終わらない夏・後編




 薬はやっぱり利かなかった。
 ヘリを飛ばして六時間。あまりに長いその時間は眠っていればいい、榎本はそう言って何錠かの薬を渡してくれたが、不思議なことにまったく利かなかった。体質が合わなかったのか薬でも抑えられないほどに興奮していたのか。六時間は長く、体感時間はさらに長かったことは確かだ。六時間というのは実は嘘で、三十二時間くらい飛んでいるのではないかと思ったくらいだ。
 ヘリの中でふと、親にまた何も言ってこなかった――と思ったがどうしようもなかった。
 また前と同じように怒られるしかない。
 その事を考えたら少し凹んだが、いつまでも考えてはいなかった。
 意識のほとんどは、南の島と――そこにいる少女に向けられていた。
 伊里野。
 伊里野加奈。
 彼女が「何」だったのか、実のところ浅羽はよく解っていない。
 ブラックマンタのパイロット。それは確かだ。
 地球を救った救世主。それも多分本当だろう。
 けれども――浅羽にとっての伊里野は、人見知りが強く少し我侭で猫が好きですぐに鼻血を出す少女だった。その正体や生い立ちなど、いつか椎名真由美が言ったように少しも知らない。パイロットとしての伊里野だって、あの日無人の公園で話を聞いたくらいだ。
 そして浅羽は――【浅羽直之】が本来知りえるはずのないことも、知っていた。
 夏の日の逃避行。
 伊里野の手を引いて逃げ続けた日。
 学校での秘密基地のような生活。
 出会いと、裏切り。裏切られて裏切って裏切られた思い出したくない忘れられない出来事。
 そして――逃避行。
 園原基地からの逃避ではなく、現実の世界からの逃避。
 記憶から逃げるたび。
 退行を繰り返しながら、伊里野と【浅羽直之】ではない浅羽は歩き続けた。
 伊里野の過去に触れながら、伊里野の心に触れながら、浅羽は歩き続けた。
 その果てには――何も無かった。
 海が終わっていた。
 世界が終わっていた。
 伊里野の世界も、行き着く所まで行ってしまった。
 浅羽は知った。全てを。伊里野の全てと、伊里野の全てを初めから見ていた榎本の気持ちを。
 屋上でカップ麺を食べながら、浅羽は全てを知ったのだ。
 仮の終戦。
 新聞の向こうに隠された真実が、ヘリの形を取って学校へとくる。
 そして、南の島へ――
 浅羽はそこまで思い返して、ため息を吐いた。
 ――本当に色々なことがあった、と思い返して。
 もしその全てを本にすれば、四冊は行くのではないかと思うくらいに色々なことがあった。
 そして、今また浅羽は南の島へと向かっている。一年前と同じように。
 一年前は、その先に少女がいた。
 壊れかけた少女を浅羽は救い、彼女を空に還した。
 少女は空に還り、戻ってくることは無かった。
 一年後の今、浅羽は南の島に向かっている。
 空に還ったはずの少女に会いに。
「……本当に伊里野がいるんですか?」
 向かい側の席、アイマスクをかぶっている榎本に言う。
 返事は期待していなかったが、きちんと返ってきた。寝てはいなかったらしい。
「いるぞ。俺が今まで嘘を付いたことがあったか?」
 何を馬鹿なことを――と言おうとして、浅羽は気づいた。
 自分の知る限り、榎本が嘘をついたことは一度も無いことに。
 それが解ったからこそ、浅羽はそれ以上何も言わなかった。
 榎本も何も言わず、アイマスクを外して外を見た。
 同時に、パイロットが英語で何かを言う。
 パイロットに英語で返事を返し、榎本は浅羽に向き直った。
「おい、もう着くぞ。降りる準備しとけ」
 準備――と言われても、もって降りるものなど何も無かった。
 冗談のつもりで持ってきたダッフルバックはプールにおいてきた。それ以外には何も持ってきていない。右手に包帯すらしていない。
 しいて言うなら、緊張を抑えることくらいだ。
 ヘリは順調に南の島――空母・タイコンデロガに降りた。
 タラップを降り、浅羽は大きく深呼吸をする。
 夏の匂いがした。
 赤道直下の、一年中終わらない夏の空気がそこにあった。
 終わることの無い夏が、一年前のあの日からずっと続いているであろう夏がここにあった。
 浅羽は目の上に手で傘を作り空を見上げる。
 青天の霹靂。
 その言葉がちょうど合うと思った。
 行くぞ、と榎本に声をかけられるまで、浅羽はずっと夏の空を見ていた。
 榎本の後ろをついて歩く。
 真っ先に気になったのは、周りの兵隊の視線だった。
 ほとんどは外国人だったが、その誰もがひそひそと話しながら浅羽を見てくる。当然何を言っているかは解らないが、想像はついた。
 格納庫に向かうのだろうか――と思ったが、違った。
 榎本が進む先は、いつかとは道が違った。
 階段を登ったり降りたりせず、通路をひたすらに歩くだけだった。
「ここだ」
 榎本が急に立ち止まり、浅羽は榎本にぶつかりそうになってあわてて立ち止まった。
 何の部屋だろう、と浅羽は馬鹿でかい扉のプレートを見るが、英語で書いてあって読めなかった。
 視線を読んだのか、榎本が言う。
「食堂だ」
 食堂――その言葉を聞いて、浅羽の脳裏に伊里野の言葉が蘇った。
 同時に、悪寒。
 果てしなく嫌な予感。
「中には伊里野しかいない」
 そう言って、榎本は扉に手をかけた。
 嫌な予感は止まなかった。
 この先に待っているのは、幸せな展開ではないと、浅羽は気づいてしまった。
 それでも、今更引き返せなかった。
 いつから引き返せなくなったのかは忘れてしまったけれど――伊里野のことを忘れるだなんてことは、浅羽には出来なかった。
 榎本が、扉を開けた。

 ――そして、伊里野はそこにいた。

 食堂の一番奥の席。
 食堂で一番上等な皿と、ぴかぴかに磨いたナイフとフォークが並んである席。
 テーブルのすぐ近くの壁には、真鍮製のプレートが掛けてある。
 そこには、こう書いてある。
 “MIA ―― You are not forgotten.”
 MIAのためのテーブル。
 任務中に行方不明になった人のためのテーブル。
 タイコンデロカの艦長ですら座れないその席に、伊里野は座っていた。
「――伊里野ッ!!」
 浅羽は思わず叫び、何も考えずに机と椅子を弾き飛ばしながら駆け寄って伊里野の前に立ち、
 ――ゾッとした。
 幽霊がそこにいるのかと思った。
 いつかの伊里野のような――薄汚いホームレスに襲われた時のような――伊里野から、何万倍も生気を抜いたような顔。
 生気は無く、瞳は虚ろで正気が無かった。
 幽霊が座っているのかと思った。
 エリカ・プラウドフットのように、死んでしまった伊里野がそこに座っているのかと思った。
「……いり、や……?」
 浅羽は恐る恐る言う。
 ここにいるのは、本当に伊里野なのだろうか。
 伊里野の姿をした別人じゃないだろうか。
 伊里野の姿をした幽霊じゃないだろうか。
 伊里野が着ているのは、一年前のあの日と変わらない耳なしホウイチのようなパイロット服で、ぱっと見では変化が無かった。
 一年ぶりのはずなのに、伊里野は変わっていなかった。
 虚ろな瞳で、冷めてしまったスープを手をつけようともせずに、ただぼんやりと宙を見ていた。
「――ずっとその調子だ。誰の呼びかけにも答えない」
 いつのまにか浅羽の真後ろに立っていた榎本が、覇気の無い声でそう言った。
「不思議なことに、一年もの間どこかを飛び回っていたにもかかわらず――体に異常は無かった」
 淡々と続く榎本の言葉を、浅羽は聞いてはいなかった。
 音としては届いていた。けれども、それが意味の在る言葉だと理解することは出来なかった。
 今浅羽の意識にあるのは、人形のように変わり果てた伊里野だけだ。
「ただ――伊里野は、心を空に置いてきた」
 違う、と浅羽は思った。
 言葉にすることは出来なかったけれど、浅羽の深い部分はそう主張した。
 伊里野は心を空に置いてきたのではない。
 伊里野は心を地上に置いて空へと飛んでいったのだから。
 地上から解き放たれて、奪いつくされていた自由を得た伊里野は、空以外のことは何も覚えていなかったに違いない。地上の一切から解き放たれてた伊里野は地上の言葉を忘れ、地上を振り返ることすらなかっただろう。デッキから見送る人間たちや、血塗れの男や、銃を手にしたぼろぼろの少年のことなど、伊里野は微塵も覚えていなかっただろう。
 空に還ったとき、伊里野はもう何も持っていなかった。
 だから――たとえ地上に戻ってきても、伊里野には何も無いのだ。
 悲しいとは思わなかった。
 当然の結果だと思った。
 ただ、いつの間にか流れ出た涙は、止まろうとはしなかった。
「伊里野は――」
 浅羽は震える声で、振り返らずに問う。
「伊里野は、もう戻らないんですか」
 榎本はたっぷりと間を置いて答えた。
「解らん」
 浅羽は何も言わない。
 榎本は続ける。
「一生思い出さんかも知れんし、ある日ふらっと思い出すかも知れん。俺にも、誰にもそれは解らない」
 浅羽は何も言わない。
 榎本も何も言わない。
 浅羽も何も言わない。
 榎本は何も言わない。
 浅羽が口を開く。
「伊里野は――これからどうなりますか」
 榎本が答える。
 その声に動揺はない。
 感情が擦り切れたような、平坦な声。
「戦債手当てが出る。いつになるかは解らんが、元に戻るその日まで――誰かが面倒を見て暮らすしかない」
 浅羽は何も言わない。
 榎本も何も言わない。
 浅羽も何も言わない。
 榎本は何も言わない。
 浅羽は、何も言わずに振り返った。
 榎本は、何も言わずに笑っていた。
 決心が出来ている浅羽の顔を見て、榎本は嬉しそうに笑った。
 笑って、榎本は言った。
「――さて、お前はどうする?」
 榎本はそれきり何も言わない。
 浅羽も何も言わず、ただ思い返した。
 幸せだった日のことを。
 辛かった日のことを。
 浅羽はもう一度だけ振り返り、伊里野を見ながら思い出す。

 八月三十一日。

 誰も居ない真夜中のプールで、名札の無いスクール水着をきた少女と出会った。
 少女に泳ぎを教え、鼻血をぬぐい、手首に埋め込まれた玉を見た。
 榎本や黒服と出会い、記憶が途切れ、気づいたら首筋に得体の知れない虫を埋め込まれていた。

 九月一日。

 謎の転校生の入学。
 名前を知った――伊里野加奈。

 九月二日。

 椎名真由美との出会い。
【あっちいけ】騒動。
 グレーのカードと#0624。
 避難訓練とサイレンと伊里野の恐怖。
 伊里野の内側を少しだけ覗き込んだ出来事だった。
 変態呼ばわりされたことも、入部届けをラブレターと勘違いしたのも今ではいい思い出だ。

 九月。二学期に入って最初の日曜日。

 伊里野と初めてデートをした。
 それはデートとはいえないような、騒ぎに満ちたものだった。
 映画館でボヤ騒ぎ。
 飲食店で盗聴。
 盗難バイクでチェイスをし、部長は空を飛んだ。
 楽しくなかった、と言えば嘘になる。
 そして――伊里野の一番深いところを、覗き見た。
 実を言えば、このときにはもう気づいていた。
 気づかないフリを、解らないフリをしていただけで、心の奥底では【そのこと】に気づいていた。
【そのこと】は決して形を持とうとせず、それでも頭の片隅にずっと居座っていた。
 それが形を成すのは、もっと先のことだ。

 九月二十七日。

 旭日祭と様々な出来事。
 榎本とカップ麺を食べた。
 空を飛ぶオレンジ色の飛行体を見た。
 部長と一緒にUFO模型を作って、伊里野と一緒にセミの墓を作った。
 晶穂と一緒に酒を飲んで――伊里野と一緒にファイアーストームを踊った。
 不器用に飛ぶUFOと、マイムマイムを踊った。
 十八時四十七分三十二秒で止まった腕時計は、今なお大切に持っている。

 十月。

 穏やかだった生活が、終わりを告げた月。
 晶穂と伊里野が仲良くなり、皆でボウリングに出かけるくらいに仲良くなったのに――
 全てが、崩れだした。
 殿山の爆発と、ヘリの曳光弾を始まりの狼煙として。
 開戦。
 敗残兵のような榎本が伊里野を殴りつれ返した。
 還ってきた伊里野は髪を白くし、視力を無くし、口から血を吐いた。
 そして浅羽は、頭の中の無意識の暗闇に転がっていた真相を、椎名真由美の手を借りて口に出した。
「――伊里野は、ブラックマンタのパイロットなんですか」
 無言で肯定する椎名を罵倒し、罵倒された椎名はキレ、挙句の果てに乱闘になった。
 何の解決にもならない行為。
 その果てに部長にすがり付こうとし――しかし、水前寺邦博は消えた。
 スーパーマンのような人は、おそらくは園原基地の人間に拘束された。
 もう、誰の手も頼れなかった。
 出来ることは二つ。救うか。見捨てるか。
 伊里野の手をとって逃げるか、伊里野を基地に送り返すか。
 浅羽は選んだ。
 前者を。
 お守りを欲しいと思わなかった少女が、自分の持ち物をお守り代わりに持っていることを知って。
 泣きながら助けて欲しいと頷く少女を見て。
 浅羽は、逃避行を始めた――

 後はヘリの中で思い出したとおりだ。
 逃避の繰り返し。
 ただ南を目指して、すぐそばにあるはずの、ファイヤーストームで燃え尽きなかったはずの、裏山と宿題と二学期が飲み込めなかったはずの、本当はとっくに消えていた夏を追いかけて。
 逃げ続けた果てに、ここに辿り着いた。
 ここで夏は終わりを告げ――裏山にでっかいでっかいよかったマークを書き、【浅羽の夏】は浅羽自身の手で終わらせた。
 けれども、伊里野は違う。
 【伊里野の夏】は、まだ終わっていない。
 夏の空に還った伊里野は、いまだに終わらない夏の中に居る。
 伊里野の夏は、UFOの空の中にある。
 終わらせるのは、伊里野の手で。
 そのための手伝いを、浅羽はしようと思う。
 だから浅羽は、榎本に答えず、伊里野に言った。


「伊里野、――――――――――」





          ◆




 そうして――


 夏は終わった。
 けれども。
 秋が来て秋が終わり。
 冬が来て冬が終わり。
 春が来て春が終わり。
 そしてまた、夏は来る。
 終わったかに見えた夏が終わることは無い。


 夏は繰り返す――


 終わることは無い――




          ◆




 日本から地球を半周もしたところにある南の島。
 CIAの衛星写真にも載っていない、小さな常夏の島に、一軒の床屋がある。
 遠い海の向こうから持ち込まれた髪形が、島の中で流行するきっかけになった床屋だ。
 街で唯一の、客足の途切れることのない、家族で経営するアットホームな床屋。
 その床屋には、猫がいる。
 鼻の頭にぶちが付いた、一匹の猫だ。
 猫はこの島が好きだった。
 大昔――猫とっては、だが――祖先が住んでいた国とは違い、夏が終わらず過ごしやすい。
 夏への扉の先に在るようなここは、猫にとっては天国だった。
 縁側でのんびりしていた猫は、誰かが近づいてきたのをその鋭敏なヒゲで察知していた。
 子供だった。
 可愛い女の子なのだが、無表情でにじりよってきて思い切り抱き上げてくるので怖ろしい子供だ。
 気づかれていない、とでも思っているのだろうか。女の子は、猫から見たらバレバレな足取りでにじり寄ってくる。
 ――のんびりしたいのでパス。
 猫はそう思い、伸ばされた女の子の手をひらりと交わして、裏庭の方に駆け出した。
 同時に、女の子も駆け出す。
 子供の足なのでそう早くは無いが、なにかきっかけが無い限りいつまでも追い続けてくることを猫は知っていた。
 ――仕方がない。
 猫は少しだけ速度を上げて少女の視界から消え、大木の下にある椅子の下に飛び込んだ。
 猫の姿を見失った少女は、何か別のものを見つけたのか見当違いの方向に駆けて行った。
 これでよし。 興味の対象がころころ変わるのはいいことだ。
 猫はそう納得し、日陰になったそこで思い切り体を伸ばした。
 椅子の上にいる人間は、自分との接し方を知っている人間だから問題はない。
 白髪交じりの老人の男は、猫に優しいのだ。
 ……その男に毛を切ってもらっている少女は、油断がならないが。
 猫は半分眠りながら、彼らの会話を聞く。ちょきん、ちょきん、と毛を切る音が面白い。
「じゃあ、始まりは? その道はどこから始まってたの?」
 その言葉を少女が発したとたん、ちょきんという音が止まった。
 老人が手を止めたのだろう。
 何かを考えて込んでいる気配。
 何かを思い出している気配。
 その果てに老人はため息をはき、それから語りだした。



「めちゃくちゃ気持ちいいぞ、って誰かが言ったんだ――」






 



あとがき。
イリヤの空の二次創作、伊里野帰還モノの後編でした。


↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。

えーというわけで後編、長らくお待たせしました。
検索だったりWEB拍手だったりで、結構待っている人が居てくださったので光栄です。
そういう人がいるからこそ書くわけで。
ほんとに感謝歓迎の極みデス。

秋山原理主義とか書きながら、プチハッピーエンド。
ADV風に言うならトゥルーEND。
自分ならこう夏をこう終わらせる、という物語でした。
結構ぼかした表現も多いですが、そのへんは脳内保管でお願いします。
きっと浅羽は幸せになれたでしょうけれど。

さて。
伊里野の夏も浅羽の夏も終わりましたけれども。
夏が終わることはありません。
終わりと始まりを繰り返して、夏はまた来ます。
次の夏でお会いできることを祈っています。

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