの土地が祀っている神の姿を捉えることができた。
そして同時に、祀られることのなかった神もまた、見得たのだ。
祀られた神は社で寝ている。
祀られなかった神は――
「…………」
山道へと出た。大昔は獣道だったそれは、今ではコンクリートで舗装された車道になっていた。水を叩く足音が、代わりにコンクリートを踏む硬い音へと変わる。靴の中に入りこんだ水が靴下を濡らす感触があった。
霧に近い雨のせいで、制服のシャツが肌に張り付いていた。
傘は、いらなかったかもしれない。
歩きやすくなった道を、早苗は少し歩を速めて歩く。定期的に訪れる街灯が、夕闇の雨を照らし出していた。
雨を逃れるように、羽虫がその明かりに纏わりついている。
水を吸って重くなった翼に引き摺られるようにして、蛾が一匹、コンクリートの上に落ちて動かなくなった。
「………………」
何となく。
何とはなしに――予感のようなものがあったのかもしれない。
早苗は足を止める。
そこに、それはあった。
山の麓へと至る道路の上だった。それ以外には何もない。この道は昔は土道で、脇の階段から下りれば、今では誰も遊ばなくなってしまった小さな公園があることを知るのは、今では彼女と早苗くらいだろう。
それを知らぬ者にとっては――ただの山を通過する道路でしかなかった。
その中央。
白線を跨るようにして、小さなものが、転がっていた。
「……………………」
止まっていた足は、動かなかった。
降る雨は、止まらない。
黄色の小さなモノだった。よく目を凝らしてみれば、それが金の髪を持ち、青いワンピースをきた少女だとわかるだろう。傍に転がっている黄色の傘は早苗がプレゼントしたもので、根元の辺りから二つに折れていた。どう手をつくしても、もはや使いモノにはならないだろう。
それだけだった。
それだけでしか、なかった。
うつぶせにたおれた少女の顔は見えない。雨に濡れた髪がアスファルトにはりつき、水を吸った服がやせ細った体の輪郭をくっきりと浮かびだす。
雨の中、動かない。
生きているのか。
死んでいるのか。
それさえ、わからない。
ただ――寒そうだなと、そんなことを早苗は思った。
顔は、見えない。
顔は、見えない。
早苗の立っている場所からでは少女の顔は見えなかった。
どうして自分がここまで冷静でいられるのか、早苗自身にもわからなかった。叫んで、取り乱してもいいようなものなのに。
現実に認識が追いついていないのか、
それとも最初から知っていたのか――こうなっていることを。
赤い色はない。
怪我をしてはいないのか、
血すらも雨に流されたのか。
生きているのか、
死んでいるのか。
生きていたのか、
死んでいたのか。
それすらも、わからない。
動かない。
動かない。
倒れた少女は、動かない。
神のように動かない――その名を、早苗は。
「……諏訪、」
言い切る前に、言葉尻は雨にかすれて消えた。細くなった声は最後まで出てこない。自身の耳にさえ届いたかどうか不確かな、幽かな声。
もう一度、
もう一度、早苗は口を動かす。
「……諏訪子様」
冷静さでもなく。
情動でもなく。
ただ、呼んだ。
祀られなかった、神の名を。
少女は――少女の姿をした髪は。
名を呼ばれて、初めて動いた。
電流を流された蛙のような反応だった。不随意に身体が撥ねる。
その一度だけだった。
それきり、動かない。諏訪子は、倒れたまま、起き上がることはない。
「諏訪子様――」
もう一度名を呼んで。
一歩を踏み出す。
彼女の方へと。
声と足音、どちらに反応したのか――諏訪子が再び動いた。先とは違う、ゆっくりとした――けれど、意志のある動きで――振り返ったのだ。力のない寝返り。力の入らない腕がだらりと動き、コンクリートの上に放り出される。
水が跳ねた。
寝返りをうつような、緩慢な動きだった。意思の力を感じられない動作。無造作に動いた手が雨をかきまわし、かすかに撥ねた水が、諏訪子自身にかかった。
振り返って正面が露わになったせいで、服の前が破けているのがわかる。帽子についた目が片方もげている。髪が泥と水に汚れている。
痛々しい姿。
それでも、
彼女は、意識の薄い瞳で、早苗を捉えて。
名前を呼ばれて、少女は。
洩矢 諏訪子は――
「……轢かれちゃった」
ぽつりと、零すようにそう言って、振り返った。
起き上がらない。
気力がないのか、
体力がないのか。
倒れたままに、諏訪子の瞳は早苗を捉えていた。
「…………」
口の端をつりあげて、笑うのだった。
それは、お世辞にも笑みと呼べるようなものではなかった。口はひきつったように痙攣しているようにしか見えなかったし、瞼は動かないのか半分ほど閉じていた。笑っているよりも、泣いているように見えた。
それでも、早苗にはわかった――彼女が、笑おうとしているのを。早苗の不安を和らげるために。
「………………」
一歩目で、足は止まった。五歩ほどの距離を置いて、早苗は諏訪子を見つめ返す。傘に触れる音のない雨が五月蝿かった。雨は止むことなく、諏訪子の身体にふりかかっていく。
ふぃ、と。
意識したのか、
意識せずか。
自身にもわからず、気づけば早苗の手は傘を放していた。かろうじて防いでいた霧雨が体に降りかかる。
冷たくはない。
温いとさえ、感じた。
瞬く間に服が水を吸っていく。その服のほうが冷たく感じる。雨を吸った髪が重く重く顔にかかり、早苗の目を隠す。手放した傘がコンクリートの上に落ち、傘の内側に雫を溜めてゆく。
諏訪子の顔が、さらにあがる。傘を手放した早苗を、じっと見上げている。蛙を睨む蛇のように、蛙の視線は動かない。
早苗は。
諏訪子との間を、三歩で詰めた。何も言わぬままに膝を曲げ、濡れ汚れた諏訪子の身体をそのまま抱き上げる。
――冷たい。
そう思った。雨にさらされた諏訪子の体は、冷たかった。
――暖かい。
そう思った。生きている神の体は、抱き合ったところから温もりを伝えてきた。
生きている。
――彼女も、私も。
「あー……」
抱きしめた諏訪子が口から吐息混じりの息を漏らす。吐いた息が耳に当たってくすぐったかった。
抱きしめたまま、早苗は言う。
「……帰りましょう」
抱きしめられたまま、諏訪子は答える。
「うん」
濡れる雨の中、身体を寄せ合ったまま早苗は立ち上がる。空は暗く、霧雨は重く、遠くの山は霞んで見えた。ふもとの遥か向こうから、車の走る音が遠吠えのように聞こえてくる。
朝は遠い。
――どこへ帰れば良いのだろう。
夜はすぐそこにある。
(了)
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