1 逢魔ヶ境で夢を見る
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(この本文は、「フォーン・ブースへ散歩に行こう」の続編になります)

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「閉じた廃墟へ遊びにいこう」



        「やあお嬢ちゃん。
         僕の名を聞きたいのかね? 
         僕の名は――」
            《夢幻紳士》




「十七時零三分四十二秒――――――――――――」
 空を見ながら無人駅のホームを走る。夕焼け空の向こう側には、うっすらとした月と星が見えていた。街灯のつき始める時間。けれど、こんな田舎――誰からも忘れられたこの場所には街灯なんてなくて、あったとしても灯ることはない。薄暗くなり始めた世界を私は走る。既に三分、待ち合わせの時間をすぎていた……こんなことを考えている間に四分目に突入。待ち合わせの時間に遅れるのはいつものこととはいえ、怒られるのに慣れたわけではない。
 加えて、今夜は気合を入れた課外活動だ。
 ――秘封倶楽部の。
 私こと宇佐見 蓮子と、メリーことマエリベリー・ハーン。二人で一組のオカルトサークル。
 帽子を押さえていた右手で、切符を箱に放り込む。無人駅には私以外には誰もいなくて、もちろん駅員さんもいない。屋根もなく、ホームは地面しかない、そんな場所だ。目的地だけでなく――その周りすべてが、もうすっかりと朽ち果ててしまっているのだ。
 右手で帽子を押さえなおし、左手に持った鞄をしっかりと握りしめて、私はさらに駆けた。案の定メリーはそこで既に待っていて、不機嫌そうな顔を私に――
 と思ったら、誰もいなかった。
「……あれ?」
「……あら?」
 声は――後ろからした。
 私はつんのめりそうになりながらも足を止めて、ついさっき通りすぎたばかりの改札を振り返る。今まさに、メリーが改札の箱に切符を放り込んだところだった。
 目が合う。
 メリーは薄く微笑んで、
 私はきっと、間の抜けた顔をしていたと思う。
 ――同じ汽車に乗っていたのだ。
 がっくりと、肩に重みを感じた。何も走る必要はなかったのだ。待ち合わせ時間は十七時、待ち合わせ場所は改札口。メリーも私と同じように、ほんのちょっとだけ遅れてきたらしい。同じ汽車に乗ったのに気付かないなんて――間抜けとしか言いようがない。
 深々と溜め息を吐く私の傍へと、メリーはのんびりと歩み寄ってきた。そして、そんな私の心中とは関係なく、微笑んだままに――私の手を、手に取った。
「さあ――行きましょ、蓮子?」
「――そうね、メリー」
 手を繋いで、私たちは逢魔ヶ時の世界を駆け出し――








■ 月曜日は紅い雨 ■

 廃墟に人の姿はない。いや、人がいなくなったからこその廃墟なんだろうけれど――こういった場所で恐ろしいのは、浮浪者が不法に居つくことだ。雨露をしのぐ場所として、法の手が届かない場所として、廃墟は時に行き場をなくした人たちの溜まり場になる。
 幸いにもここはそうではないらしい。人のいる気配も、人のいた気配もなかった。視界にある限りで、生きているモノは私たちだけだった。
 ――幸いにも、と言っていいものか。
 立地条件が悪くて、人が集まりにくい――という可能性もあるけれど、それよりは、『それ以外の何かが出て』普通の人が寄り付かないと考えた方がしっくりくる。
 それ以外。
 結界の境目からは、果たして蛇が出るのか、鬼が出るのか――そんなことをメリーに言うと、彼女は笑って、
「ワインが出てくると良いわね」
「……それも充分に怪奇現象よ」
 こう、何もない空中から、じょーっと紅いワインが。
 ……想像しただけで空恐ろしい。B級ホラー顔負けだった。
 その光景はメリーのツボにはまったのか、くすりと笑って、
「透明人間凶弾に死す――って感じね」
「透明人間の血は透明じゃないの?」
「『吸血鬼は流れる血にも耐えられない』みたいな理屈だわ。それとも、血の雨は平気?」
「怪我をしないで霧になるのよ。血の雨も紅い霧に」
「便利なような、不便なような――」
 しゃべるのはいつもと変わらない他愛のないことだ。意味もないし、意図もない。特にオチをつけるつもりもない。あっちからこちらへ、こっちから向こうへ、ぽんぽんと話は飛んでいく。
 いつも通りの、秘封倶楽部。
 郊外にある廃墟に何かが出る――そんな、あやふやな噂だった。もっともその類の噂はいつでもあって、どちらかといえば今回は、単純にいつかはいってみたかった廃墟にいい機会だからいこう、という色合いが強い。東京の実家から持ち帰ってきた秘密兵器を試してみたかった、というのもある。
 何より。
 こうして、メリーと二人で活動している時間が――私は、たまらなく好きなのだ。
 顔に浮かんでいるであろう笑みをそのままに、ぐるりと廃墟を見渡す。廃墟、とひと言で切ってしまうには、ここは大きすぎた。駅からそうだったように――小さな町がひとつそのまま、廃れた世界。人口の偏りやら京都の霊的構造やら、その他諸々、色々なことが積み重なって――気付けば、いつのまにか人の姿は消えていた。
 すべてに捨てられ、忘れられ、町はここにあった。
 ゴースト・タウン。
 鬼か蛇か――お化けが出るか。
                     出ている。
                    笑っている。
「とりあえず――散歩してみましょう?」
 先んじるように言って、躊躇することなくメリーが歩き出す。手近にあった、崩れていないのが不思議なほどに劣化した建物に、誘われるような足取りで入っていく。待って、という暇もなく、後ろ姿は廃墟の暗がりの中に消えてしまった。
 ……危なっかしいことこの上ない。
「メリー! 一人でいくと、迷子になるわよ!」
 そう言って――私は、彼女の背中を追いかけた。

   †

 外から見ただけではわからなかったけれど、建物は図書館か、本屋か、大きな書斎だったらしい。入った先には、ぼろぼろの本棚の群れと、まばらに残った本と、本に積もる埃。そしてそれらを眺めるメリーの後ろ姿。
 意外なほどに暗くない。というのも、入り口とは反対側の壁と天井の一部が壊れていて、そこから夕陽が入り込んできているのだ。
「……随分とまた、埃っぽいわね」
 埃の匂いは、積み重なった時間の匂いだ――とはいえ、これはあんまりだった。どうにも時間のヒトは、誰も見ていないところで手を抜きがちらしい。そんなはずはないのに、何百年もそのままに放っておかれたのではないかと思ってしまう有様だった。
 それとも、置いていかれたのだろうか?
 捨てられたそのときから――ここは一歩も前に進んでいないのだろうか。
「マスク」
 手を後ろで組んで、本棚を眺めていたメリーはそう呟いた。独り言のような声。ここには声も、音もない。けれど――静寂に声は押し潰されそうだった。
「持ってくれば良かったかしら」
「意味ない気もするけれど……これだけ酷いと。いっそガスマスクに防護服なんてどうかしら」
「あら蓮子、そんなものを持ってるの?」
「まさか! メリー、あなたが買ってくるのよ」
「どこに売ってるのかしら……?」
 本気にしたのか冗談なのか、首を傾げて考え始めたメリーを放って、私は視線を元に戻す。
 埃の積み重なった、廃れ落ちた世界がそこにある。
 ――本。
 人に読まれるために造られたそれは、人の手から離れ、忘れられて、ただ朽ちてくだけの場所――廃墟に残されていた。どれもこれも埃を被っていて触る気にはなれなかった。たぶん、触ってしまえばぼろぼろと崩れていくだろう。忘れていた時間の流れを思い出して。
「十七時三十三分二十一秒」
 空を見て時間を確認する。室内にもかかわらず、建物は半壊していて外が見える。生憎とこの場所からでは月は見えなかったけれど、星が見えれば十分だった。暗くなり始めた夕暮れ空には、薄く星が輝いている。
 月を見て場所を知り、星を見て時間を知る。それこそが私の特技だ。そして、メリーは――
「何か見える?」
「『いないいないばぁ』『三匹のぞう』『鼻のなくなったぞう』……ぞうが多いわね」
 私の問いに、メリーは本の題を読み上げていった。そんな返事をするということは、まだ特に変なものは見えていないのだろう。
 結界の隙間を見る能力。
 それがメリーの力だ。こんな忘れられた場所では、特に見得やすくなる。なるのだけれど……
「変なものは見えない、と。……外れかな?」
「まだ決めるのは早すぎるわよ? ここ、外から見たより広いそうだし」
「まあ、ね――」
 メリーのいうことももっともだ。夜はまだ始まったばかり。焦っても仕方がないし――むしろ楽しむべきだろう。何も見えなかったとしても、こういう場所は見ているだけでも面白い。
 私は鞄から、古ぼけたカメラを取り出す。デジタルじゃない。フィルムを入れなければ写真を撮ることのできない、大昔のアナログ・カメラ。今ではもう骨董品としてしか見ないものだ。
 実家の倉庫から掘り出してきた古ぼけたカメラは、朽ちたこの場所によく似合っていた。メリーの目ほどではないものの、この『眼』ならデジタルのものよりは、隙間を捉えやすいかと思って持ってきた秘密兵器だった。
「メリー」
「んんー?」
「はいマヨネーズ」
「マヨネーズ!? え、マヨネーズ……? 普通は、二、とか、チーズとか……」
「何よ。カメラときたらマヨネーズでしょ」
 おかしなことを言う。まあ、メリーの奇言奇行はいまに始まったことではないので気にしない。狼狽するメリーごと、私は背景を写真に収めた。フラッシュの瞬きが、一瞬だけ廃墟を白く染めあげる。
 本を見つめるメリーの影が、より濃く浮かび上がった。
                    影が見える。
                    影は笑う。
「――ねえ、蓮子。読めなくなった本には」触れるか、触れないか。ぎりぎりのところを指でなぞりながら、メリーは言った。「どんな意味があるのかしら」
「そのうち、誰かに発掘されるなら、『記録』としての意味はあるわよ」
 鞄にカメラをしまいながら私は答える。それは本来の目的とは違うかもしれないけれど――そういうものだろう。タイムカプセルと同じだ。そのまま忘れられれば、消えていく。掘り出されれば、意味を取り戻す。
「それは読まれない本。私の言っているのは、読めなくなった本。読めなくなって、忘れられた本に――意味はあるのかしら?」
「忘れられた本、ね――」
 確かに、そういったものはきっとあるのだろう。なくなってしまった本。焼かれてしまった本。そうでなくとも、流行の中で埋もれ、いつしか忘れられてしまった本。
 たぶん、それは。
「そうね。忘れられたものは、消えていく。でも、きっと、それは無意味じゃなくて――」
 私はメリーと同じように、本の背表紙へと手を伸ばす。勢いが強すぎて触れてしまい、音もなく背表紙が崩れてしまった。本のタイトルが――読めなくなる。
 もっと触れば、中身まで読めなくなるだろう。
 けれど。
「読んだ内容を忘れても、読んだことすら忘れてしまっても、その本は確かにその人に影響を与えていた。本って、そういうものでしょう?」
 記録するためのものではなく、
 記憶するためのものとしての、本。
 忘れることと、失われること。
 ほんの些細で、決定的な差。
 「それに、本が幻想になったのなら、幻想の図書館だってあるはずよ。それは失われたわけじゃないのだから――向こう側で読む人だって、きっといる」
 向こう側。              向こう側。
 忘れられた本が集う図書館。     魔女の読み手。
「それこそ本の楽園よね」
 言いながらメリーは踵を返し、本棚を順に眺めていく。足音が響く。そして、その足が、急に止まる。
 足音の響き方が変わったところで、足が止まる。
「あら。蓮子、これ……」
「ん……へぇ、秘密の隠し部屋かしら」
 いや、たぶん、ただの書庫か何かなんだろうけれど。
 メリーの足元、視線の先には、地下へと通じる扉があった。埃を被っていて、よく見ないとそこに扉があることにすら気付けない。けれど、埃を被っているということは――この扉が、長い間閉まりっぱなしだという事だ。
 閉ざされた地下室には、何かがあるのがお約束。
「……開けるの?」
「もちろん!」
 私は答え、床の凹みに手をかけた。埃の分だけ重く、硬い。全身の力を込めて、思い切り踏ん張って、ようやく――ばくんと、音を立てて床は開いた。衝撃で埃が舞い上がり、二人してけほんけほんと咳をする。
「蓮子! 開くときは開くって――!」
 咳をしながら怒ってくるメリーから逃げるように、私は「ごめん!」とだけ言って地下室への階段を降りる。
 たんたんたん、と小気味よく駆け降りて、見る。
 封じられていた地下は。
「…………………………………………」
 降りて、呆気に取られた。声も出ない。
「蓮子、人の話を聞いて――……まぁ」
 怒りながら降りてきたメリーの声が、驚きに染まる。それもそうだろう――閉ざされていたはずの地下室は、実のところ、少しも閉じてなかったのだから。
 いや、元々は確かに閉ざされた地下書庫だったはずなのだ。ただし、時間の流れは平等だった。朽ちた壁は崩れて、瓦礫の向こうに道が見えた。初めから高低差がある裏口だったのかもしれない。上よりも明るいくらいだ。
 地下室は開かれていた。
 閉ざされた密室は――夕陽で、紅色に染まっていた
「……どう思う、メリー?」
 落胆するべきなのか、驚くべきなのか。中途半端な思いを疑問に乗せて、私はメリーに問いかける。
 メリーは。
 なぜだか嬉しそうに笑って私の問いに答えたのだった。

「そういうものなのよ、きっと」



■ 火曜日は蝶の夢 ■

 メリーと二人きりで誰もいない廃墟を歩く。歩くたびにかつん、かつんと靴音は響いて、けれど音は会話に掻き消される。誰かに聞かれる心配なんてないのに、気付けば私もメリーも互いに届く程度の声でしゃべっていた。
 あんまり声が大きいと、それだけで壊れてしまいそうだからなのかもしれない。建物が、じゃなくて、停滞することで固定された、ここそのものが。
「足元がいきなり崩れ落ちたらどうする?」
「地球は丸いから、反対側に出るんじゃないかしら」
「廃墟の下に秘密の街とかあったら素敵よね」
「足元にあるのは、いつだって遺跡よ――跡、ね」
 本の部屋を抜け出たときから思っていたけれど、意外とこの町は高低差があるらしい。瓦礫に隠されて見得ないだけで、幾度か階段を降りたり昇ったりした。それこそ足元が崩れそうな場所もあったけれど、できるかぎり遠回りをして進んでいる。
 今進む道の両脇には、桜の木が生えていた――といっても、それが桜だという自信は、あまりない。春ならばまた違ったのだろうが、今は裸の木が立ち並ぶだけだ。
 人のいない町に咲く桜を、少しだけ見たいと思った。
 でも――危なすぎる。人のいない場所で咲き続ける桜は、もう人のものじゃない。
                      妖の桜。
「案外、人の骨が埋まってるかもしれないわね」
「え――」
 一瞬、何のことを言われたのかわからなかった。人の骨、と聞いて、桜の木の下に死体が埋まっている光景を想像してしまう。メリーがさっきの話題を続けているのだとわかったのは、次の言葉を聞いてからだった。
「足元。廃墟に取り残された人の骨が――積み重なって、できていたりしないかしら」
「取り残される人なんていないわよ。いるとすれば、それはもう自分の意志で残った人たちだわ」
「なら――取り残された想い、とか」
「想いの死体が積み重なって……それは重そうだわ」
「…………」
 気付けば、じと目で見られていた。さすがにつまらないジョークだったか、と反省。照れ隠しにカメラを手に、メリーを桜ごと撮る。ついでに遠景でもう何枚か。
 アナログフィルムなので、うまく撮れているかどうかわからない――わからないのが、面白い。
「冗談はともかく……案外、桜もそうなのかも」
「桜の根元には、人の死体が埋まってると言うわね」
「そう。でも、本当はそうじゃなくて、人の想いが埋まってるのかもしれない」
「タイムカプセルを木の根元に埋めるみたいに?」
「人の血を吸って綺麗に咲くんじゃなくて――見る人が綺麗だと思うから、桜は綺麗に咲くんじゃないかしら」
「観測問題ね。なら――」
 メリーはそこで、意味深に言葉を切って桜を見た。彼女が何を言おうとしているのか、すぐにわかった。
 案の定、彼女は私の想像通りの言葉を吐いた。
「――ここの桜は、どんな花を咲かせるのかしら?」
「けばけばしいワインレッドとか」
「…………」
「……観測問題でいうなら、咲かないわよね。でもメリー、あなた、忘れてることがひとつあるわよ」
「いっぱいある、じゃなくて?」
 それもあるけど、と突っ込んで。
 咲かない桜たちを見ながら、私は言った。
「桜自身が綺麗に咲きたいと思っているなら――人なんていなくても、誰も見ていなくても、綺麗な花を咲かせるんじゃないかしら」
 その色は、きっと白だろう。薄く薄く幻のように紅を残した、綺麗な白。あけない冬の溶けない雪のような、真っ白な花を、人間の見ていないところで桜は咲かすに違いない。
「そうね……なら、例えばの話。一年中咲くことのない、ずっとずっと咲いていない桜があるとしたら――その桜は、いったいどんな花を願っていると蓮子は思う?」
                     春の欠片。
 ふうん――と私は考える。咲かない桜。咲くことのない桜。誰も見ることのない、忘れられた花。
 そんなものが、あるとするのなら。
「きっと、咲きたいなんて願っていないのよ」
「願う願わずに関係なく花は咲くものじゃないかしら」
「花が咲くのは本能だけれど……一本くらい、花見が好きな桜がいてもいいんじゃない? 自分が咲くことなく、他の桜が咲いているのを見て喜ぶ桜がいても」
「咲かないことを――願う桜」
「きっと訳ありなのよ」
 そんな桜がいてもいいだろう。桜が人の血や想いを吸って綺麗な花を咲かすとしても――それくらいなら、咲かない方がいいと思う桜がいても。
 桜が何を思っているかなんて、誰にもわからないけど。
「そうね……」

 私の答に納得したのか、初めからどちらでも良かったのか。メリーは再び、立ち並ぶ桜を見た。私も彼女の視線を追って、桜たちを見つめる。メリーは桜をひとつひとつ見つめながら、歌うように呟いた。
「願わくば、花の下にて春死なむ――」
「――その如月の望月の頃。桜からしたらいい迷惑よね。確かに桜の花は人を誘うけれど――勝手に誘われて、勝手に死んでるだけかもしれないわ」
「ならきっと、冥界には綺麗な桜が咲いてるわね。それが人を集めるから、みんな死んでいくんだわ」
「そうね。それで、それ以上死ぬことがないから、思う存分桜を見ながら宴会している?」
「楽しそうだわ――いえ、楽しいんでしょう」
 くすくすとメリーは笑い、つられるように私も笑った。確かにその光景は想像するだけで笑い出したくなるものだった。大きな桜の満開の下で、幽霊たちが賑やかにどんちゃん騒ぎをしているのだから。
「まあ、何にせよ」
 私は笑いながら、笑うメリーの横顔を覗き込んで言う。「また一緒にきましょう? 今度は春にでも」
「お酒を持って?」
「ええ!」






■ 水曜日は永い夜 ■

 夜になった。
 昼と夜の曖昧な境界は消えてしまった。夕陽は西の果てに沈み、空には本当の夜が暗く黒く広がっている。市内よりも、星と月が明るく見える。
 霞がかかった、朧月。
 巨大な満月でも、廃墟のすべてを照らすことはできない。私たちはペンライトで足元を照らしながら、暗さと静寂に押し潰されないようにしゃべりながら進んでいた。
 今のところ、変なモノには出会っていない。壁にびっしりと書かれた文字とか、そういうものはいくつか見た。霊的現象でないだけによけいにホラーだ。
                     ――今?
 今のところは、だが。
「宇宙からだと、月も綺麗に見えるのかしら?」
 ガラスのない窓の向こうを見ながらメリーが言った。私も同じように見る。ペンライトよりも大きな唯一の光源がそこにはある。時間は二十時十八分四十七秒、場所は廃墟のアパート跡。能力に陰りはない。
「ウサギくらい、見えるかもしれないわね――あ、でも、月面ツアーの観光客にはウサギは見えなかったそうよ」
「きっと、化かされたのよ」 
 クスクスと、メリーは笑う。私は、「化かすのは、狐か狸でしょう?」と言いながら、カメラで月を撮った。
 現像したら、ウサギは写っているだろうか?
「それは違うわよ。昔から、動物で一番嘘吐きなのはウサギ。狐は偉くなって、狸は寝てしまったけれど、ウサギだけはずっと変わらずにウソをついている」
 鮫さん鮫さん、数を数えてあげましょう――そういえば、あれはウサギだったか。それを考えると、なんとも年季が入った嘘吐きだ。
「月にウサギがいる、という大嘘?」
「むしろ、月がそこにあるっていう、大嘘」
「それはまた、大仰なウソをついたものね」
 私はもう一度、窓の向こうに浮かぶ朧月を見た。幻の月。ウサギに騙されて、私たちは偽物の月を見ているとメリーは言う。高いお金を払ったツアーでいった先が偽物だなんて、救われないというか、ざまあみろ! と高らかに笑いたくなるというか。私たちだけは別ルートで本物の月にいってやるぞとか思わなくもなくもなくない。
「どうして、ウサギだちは本物の月を隠したの?」
「本物の月を見てしまえば、きっと目が潰れるからよ」
 その神々しさに――あるいは、おぞましさに。
 偽物に慣れてしまった人間には、本物は耐えられない。
 そう言って、メリーは微笑む。ヴァーチャルこそ人間の本質だ――ということだろうか。今の、かもしれない。
 大昔、遠い昔に人間が本当の月と生きていた頃には、また違ったのだろうけれど。
「でもそれって、私たちにとってはこの月こそが本物ってことでもあるのよね――偽物と本物の違いなんて、それくらいでしかないんでしょうね」
「そうね蓮子。でも……例えば、竹取物語の輝夜姫。彼女が最後にどうなったのか、あなた覚えてるかしら?」
「あったりまえじゃない。最後は月から迎えがきて、月に帰ってしまうのよね。変則的ではあるけれど、一種の異種婚の物語の典型でもあるわ」
 異種の嫁が人間と婚姻したが、正体がバレて去ってしまう、というものだ。色々ずれているけれど、輝夜姫はこの範疇の中に入っていると言ってもいいだろう。
 メリーは「それなら」と前置いて、
「彼女が帰った月は、本当の月と偽物の月、どちらだったのかしら? それとも――彼女は本当に、月へ帰ったのだと思う?」
「……そんなことを言い出したら、そもそも輝夜姫が地球にきたかどうかから疑う必要があるわよ」
「すべてがすべて、ウサギに騙されて?」
「すべてがすべて、蝶が見た夢だったのかも」
 かつこん、と音を立てて、私は段差を飛び越える。位置が変わって、月は見えなくなる。ウサギも、ロケットも、旗も、ここからでは見えない。
 本当に月があるのか、誰にもわからない。
 本当の月があるのか、誰にもわからない。
 だから――信じるものが、本物なのだ。
 ヴァーチャルこそが、リアル。
                    幻想の現実。
                    現実の幻想。
                    幻実と現想。
「電気ウサギは胡蝶の夢を見るか、ね」
「それはちょっと違うと思うわよ……? まあ、そうねメリー。私が思う本物でいいなら断言できるわよ」
「輝夜姫?」
「輝夜姫。彼女は間違いなく地球に来たでしょうし――絶対に、月へ帰ってないと思う」
「どうして――そう思うの?」
「だって」
 私は足を止め、メリーの顔を見返して、思っていたことをはっきりと告げた。

「輝夜姫って、性格悪そうじゃない」
「――――は?」
「悪そうっていうか、悪いわよね。竹取物語を読む限りじゃ、彼女絶対に大人しく帰りそうになかったし。それこそ、ウサギなみに嘘吐きよ絶対」
 竹取物語を読んでからずっと思っていたことを告げると、メリーはしばらく呆けたように口を開けて、
「ふ……うふ、あは! 蓮子ったら……ふ、ふふ……」
 何がおかしいのか、何もかもがおかしいのか。おなかを押さえて、笑うのを堪えながら、堪えきれずに笑い出した。ちょっと珍しい光景なので、背景ごと写真を撮ってみる。あとで私も見返して笑うことにしよう。
「何か私、おかしなこと言った?」
「おかしなこと、いえ……おかしい、おかしいのよ……」
 なおも笑うメリー。私が笑い飛ばされているようでいい気はしない。物語の中とはいえ、納得がいかないものはいかないのだ。きっと輝夜姫は今でも月を見上げては笑っているに違いない。彼女にとっての、本物の月を。
「ふふふ……うん、確かに、性格悪そう、ね……」
「いつまでも笑ってないで次いくわよ次!」
 笑い続けるメリーを放って、私は歩き出す。後ろからメリーが待って待って、という声を聞きながら。




■ 木曜日は花の川 ■

「へぇ……」
「まぁ……」
 二人して感嘆。冷静に考えてみれば、たとえ廃墟だとしても――廃墟だからこそ――そういったものがあるのは、当たり前のことなのだ。人の手が入らなくなった以上、あとは本来の生態系へと時間をかけて戻っていく。今はこの一角だけなのかもしれないが、数千年もすればこの廃墟すべてがこの光景になるだろう。
 とはいえ、頭でわかっているのと、実際に見るのとでは、大きな違いがあった。さすがに言葉を失い、足を踏み入れるのも躊躇って、ただただ見つめてしまう。
 目の前に広がる、花畑を。
「こういったものもあるのね……」
 どこか嬉しそうにメリーが言う。月明かりの下、微かな風に揺らされて花は咲いていた。花畑、といえるほどでもないのかもしれない。季節上、花よりも草の方が多いし、その大半が雑草といっていいようなものだ。
 それでも。
 朽ちた廃墟の中にあって、灰色でも茶色でもなく――緑色が広がる光景は、一種感動的ですらあった。
「人工的……ではないわよね。更地か何かだったところに、かってに生えてきたのかしら」
「更地だったところにかってに建物を建てた、でしょ? 廃墟になるずっと前は、この光景しかなかった」
 そして、廃墟になって再び草花が栄えた。
 草がどこにでも咲くなんてのは大昔のことで、今では草木一本ない土地なんて一山いくらで存在する。極楽浄土や三途の川にさえ生える草は、放射能が強く残る場所では生まれてこない。
 その一方で、使われなくなって放棄された東京の環状線は一部が草原と化して、葉のない茎と花弁だけの奇妙な紅い花が土地を覆いつつある。
 どちらが本物なのか。どちらが先で、どちらが後か。
「……鶏と雛と卵ってどれが一番美味しいかしら……」
「え、蓮子、何か今物騒なこと言わなかった?」
「なんでもないのよなんでもー。どうせナマモノは手に入らないから、罪のない可愛らしい妄想よ」
「…………」
「そんなことより――この花って、何の花だと思う?」
                     花は毒。
                     毒は花。
「毒の花、とか」
「毒、ね……鈴蘭、ヒヤシンス、桜、マンドラゴラ」
「最後のは呪いね。引き抜いた者を殺す呪いの声を持つ草……草じゃない! 花じゃないじゃない!」
「細かいこと言うわね……じゃあトリカブトで」
「何が『じゃあ』なのかわからないけれど、それも草よ? ……毒は、草の方が多いのかしら」
「草は煎じると毒になる。花は、見るだけで毒になる。その違いじゃない?」
 そうね――と頷いて、メリーは躊躇なく花畑へと足を踏み入れていった。先ほどの前振りがまったく意味を成していない。この花畑が、本当に毒畑だったらどうするつもりなのだろう? 何も考えていないに違いない。
「棘に刺されたら永眠するわよ」
「冬眠くらいならしたいわ」
「自堕落! 自堕落だわ!」
 愉快なことを言いながら、私も覚悟を決めてメリーの後を追う。できるだけ花を踏まないようにするけれど、その代わりに草を踏んでしまう。雑草ならば雑草らしく再びたくましく生えてくることを祈ろう。
 写真を一枚。
 フィルムの中にも――毒は残るのだろうか。
 草の毒なら、きっと残らない。
 けれど、見ただけで誘う花の毒なら――
「東京で咲き誇っている紅い花も、毒花よね」
 ふと思い出し、踊るように前を歩くメリーへと話し掛ける。彼女は片足でくるりと振り向いた。スカートの端が円を描くように膨らんで、止まり損ねてもう一回転してから、そうね、と頷いた。
「彼岸花、よね。本当なら、お彼岸に咲く花」
「迎え呼ぶ花……毒があるから、むしろ向こう側へと連れていくための花? 三途の川の岸辺に、びっしりと生えてるに違いないわ」
                 あっちの水は甘い。
                 こっちの水も甘い。
「そんなことになったら……きっと船頭の仕事が増えて、三途の川で芋洗いになるわね」
 想像してみる。彼岸花によって誘われた幽霊たちが、こぞって三途の川に飛び込んで、おしあいへしあいしている姿を。水がもう見えなくて、長い長い川は幽霊たちで埋まっているのだ。
「……想像するんじゃなかった……」
「大きな戦争の後だとそうなるのかもしれないわね。帰ることもできず、裁かれることもなく、彼岸花だけを見て――ずっと、そこにいる」

「どちらにせよ、きっちり六文払って優雅な船旅といきたいところだわ。値上げしてないといいけれど」
「そのためには、日ごろの行いを良くすることね」
 その通りだ、と私は笑った。死後を良きものとするためには、まず生きているうちに善行をつまなくてはならない。まれに生きたまま死後を迎える人もいるけれど、そういうのは例外中の例外だ。
 例外。
 メリーは――どうなのだろう。
 気付けば。
「……どうしたの、蓮子?」
 足は止まっていた。花畑を楽しんでいたメリーは、不思議そうに私を見つめている。突然立ち止まり、何も言わず、考え込んでしまった私を。
 私は、何も言い返すことができなかった。
 メリーの能力ならば、生前も死後も関係なく、生きたまま向こう側へ渡ることも可能なのではないかと――そう考えてしまったから。いや、考えたんじゃない。普段から意識にあったものが、表に浮かび上がってきたのだ。
 私は――呆けたような顔をしているメリーに、言った。

「空を飛べたら、三途の川も飛び越せるわよね」




■ 金曜日に眠る神 ■

 どれくらい時間が経っただろう。
 何枚の写真を撮ったことだろう。
 気付けば、朧月は頭上を越えていた。夜の廃墟の探索、という状態に心は興奮していても、体の方はそろそろ疲れを訴え出していた。何ひとつ怪異に出遭うことなく、メリーと話すだけで時間はすぎて――それでもそれを退屈だとは思えなかった。最後にとっておきの宝物を残しておいたような、そんな期待感が心の隅にあった。
 まだ何かがある。
 きっと最後に何かがある。
 それが――幻想でしかないことを、私は知っている。そう思うとき、大抵の場合最後にはもう何も残っていなくて、どころかとうに最後をすぎているのだ。楽しい遊びの時間はお終い。チャイムが鳴って、陽は沈んで、家に帰る時間。その一瞬にすぎる奇妙な感慨。
 今、私の胸にあるのは、その類のものだった。
                  お終いは始まり。
「空に一番近いところは、神様のいるところに繋がってる――らしいわよ?」
 かつん、かつんと、階段を昇りながらメリーは言う。私の三段ほど前を昇りながら、時折振り返っては話し掛けてくる。黙って昇らないとこけるわよ、と言おうかと思ったけれど、話さないとそれはそれで淋しいのでやめておく。かつん、という足音は、しゃべり声以上に響くのだ。
 誰もいない廃墟の、一番高いところ。
 廃墟を、すべて見渡せる場所。
 そこを目指して――私たちは、階段を昇っていた。
 かつん、かつん、         かつん、かつん。
 かつこん、かつこん。     かつこん、かつこん。
 ひとつとひとつで、二つの足音が二重奏を奏でている。
「どこの宗教の神様? 日本の神様なら、どこにでもいるそうよ」
「土着神、ツクモノガミ、八百万。神様はどこにでもいて……だから、どこにもいない」
「信じる人の心の中に、ね。信仰が失われたら、神様は消えてしまう。信仰する人のいない廃墟には、きっと神様はいないのね」
 廃れてしまった神社に神様はいない。そこにあるのはかつての名残だけで、拝んでも何も出てこないだろう。
 廃墟だけじゃない。人が神様を必要としなくなったら、きっと、どこにもいなくなってしまうのだ。
「蓮子は神様を信じる?」
「神様も仏様もキリスト様もアザトース様も信じてるわよ。信じてるだけで、特に何もしてないけれど」
 どこかにいるかもしれない。私が持っているのはその程度の信仰で、『神様にすべてを捧げます』という迷える純朴な子羊になった覚えはない。そもそも、その区分で言うなら、幽霊も神様も似たようなものだ。
「ある宗教の悪魔が、ある宗教では神様になってる。ただの動物が、神様として崇められている。信仰次第ね」
「蛇や蛙だって、時には神様になるわね」
「ウサギだって神になる――ねえメリー、宇佐見神を信仰する気はないかしら。賽銭は学食でいいわよ」
「その宇佐見神にはいったいどんなご利益があるのかしら?」
「拝んでいる間は、暇をすることがないわ。なにせ実践派の神様だから」
「それは素敵ね! その神様は二人組でしょう?」
 メリーは笑って、一段飛ばしで踊り場へと着地した。向きを変え、さらに速度をあげて階段を昇る。私も慌てて、その後を追った。
 かん、かん、と。階段の材質が変わったせいか、音が変わった。崩れるんじゃないかと心配してしまう。もしここで建物ごと崩れたら、神様だろうが何だろうがぺらぺらに潰れてしまうことは間違いない。
 危ないことは、わかっていた。
 それでも――見たかった。そろそろ帰らなければならない以上、次がある保証がない以上は、見ておきたかったのだ。
 すべてを。
「人のいなくなった土地は廃れて、神様のいなくなった土地は滅びて。それなのに、廃墟は廃墟のままでここにあった。不思議なものよね」
「まだ誰かが覚えているのか、まだ何かが残っているのか。いつかは、きっと、廃墟すらなくなってしまうわよ」
「神様がいた証すらなくなって……ああ、でも」
 かつ、と。
 メリーは、足を止めた。背中にぶつかりそうになって、私は慌てて足を引っ込める。メリーは止まったまま動かない。振り返らない。どこか、遠くを見ている。
 一番上に――ついたのだろうか。
 メリー、と呼ぼうとした。
 それよりも早く、メリーは。
「誰もいなくなったことすら覚えていないなら――誰も、悲しんだりしないわよね」

 振り返らないままに、そう言った。
「………………」
 それは――そうだ。
 忘れられるとは、忘れ去られるとは――幻想になるとは、そういうことなのだ。忘れたことすら忘れてしまう。そこにいたという痕跡はなく、記録もなく、記憶もない。悲しむこともなく、思い出すこともなく、初めからそんなものはなかったものとして、世界は続いていく。
 死ぬ、ともまた違う。
 忘れられて……幻想になる。
 なら、秘封倶楽部とは。
 私とメリーが二人で行っている、実践派オカルトサークルとは、つまるところそれは――
「ねえ、蓮子」
 私が答を出すよりも早く、メリーはさらに一歩踏み出して、横にどいた。私はふらふらと、階段を昇りきって、
 見た。
 廃墟の、人の手が届かない、美しい光景を。
「忘れてしまうには――もったいない光景よね」
 その言葉に頷きながら、私は写真を撮る。
 かち、と硬い音。
 フィルムは、もう残っていなかった。





■ 土曜日は夢の中 ■

 そうして私は、メリーと二人並んで、駅のホームに座っている。
 間抜けな話でもあるし、当然のことでもあった。こんな最果てに何本も電車が通ってるわけがなくて、そもそも終電の時間はとっくにすぎていて。いざ帰ろうと駅まで戻ってきたのは良かったものの、始発の電車を待たなければいけなかったのだ。
 始発が早いのがせめてもの救いだった。駅にはベンチも何もないので、身体を寄せ合うようにして体操座り。おしくら饅頭みたいに触れた体の部分が温かかった。
                    夜は遠く、
                    朝は近い。
「結局、なぁんにも出なかったわね――」
 はぁ、と白い息を吐きながらメリーが言った。視線の先にある空は夜の暗さを失いつつあった。月と星も薄くなり、もうしばらく待てば太陽が顔を出すだろう。
                    夜が終わる、
                    夢が醒める。
「――何かが出たら、どうしようかと思ったわ」
「そのときは写真に撮るわよ」
「フィルム、残っていないのに?」
「う……次からは予備を忘れないようにするわ。アナログフィルムが高いのが悪いのよ」
「それもまた、忘れつつあるもの――ね」
 そうね、と素直に頷いた。廃墟にあったのはどれも、忘れかけたもの、忘れられたものだった。もうしばらくすれば、このカメラだってその仲間入りだろう。いや、私がかろうじて発掘しただけで、本当はとっくに皆から忘れられているのかもしれない。
 秘封倶楽部。
 二つの不思議な目の、オカルトサークル。
 私たちが忘れたものを見るとき――それは、忘れられていないのだ。たとえ向こう側に消えたものだとしても、見ている限り、それはここにある。
 秘封倶楽部に存在意義なんてものがあるとすれば、それは――見ることにあるんじゃないのかと、そんなことを今夜は思ってしまった。
 観測者問題。
 語り手だけでは物語は生まれない。反対側に座った聞き手がいないと――お話は生まれないのだ。
                  失われた御伽噺。
                  忘れられた物語。
「次、があると良いけれど」
 ちらりと肩越しに背後を見て、メリーは名残惜しそうに言った。視線の先には、一晩を共にした廃墟がある。廃れた町。忘れられた世界。次がある保証なんてどこにもない。次にきたときには――何もないかもしれない。
 それを残念だと思うのは、名残惜しいと思うのは、今夜が楽しかったから他ならない。
 メリーがそう思ったように、私もそう思う。
 だから、言った。
「あるわよ、きっと。たぶん、絶対、間違いなく」
「きっと、たぶん、絶対、間違いなく?」
「そうよ! 写真だって撮ったし――何より、私とあなたが覚えてる。それだけで充分でしょう?」
 そうだ。忘れられたものが消えていくというのなら、忘れなければいい。今夜が楽しかったというのなら、また来たいと思えばいい。誰か一人でも覚えていれば、というのなら、私たちがその一人になるだけだ。
 また見にこよう。
 また二人で。
 本と桜と月と花と、神がいなくなったこの町を。
 メリーと、二人で。
 今日みたいに――手を繋いで。
 秘封倶楽部は――二人でひとつの、サークルだから。
                その言葉が嬉しい。
                その想いが楽しい。
                だから少しだけ、
                ちくりと胸が痛んだ。
「……そうね。次は、本当に二人で、来ましょう」
 そんなことを言って――メリーは、ふぃ、と立ち上がった。前触れもなく立ち上がったせいで、体重をかけていた私はころんと横に倒れてしまう。今のどういう意味よ、と、いきなり立ち上がらないでよ、と、どちらを言おうか迷いながら口を開き、

 朝霧を貫く、汽笛の音を聞いた。

 気のせいかと思ったけれど、違った。音はすぐに大きくなる。がたん、がたんという列車の音と共に、音はどんどん大きくなっていく。空を見上げる。もう限りなく朝に近い空に、かろうじて月と星を見ることができた。
 四時五十三分二十四秒、駅のホーム。
 始発がやってきたのだ。
「さ、蓮子。帰りましょう?」
 立ち上がったメリーが、少しだけ膝をまげて私に手を差し出してくる。何となく釈然としないものを感じながらも、その手を拒む理由は、私にはなかった。
 手を指し伸ばして、メリーの手を、握る。
「ええ――帰りましょう、メリー」
 つかんだ手は、朝のように温かかった。
 眩しい光と共に、ホームに列車が辿り着く。さすがは始発、開いた扉の向こうには誰もいない。人の気配がない列車の中へと私たちは手を繋いだまま乗り込んだ。
 後ろで扉が閉まり、私たちが座るよりも早く列車は動き出す。無人の客車の、真ん中の座席の、そのまた真ん中に、私とメリーは腰を下ろした。
 窓の向こうに、廃墟が見える。
 廃墟は、ゆっくりと、ゆっくりと、遠くへ流れていく。速度はだんだんとあがり、廃墟はどんどんと遠ざかっていく。
 夜が遠ざかっていく。
 朝に向かって、列車は走っていく。
「また――来るわ」
 消えゆく廃墟に向かって、私はそう告げた。それは、自分自身への言葉でもあった。きちんと言葉にして残しておきたかったのだ。
 またこよう。
 メリーと一緒に。
「ええ――」
 メリーが頷く。繋いだままの手が温かくて心地良い。二人並んで座っているので、触れた場所すべてから温もりが伝わってくる。
 がたん、                 がたん。
 がたこん、              がたこん。
 規則正しい列車の揺れが、座席越しに伝わってくる。。窓の向こうの景色が、ゆっくりと明るくなり――けれどそれを見る瞳を、瞼が覆い隠そうと降りてくる。
 一夜をあかしたせいか、眠くてたまらなかった。きっとメリーもそうだろう。このままだと、二人して降り過ごすような気もするけれど、体温の心地良さに逆らえそうもなかった。
 それを察したように――メリーが、言った。
「おやすみなさい――宇佐見 蓮子。良い夢を」
 言葉の間にも、意識が薄れていく。それでも私は、最後に、彼女の微笑み顔を見つめて、返事をした。
「おやすみなさい、メリー―――良い現実を」
 そうして、意識は夢の中へと――現実の外へと――落ちていった。 
              





■ 祝日はあけない ■

「……今時アナログフィルムを現像してくれる店なんてないこと、すっかり忘れてたわ……おかげでとんだ手間暇が掛かって……疲れた……」
 座るなりどっと疲れが押し寄せて、私は背もたれに深く身体を預けた。高いところにある天井のせいで、月も星も見えない。そもそも今は昼間なので、天井がなくても見えなかっただろうけれど。
 大学の大講義室。百人単位で収容できる巨大な空間には、人の姿はまばらだった。講義が終わり、昼休みに入ろうとしているせいだ。講義を受けていたのはメリーだけで――私は講義が終わってから入室したのだった。
 できれば講義に間に合わせたかったけれど、仕方がない。いちいちメリーを探しにいかなくて済んだだけで恩の字だと思っておこう。
「……どうしたの?」
 不思議そうにメリーは首を傾げた。あれからまだ二日しか経っていないのに、疲れは少しも窺えない。私なんてまだ体のあちこちが痛いのに――いや、これは考えないでおこう。嫌なことを連想しそうだし。
「どうしたもこうしたも。趣味でやってる写真サークルの人たちに頼み込んで、今ようやく現像が終わったところ。せっかくだから一緒に見ようと思って」
 手に持っていた封筒を、私は机の上に放り投げる。二十四枚の写真は重くも厚くもない。一人で先に見ることもできたけれど――やっぱり、こういうのは一緒に見るべきだと思ったのだ。
 それにメリーなら、写真からも結界の隙間を見ることができる。写真で隙間を見つけたら、今度こそ確実にリベンジすることが可能だ。
 そのメリーはというと、封筒に手を伸ばすことなく、座った姿勢のままで私を見ていた。丸い瞳が、不可思議そうに揺れている。
 首を傾げたまま、メリーはもう一度疑問符を浮かべた。
「…………写真?」
「ボケね……そろそろくると思っていたけど、とうとう来ちゃったのね。安心しなさいメリー、介護しないから」
「ボケの写真なの?」
「違うわよ! あーもう、ボケっとしちゃって……廃墟よ廃墟。廃墟にいったときの写真ができあがったから、持ってきたの」
「………………?」
 らちがあかないので、私は封筒の封を無理矢理ちぎり、中に入っていた二十四枚の写真をすべて机の上にばらまいた。見覚えのある――そりゃ、たった二日前なんだし、自分で撮ったのだから覚えがあるのは当然だけれど――写真が机いっぱいに広がる。
 思ったより、綺麗に写っていた。
 メリーは机を覗き込み、「あら本当」と言って、

「ねぇ蓮子――あなたいつ、廃墟にいってきたの?」

 もう一度首を傾げながら、そんなことを口にした。
「いつって――」
 二日前でしょ、と、そう言おうとして。
 開きかけた口が、固まった。何も言葉は出てこなかった。気付いてしまったからだ。机に広がる写真は、どれもこれも見覚えのある風景。見覚えのある風景だけで、写真には、決定的なものが足りていない。そのことに気付いてか気付かずか、メリーは淡々と言葉を続ける。
「次の日曜日に一緒にいくって……そう言ってたじゃない。十七時に、駅のホームで待ち合わせ。まさかとは思うけど、ついにボケたの蓮子? 日付間違えて一人でいって一人で遊んできたのかしら」
 失礼なことを言わないで――そう言うこともできない。メリーを見ることすらできない。写真に釘付けになった視線を外すことができない。写真。二十四枚の写真。アナログ・カメラで捉えた、廃墟の写真。廃墟の様々なところを写した写真には――風景しか写っていない。

 マエリベリー・ハーンが、写っていない。

 人物の写っていない、風景の写真しか、そこにはなかった。撮ったはずのメリーは、どこにもいなかった。
 どこにも。
 どこにも、いない。
 ここに。
 ここに、メリーはいるのに。
 さらにメリーは言う。「それにこの写真、隙間だらけじゃない。生半可な心霊スポットでもこうは……聞いてるの、蓮子? ねぇ、ちょっと蓮子――?」聞いていない。聞こえているけれど、届いていない。意識はすべて、写真に向けられている。ここにメリーはいる。なら、阿の日、あそこにいたメリーは誰だったのだろう。そもそも私は本当に、あの廃墟にいったのだろう――――
 誰もいない写真の向こうで、誰かが笑った気がした。                    



                     (了)






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そして二人は何処へいく?


「うーあー」
 と、ナマケモノのような悲鳴を蓮子があげた。時間は不明、場所は秘封倶楽部の隠れアジトAこと宇佐見 蓮子の賃貸アパート。狭い部屋の中には時計もあったし、そもそも少し顔を動かして窓の外を見れば、時間も場所もわかるのだが――それをする気力すらなかった。コタツに体を埋め、座布団を枕にして天井を見ている。
 端的に言えば、何もしたくなかった。
 本気で『息をするのすら面倒くさい』と思ってしまう。
「あーうー……」
 秘封倶楽部のもう一人――マエリベリー・ハーンもまた、似たようなものだった。小さなコタツの反対側に座り、コタツの上にほっぺたを乗せて指先でみかんを突いていた。どうみても目が死んでいる。だらしなく開いた口から漏れるのは、果たしてため息かエクトプラズムか。
 いつも通りの秘封倶楽部の活動、ではない。
 そこにいたのは、疲れきってだらけきった二人の少女でしかなかった。結界の隙間も月星を見る目も関係なく、だらだらと、だらだらだらとしている。
 ある種、目をそらしたくなる光景ですらあった。
「疲れたわ、メリー……」
「奇遇ね、私もよ蓮子……」
 顔も動かず、視線も動かさず、声だけが漏れた。何をする気力もないが、何もしないと暇で死にそうなのだ。
「メリーはいいわよ……いつもぽややんとしてて……私はもーダメ、もームリ。もう疲れましたー」
「蓮子はいつでもはしゃいでいるからいいじゃない……その点、私は線が細いから……」
「……言ってて虚しくならない?」
「お互いに、ね……」
 はぁ、と、どちらからともなくため息。吐息の二重奏は、小さな部屋の中で消えることなく、床に溜まって重くなった。
 一人暮らしの大学生にしては、大きめの部屋だった。といっても、その大半がベッドとコタツ、それからわけのわからないもので埋められていて、見た目的には広いと感じられない。メリーが片付けても片付けても新しく買ってくるので、部屋の隅には本が塔を造っていた。
 いつもなら定期的にメリーが片付けるのだが――今はとてもではないが無理だった。
 蓮子も、メリーも、疲れている。レポートの課題が重なったわけでも、アルバイトで疲れたわけでもない。お互いに、理解することのできない不可思議な現象に巻き込まれて――疲れていた。
 オカルトを探求する秘封倶楽部としては願ったり適ったりなのかもしれないが、さすがに重なると辛い。今回は特に日常に紛れた、理解のできない不可思議だった――ひょっとしたら夢だったのかと思うほどに――だけに、精神的にも疲れはたまっていた。
 そんなわけで、二人して二度目の溜め息を吐いたのだった。息の吹きかかった指先でミカンをぴん、と弾きながら、メリーが言う。
「……何かあったのー?」
「あったわよもうそりゃー嫌って言うほどにありすぎて何があったのか忘れるくらいに。時計兎を追って井戸に飛び込んだらネヴァーランドでチクタクワニとラインダンスを踊っていた気分だわ」
「そこはかとなく楽しそうね」
 そんなわけないでしょー、と蓮子。コタツの中でのそのそと足を動かしてメリーの足を蹴りつける。力が入らず、蹴るというよりは撫ぜるような形になった。
 メリーは「ん」と小さな声を漏らし、もぞもぞと座りなおして、
「……蓮子の変態」
「何がよ!?」
 意にそぐわぬことを言われ、蓮子はがばりと起き上がるが、それだけで残り少ない気力を使い果たしてしまった。へなへなと、こたつの上、メリーの前で頬杖をつく。
 溜め息ひとつ。
 頬を膨らませ――そして僅かに紅くした――メリーが小声で「変態」と繰り返すが、今度は受け流した。
「メリーは?」
「私は変態じゃないわよ!」
「誰がそんなこと言ってるのよ! 我らが秘封倶楽部の期待のホープ、マエリなんとかハーンさんはなんで疲れてるのかって訊いてるの。あなたも何かあったの?」
 小さなコタツの上に二人の顔が乗っているせいで、間近で視線がからみ合う。その視線をそらすことなく、じっと蓮子の目を覗き返しながら、メリーは答えた。
「うん……それがね。何もなかったのよ」
「何もなかった?」
 のに、なんで疲れてるのよ――と言うより早く。
 疲れた声で、メリーは続けた。
「なーんにもなかったはずなのに――やけに疲れているのよ。どれくらいかというと、年甲斐も無く一人で遊園地にいってすべての乗り物を制覇してあまつさえ気に入ったジェットコースターには三回も乗って、マスコットキャラクターと写真を撮った挙句にショーにゲストとして参加して、両手で抱えきれないくらいのお土産を買って帰ったくらいに――疲れているの」
「……や、やけに具体的な例ね」
「なんとなく、そんな気がするのよ――そんなことをした記憶はないし、そもそも、なぜか記憶が――飛んでるけれど。なぜだか蓮子、知ってるかしら?」
「知らないわよ。白昼夢でも見たんじゃないの?」
「やっぱりそうかしら……」
 メリーはふぅ、と吐息を吐き。

「……昨日って、いつだったかしら?」

「……傍点つきで言ってくれたところ悪いんだけれど、今日はそういうこと話す気力すらないわよ。まだ人工キャベツと人工レタスの味の違いを論じた方が良いわ」
「蓮子は美食家ねー」
「当たり前よ、美食家だもの。……ま、味なんてものも、そのうち幻想になっちゃうんでしょうね――」
 言いながら、机の上にあったミカンを蓮子は弾いた。ころころと転がり、机の上から落ちかけたミカンを、ぎりぎりでメリーの手が受け止める。手の中で二、三度回し、それから片手で器用に皮を剥きながら、
「でも――この味はまだ、幻想になってないわ」
「コタツとミカンはきっと永遠に忘れられないわよ……ひとつ頂戴」
「あなたのミカンでしょう? 食べればいいじゃない」
「言い直すわ。ひとつ剥いて頂戴」
「怠慢だわ……」
 はぁ、と呆れたようにメリーは息を吐いて、片手のままで皮をすべて剥いてしまう。爪の先で白い筋をはがし、ミカンの実を指先でつまむようにもって、
「はい、あーん」
 蓮子の口の前に、差し出した。
「……幼稚園児じゃないわよ?」
「それ以下ね」
 言いながらも、既にミカンは蓮子の口元まで運ばれている。突き出されたそれを、蓮子は結局、
「あーん」
 ぱくりと食べた。
「指!? 指ごと!」
「…………………………………………………………」
 もぐもぐ。
「せめて指を離してから咀嚼しなさいよ!」
 指をくわえ、死んだ目をしたまま口を動かす蓮子にメリーは悲鳴のような声を漏らす、漏らすその間にも口が動く。ミカンを食べているのか指を食べているのかわかったものではなかった。無理に引き抜くこともできないのか、舌と唾液とミカン汁で指を嬲られてしまう。
 ちゅぽん、と蓮子が口を離したときには、指は唾液でてかてかと光り輝いていた。
「……蓮子……」
「美味しかったわ――お代わり」
「指を? ミカンを? 指を美味しかったって言うなら、明日から蓮子のあだ名は人喰い妖怪蓮子ね」
「最近の妖怪は美食化が進んで人間なんて食べないそうよ。好物は人工の栄養食品」
「それはそれで、せちがらいものがあるわね……」
 溜め息を吐きながら、メリーはもう一度ミカンをつまんで蓮子の口元に運ぶ。今度は指を食べることなく、ミカンだけを唇で器用に受け取った。
 親鳥から餌をもらう雛のようだ、と思い、つい笑んでしまう。同じことを思ったのか、メリーも微笑んだ。
 微笑みを見ると、少しだけ疲れが消えていくような気がした。溜め息をすると幸せは逃げる――ならば、笑うと幸せはやってくるのだろうか?
 それなら私たちは大丈夫よね――そう思いながら、蓮子は笑う。
 二人でいるなら、いつだって笑えるだろうから。
「ねえ、メリー――」
 蓮子は、何かを言おうとして。

 その瞬間に――時計の鐘が鳴った。

 二人して、まったく同時に、時計を見た。部屋の隅に置かれた時計は、長針と短針が揃って十二を指していた。アラームなのか時報なのか、時計の音はすぐに止まり、アパートの一室には再び静寂が戻る。
 メリーは、ゆっくりと視線を戻し、蓮子を見て。
 蓮子は――
「さぁメリー! 秘封倶楽部の活動といくわよ!」
 先ほどまでの疲れた様子はいったい何だったのか。喜色満面な笑顔を浮かべ、力強く拳を造りながら立ち上がった。机の上にあったミカンの残りを手に取り、まるごと口に放り込んであっという間に残らず咀嚼する。
 唖然として、メリーは声を出すこともできない。
 呆けるメリーの頭に帽子を放り投げ、無理矢理に被せながら蓮子は叫ぶように歌うように笑うように言う。
「夜は短いんだから、ぼおっとしている暇はないわよ! すぐに朝が来るわよ! さぁ、早く速く!」
「ちょ、ちょっと蓮子!? あなた、疲れてたんじゃなかったの――」
 狼狽しながら、それでも何とか――蓮子の気迫につられるように――立ち上がりながらメリーが問う。
 その問いに、蓮子は笑いと共に答えた。
「疲れていたのは昨日! もう『今日』でしょう? 昨日なんてもう遠い過去よ! さぁ、いくわよメリー!」
「……また疲れるわよ?」
「明日には元気になってるわよ。私とあなた、二人でいるなら――大丈夫よ!」
 それが秘封倶楽部なんだから。
 そう言って、蓮子は笑う。笑いこそが力だというように。楽しくて、仕方がないと言いたげに。疲れることも、楽しいからだと――そう言いたげに、宇佐見 蓮子は、笑いかけてくる。
 メリーは―― 
 マエリベリー・ハーンは。
 秘封倶楽部の相棒は、その笑いを受けて――微笑んだ。
 疲れを忘れたように、微笑んで。
「えぇ――そうね、蓮子。その通りだわ――」










「さぁ始めるわよ――秘封倶楽部の活動を!」









 



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あとがきに代えて


「……これ何ですか、×様?」
「おみやげ。×にもあげていいわよ――」
 彼女は両手にかかえたお土産を畳の上に広げた。抱えきれないほどに持っていたぬいぐるみやお菓子が山を造る。やたらとファンシーなそれらを見つめながら、彼女の式は「はぁ……」と困惑げな顔を浮かべて、そのうちのひとつ、黒猫のヌイグルミへと手を伸ばした。
「……どこのお土産でしょうか、これは」
「夢の世界のお土産よ」
 そう言って、彼女は微笑んだ。
 微笑む。
 彼女の笑みは、すべての質問を黙殺していた。何を言うこともできず、不可思議そうな顔をしたまま、彼女の式はヌイグルミを抱きかかえた。
 それもそうだ――それらの「お土産」は、布団から一歩も出ないままに彼女の腕の中にあったのだから。今も、彼女は半身を横にしたままに笑っている。
 とはいえ、彼女の行う「不思議」は不思議なことではなく、式も慣れている。なぜそんなことをしたのか、という疑問が残るだけだ。
 質問を必要とせず、疑問に対して彼女は答える。
「楽しい夢だったから――つい、ね」
 それは答えにはなっていなかったけれど、それを言う彼女の笑みが、心底楽しそうだったので。
「それは――良かったですね」
 式は素直にそういった。
 彼女は「ええ」と頷き、それからゆっくりと身を起こす。長い時間眠り続けていたが――そして、長い長い夢を見ていたが――目覚めは爽やかだった。外では冬が終わり、溶け始めた雪の向こうに春の日差しが見えている。
 縁側まで歩み、彼女はそこから外を見た。
 彼女の世界を。
 彼女の現実を。
 彼女の夢を。
「ねぇ――×」
 そうして、彼女は。
 振り返ることなく、幻想の郷を見つめたままに、微笑みながら――背後に控えた自らの式に尋ねたのだった。

「私の名前は――何だったかしら?」










 



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「僕の名は夢幻です。夢幻魔実也というのですよ」
《夢幻紳士》




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