美術室の怪






 全ての物語に意味があると考えてはいけない。
 世の中には稀に、しかし確実に意味の存在しない寓話が存在する。
 例えば――そう、美術室の怪。



        ◆


 閉じた左目が熱かった。
 眼球が熱いのか、目の肉が熱いのか、それとも左目に埋め込んだガラスが熱を発しているのかは判らなかった。
 どれだとしても危険なような気もするし、 別にどうということはない気もする。
 ――八純先輩だって、同じことをしてたんだから。
 水内範子は自らをそう鼓舞して、開いた右手でぐるりと美術室の中を見渡した。
 昼もまだ遠い美術室には他に人の姿は無かった。普通の生徒は今ごろ授業中だ。
 いるはずはない、誰も来るはずは無い。
 そうはわかっていても範子は焦った。
 いつ奴らが来るか判らないからだ。
 幽霊を従えた八純先輩の敵が、いつ自分の元に現れるか知れたものではなかった。
 奴らはきっと、自分を見つけたら殺そうとするに違いない。
 八純啓先輩をそうしたように。
 絶対にバレない方法で殺すに決まっているのだ。
 そんなことはさせない。
 ――八純先輩の敵は、私が取るんだ。
 視線を走らせただけでは目的のモノは見つからなかった。
 範子は左手で左目を押さえ、残った右手で美術室の中をさぐる。
 ポスターカラーや筆や作品が入った棚をぶちまけ、引き出しの中をひっくり返し、すべての道具をあさってソレを探した。
 無い。
 十数分ほど捜して、それでも諦めきれずに捜して見つからず、範子はようやくそのことを自覚した。
 どこにも無い。
 他の何もかもはあるのに、八純先輩のパレットナイフだけがない。
 絶望的だった。
 奴らを倒すにはただの武器じゃ駄目なのだ。
 魔術師の才能があった八純先輩が、常日頃から使い続けていた魔術武器が必要なのだ。
 それを使って初めて、奴らと偽者を殺すことができるのだ。
 そういう意味では、パレットナイフは最高の武器だった。
 なのに、無い。どこを何度捜しても、八純啓と書かれたパレットナイフは出てこなかった。
 範子は諦めようかと一瞬だけ思い、やはり諦めきれずに床に散らばった物をひっくり返そうとした時、

「――捜し物はこれかな?」

 いきなり声がした。
 聞き覚えのある、懐かしい、二度と聞くことの無いはずの声だった。
 範子は淡い期待を込めてゆっくりと振り返る。
 そこには――誰もいなかった。
 美術室の真ん中に、椅子が一脚ぽつんと置いてあるだけだった。
「…………!?」
 不意に、左目が痛んだ。
 ガラスの破片が入った左目が、今までで一番強く熱を持ったのだ。
 範子は堪えきれずに――
 予感に導かれて――

 左目を、ゆっくりと開いた。

 そこに、八純啓がいた。


 左目の鏡が写す視界の中には、確かに八純啓がいた。
 右目の視界では誰も座っていないはずの椅子に座っていた。
 その右手に、パレットナイフを持っていた。
 一寸昔と変わらない笑みを浮べていた。
 ――ああ、やっぱり。
 範子は思う。
 ――私は、間違ってなかったんだ。
 左目にガラスを埋め込むのは間違いじゃなかった。
 その証拠に、力を得たのだ。
 死んだはずの八純先輩が見える。他にもいろいろな怪奇が見える。
 今ならどんなことでも出来るような気がする。
 世界が自分のものになったような万能感に範子は打ち震えた。
 その様子を、八純啓は笑いながら見ていた。
 生前とは違った、どこか歪な笑みを浮べて。
 八純啓は能面のような微笑を浮べて口を開く。
「おいで」
 優しい、けれども有無を言わさぬ口調だった。
「――はい」
 範子は何かに魅かれるにふらふらと近寄る。
 その眼に左目を痛む様子や、不審の色はない。
 主を信じて疑わない。忠犬の目をしていた。
 範子は八純の側まで来ると、何も言われないうちから跪いた。
 糸の切れた人形のように、「女の子座り」をして、上目遣いに八純を見上げた。
 主人の言葉を待つ犬のように。
 八純啓は笑いながら、
「いい子だ」
 パレットナイフで、右手の人差し指をスッ、と引いた。
 赤い線が走って、ぷくっ、と血の玉が出来る。
 血の玉はすぐに大きくなり、血の筋を残して次から次へとあふれ出した。
 八純啓は人差し指を範子の眼前に突きつけて言う。
「舐めて」
 範子は黙ってそれに従った。
 手も使わずに、舌だけで犬のようにぺろぺろと八純の手と血を舐めた。
 文句や批判のひと言も言わずに、無言で八純の血を舐めた。
 否、むしろ――
 心底嬉しそうな、恍惚の表情を浮べていた。
 血を美味しいと心から感じているような、八純の血に性的快感を感じているかのような、そんな貌だった。
 ぴちゃ、ぴちゃ、とどこか卑猥な音が無人の美術室に響く。
 その音を聞くのは誰もいない。
 もしここに誰かがいたとしても、範子一人が傅いて中空を舐めているようにしか見えないだろうが。
 いつまでも続くかと思われた享宴は、やはりいつまでも続いた。
 時間の流れは無意味だった。
 止まらない血を、範子は延々と舐め続けた。


 彼女が再び我に返ったときには、時計の針は昼を回っていた。
 美術室には誰の姿も無かった。
 唯、椅子の上にパレットナイフが置かれていた。



 パレットナイフには名前が刻み込んである。



 ――八純・啓と。





◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あとがき。
ミッシング小説・八純啓の怪奇でした。


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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。

残りは夜にでも。

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