ファースト・コンタクト



 こっそり忍び込んで泳げばいい、とエリカは言った。
 だから、私はやろうと決めた。
 園原基地から抜け出して、たった一人で学校のプールで泳いでやろうと伊里野加奈は思った。

        ◆

 八月三十一日の、午後七時が過ぎた。榎本への定時連絡は済ませたし、今夜はもうソーティはない。警報が鳴らない限りはやることは何も無い。
 つまり、この先わたしが何をやろうと、気づかれることはまず無いのだ。部屋でおとなしく寝ている――そう思っているに違いない。
 軍用のディバッグに必要なものを残らず詰め込む。バスタオル、水泳帽子、椎名が買ってきた名札の無いスクール水着。薬の瓶を忘れないように奥の方につめ、その更に奥に自動拳銃を詰める。無線機もトランスポーターも必要ない。こっそり行ってこっそり泳いでこっそり帰ってくるだけだ。
 親指ほどもあるジッパーを閉めて、服の下に肉厚のコンバットナイフを装備して準備完了。
 園原市はスパイの街だ。危険が無い、とは言い切れない。
 それでも、伊里野は泳ぎたかった。
 学校になど、行きたくなかった。
 二つの願いをかなえるための方法は、これしかない。
 ディバックを肩にかけて園原基地を抜け出す。警備の巡回パターンも抜け出す方法も熟知している。わからないところはエリカが教えてくれた。「外出」するのはそう難しくないし、そのための幾多の方法は教わっている。白兵戦やその他の技術だって一通りは出切るのだ。
 伊里野は基地から抜け出し、第四エプロン方面のスポーツ公園に止めてあった自転車の鍵をナイフで壊して徴発した。
 園原基地と園原中学校を繋ぐバスはあるにはあるが、公共の乗り物は足がつくからまずいのだ。ひとたび連絡が入ればゴリラそっくりの黒服の男が五分と待たずに駆けつけて、基地に連れ戻されてしまう。
 それは困る。とても。
 けど、歩いていくには遠すぎる。だから伊里野は自転車を借りた。持ち主が誰かはわからないが、マメな改造や調整がしてあるのか乗り易くて速かった。本来の持ち主に心の中で感謝する。
 園原中学にたどり着いたのは、八時になる少し前だった。
 自転車を適当なところに乗り捨てて、北側の通用門を乗り越える。
 部室長屋の裏手を足早に通り抜ける。
 恐らくは夏休みのあいだに敷設されたセンサー郡は、まだ稼動していなかった。もし自分が学校に通うようになれば、この設備はフル活動するに違いない。たった一人だけになったブラックマンタのパイロットを、危険にさらすわけにはいかないだろうから。 
 が、それは今の伊里野には関係のないことだ。今日泳いでしまえば、学校になど何の未練もなければ行く気もない。一日中エリカと話してるほうがマシだ。
 敷地に潜入したスパイのように焼却炉の陰からこっそりと周囲の様子をうかがう。右手に体育館、正面に木造校舎、そして左手には園原地区第四防空壕。何かあればあそこに駆け込めばいい。
 誰の姿も無かった。
 セミの声と街の声しか聞こえなかった。
 どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。もしかしたらあれはわたしを探しているのかもしれない――と伊里野は思う。急がなければならない。たとえあれが違っても、榎本辺りが意味もなく部屋を訪れて自分の不在に気づくかもしれないから。
 周囲に誰もいないことを再度確認して、体育館傍、プールまでの30メートルを一気に駆け抜けた。
 ブロック塀の陰に走り込む。自分の姿が誰にも見られなかったことを確認してから、伊里野は重大なことに気づいた。
 ――どうやって入ろう。
 そこまで考えてなかった。更衣室のドアには鍵が掛かってる。フェンスをがちゃがちゃ言わせながら登るのは論外だ。目立ちすぎる。
 ……エリカ、どうしよう?
 エリカの返事は無かった。そう言えば、園原基地を出てからエリカの声は一度も聞いてない。
今も部屋で待っているのかもしれない。エリカは、時々フラッといなくなるから。呼んでも現れないことがたまにあるから。
 自分でなんとかするしかないのだ。
 ここまで来て帰るのは、悔しかった。
 更衣室のノブをつかみ、力いっぱい回す。これで駄目なら鍵を破壊するか見つかるのを覚悟で壁を登るか――そう思った瞬間、あっけなく扉は開いた。老朽化が進んでいるのか、更衣室の鍵は鍵の役目を果たさないで死んでしまった。
 幸運だ。FCSの感度がいいときくらい嬉しい。
 真っ暗な更衣室の中を、かろうじて見えるロッカーの輪郭を伝って、塩素のにおいがする湿っぽい闇の中を伊里野は手探りで進んだ。水の出し方がわからないシャワーと何も入っていない消毒槽を素通りし、濡れた床で滑らないように気をつけながら歩く。
 スイングドアを押し開けて、夜のプールサイドに出た。
 凄かった。
 生まれて始めてみるプールは、想像していたものと全然違った。海と似たようなもの、としか思っていなかった。まったくの別物だと、椎名真由美が言っていた緑色のこけが生えた汚い場所という言葉が嘘だということにようやく気づいた。
 縦25メートル横15メートルのその場所は、伊里野にとっては別世界だった。幻想的なまでに凪いだ水面に、数億年前に死んだ星たちの光が散りばめられている。プールの形に夜空を切り
取ったのごとき光景に伊里野は目を奪われた。
 これを見れただけでも、きてよかったと思えた。
 ここで毎日泳げるだなんて、中学生という存在はなんて素晴らしいのだろうと思った。
 星の光の下で、伊里野は服を豪快にすべて脱ぎ、スクール水着に着替えた。誰も見ていない
というのに、律儀に水泳帽子までつけて。水泳とはそういうものだ、と教わったのをそのまま実践して。

        ◆

 着替え終わったら、やることが無くなった。
 どうすればいいのかがわからない。
 今まで一度も泳いだことがないのだ。何から始めればいいのかわからない。まずはプールの中に入るところから始めればいいのだろうが、プールに触れた瞬間真っ暗の水面に引き込まれて溺れ死んでしまうような気がする。
 何をすればいいのかわからず、それでも何かしなければと思い、伊里野はプールの手前右角にしゃがみ込んだ。傍らの手すりをしっかりと握る。こうすれば引きずり込まれない、とでも思っているのだろう。
 そのまま、伊里野はひたすら水面を見続けた。
 泳ぎたい。泳げるようになりたい。けど、何をすればいいのかわからない。それでも泳ぎたたい。泳げるになりたい。けど、何をすればいのかわからない――
 ぐるぐると回る思考にとらわれながら、伊里野はしばらくの間じっと水面を見つめ続けた。
 ――パトカーのサイレンが再び聞こえてきた。
 その音で伊里野は思考から抜け出された。自分は何をしているのだ、ぐずぐずしてるとプールに触れることもできないまま送り返されるぞ――臆病な自分を伊里野は叱咤し、それでも身体は動かない。ディーン機関なしで連続マヌーバでもやる方がまだ怖くないと思う。
 ありったけの勇気を込めて、左手を伸ばした。右手は今まで以上に手すりを強く握り締めている。野戦反応時なら握手で相手の手を握りつぶせる握力で必死にしがみつく。
 左手の先が、水面に触れた。
 引きずり込まれなかった。
 指先で小さく水をかき回す。木の葉一枚浮かんでいない水面に波紋が幾重にも生まれ、波紋はレーダー波のように水面渡って、プールの縁に行き着いて反射する。
 その様子を、伊里野はずっと見ていた。
 ちょっと楽しいと思う。センシングのやり方を覚えたてのころと同じ気分。
 これなら、泳げるかもしれないと伊里野は思う。そういえば準備体操というのをしていない。それがどんなものかは知らないが、体操というからには身体を動かすのだろう。それが終わっら、とにかくまずは水に入ってみよう。
 そんなことを考えながら伊里野は立ち上がり――

「あの、」

 一人の少年に、出会った。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

あとがき。
伊里野の空・UFOの夏 アニメ化記念。
個人的には猫の地球儀を最もアニメ化してほしいのだが……それ以上にEGFを早く出してほしい。
完全な秋山作品(鉄コミは厳密には違うだろう)がアニメ化するのはこれが始めて。
伊里野が売れて、他の作品もアニメ化されるのを祈ってます。
猫はOVA向きだろうけど。

内容は一巻第一章・第三種接近遭遇より。
伊里野の側からのお話でした。
最も書きたいのは『水前寺の夏』。ファイアーストームと初恋の話。
それか浅羽夕子の夏。ほ兄ちゃんと水前寺と伊里野が失踪した頃のお話。


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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。

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