――何も悩む必要はなかった。
 考えるまでもないことだ。校舎の前で、図書室ではなく屋上へと進むことを選んだ時点ですでに答えは出ているのだ。僕はここに、戦いにきたのでも殺しにきたのでもない。アリスなんてものと対決するためにやってきたヒーローでもない。
 姉さんの仇を――取りにきた、わけでもないのだ。
 選んでしまった。
 僕を必要として、最後には必要としなかった姉さんではなく。
 僕を守るといった、彼女を。
 彼女とともに進むと、そう決めたんだ――
「如月更紗ぁ!」
 マッド・ハンターではなく。
 如月更紗と、そう名前を叫んだ。裁罪のアリスと斬り合っていた如月更紗は、余裕綽々に僕へと振り返る。見ずとも振るう鋏がアリスの傘を打ち払う。まるで、名前を呼ばれただけで力がわいたかのように。けれどそれも、長くは続かないだろう。このまま斬り結び続ければ、アリスに押されるのは僕の目にも明らかだった。
 だから。
 僕は叫ぶ。如月更紗の黒い黒い瞳から目をそらすことなく。彼女も目をそらさない。じっと、僕の瞳を覗き返してくる。僕の言葉を待っている。一瞬にも満たない間、その瞳に様々なことを思い出す。屋上で鋏を突き付けられたときの真摯な瞳を。今夜同じ屋上で、僕が現れたときに見せた、驚きの中にあった僅かな安堵を。
 最後に。
 教室の隅。窓際の席で、どこか遠くを眺めている、まだ名前も覚えていなかった黒い瞳を思い出して。
 僕は、叫んだ――

「――来いッ!」

 彼女は、拒まなかった。何を問うこともためらうこともなく、即座に反応した。
「えぇ、ええ、ええ!」
 にやにやとした笑みを浮かべながら、如月更紗は踵を返して駆けてくる。バック・ステップですらない。完全にアリスに無防備な背中を向けて、全速力で僕の元へと駆け寄ってくる。彼女たちにとっては死の象徴である『アリス』に背を向けて、僕に信頼を委ねて。
 それが――少しだけ、嬉しかった。
「逃げていいのは、兎だけ――」
 勿論裁罪のアリスはそれを許すほどに甘い存在ではない。戦いを放棄した如月更紗へと、迷うことなく後ろから斬りかかろうとする。如月更紗は振り返らない。
 ――そんなことは予想済みだ。
 だから、僕もまた迷いなくためらいなく。
「――兎は死んだんだよ!」
 魔術短剣を、アリスめがけて投げつけた。
 姉さんの形見である魔術短剣を、僕は手放した。
 当たるとも当たらないとも思わなかった。身体はごく自然に動いた。魔術短剣の偏った重心のせいか、刃を前にして真っ直ぐにアリスへと飛来する。如月更紗の頬、すぐ横を通りぬけて後ろへ――アリスの胸元へと吸い込まれるように魔術短剣は飛んだ。アリスの表情は変わらない。当然のように魔術短剣は打ち落とされる。
 そう。
 如月更紗に振り下ろすべく傘を振り上げていた以上、不意の一撃をその傘で防がざるを得ないのだ。動きが一瞬だけ止まる。足がわずかに鈍る。
 その一瞬で十分だった。全力疾走する如月更紗はアリスの間合いから抜け出し、弾かれた魔術短剣は屋上を転がり、僕はそれを拾いにいくことなく、
 校舎の内へと続く扉を開けた。
 そして、僕は。
 手を指しのばす。
 彼女へと。 

 ・・・ ・・
「行くぞ、更紗!」
 そう名前だけを呼んで――名前を呼ばれた更紗は、その意味がわかっているのかいないのか、嬉しそうに笑った。ああ、わかっているのだろう。その、にやにや笑いではなく、満面の笑みとも言っていいようなそれは、僕の心境の変化をすべて見通している笑いだ。僕が選んでしまったことに気づいている目だ。
 ……照れくささに顔をそむけたくなる。
 そんな余裕は一切ない。僕は顔をそむけなかったし、更紗は目をそらさなかった。お互い見つめあったままに、駆けてくる如月更紗は、鋏を握るその手を僕へと差し出してきた――危ないなこいつ! なんて突っ込む暇もなく、鋏ごとその手を握り、僕は一気に引き寄せるようにして、
 屋上から校舎の内側へと転がりこんだ。
 同時に扉を力いっぱいに閉める。重い鉄の扉が、迫りくるアリスの前で音を立てて閉まり切る。鍵なんてない――だから僕は、胸の内に更紗を抱きよせたまま、力の限りにノブを抑え混んだ。
 勝算はあった。
 力比べで勝つ自信、ではない。扉を無理やりこじ開けるような、物語的でない方法をアリスはとらないだろうという勝算だ。狼と七匹の子ヤギで、狼は無理やり扉をあけはしなかった――そんな計算ともつかないようなあやふやな予感だ。
 願望とすらいっていい。
 わずかに、祈った。
 何に祈ったのかは――自分でも、よくわからなかったけれど。

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