夏が終わり、秋を通り、冬を過ぎて、春を越え――
 再び、夏が来た。
 浅羽直之にとって、中学校生活最後の夏休み。

 夏休み最初の日、猫の校長がいなくなった。
 伊里野を探しにいったのかもしれない、と浅羽は思っている。

 夏休み最後の日、日が暮れてから浅羽は外に出かけた。
 伊里野を探しにいこう、と浅羽は思う。




 終わらない夏・前編




 中学三年の夏休み最後の日の、午後八時を五分ほど過ぎていた。
 自転車はもちろん近くのビデオ屋に止めてきた。空っぽのダッフルバッグを持って、制服を着て、街灯もろくにない道を歩いて学校まで戻った。
 北側の通用門を乗り越えて、部室長屋の裏手を足早に乗り越える。
 部室長屋を通る時、浅羽はふと水前寺邦博のことを思い出す。かつての部長。スーパーマンみたいな人。
 あれから色々なことがあった。
 本当に色々なことがあった。
 伊里野と別れた、夏が終わった、裏山にでっかいでっかいよかったマークを書いたあの日から、本当に色々なことがあった。
 新聞部の部長は晶穂が引き継いだり、水前寺と浅羽夕子の仲が微妙によかったり、街から幾人かの人が引っ越してしまったりという日常的なことから。
 誰にも言ってはいけない、大切なことまで。
 そして今、浅羽は予感に導かれるままに歩を進めている。
 目的地は言うまでもなく、学校のプールだ。
 ちょうど一年前にも忍び込んだ、真夜中のプールだ。
 スパイのような気持ちで焼却炉の裏側から辺りの様子をうかがう。これもまた懐かしい思い出。一年前の逃避行のときとは比べ物にならないほど優しい試練。
 グラウンドにはナスカの地上絵のような白線、右手に古ぼけた体育館、正面にもやっぱり古ぼけた園原中学校の校舎、左手には今では使われなくなった園原地区第四防空壕。あたりは暗く、誰の姿もなく、パトカーのサイレンすら聞こえない。仏壇屋は終戦後唐突に潰れてしまい、気分の壊れる看板塔は陰も形もない。
 校舎の真ん中にある時計塔は、午後八時十三分を指している。
 浅羽は小さく笑い、部室長屋の裏手から出て、のんびりとプールへと向かう。
 見つかるはずはない、という確信があった。
 見つかったらそのときはそのときだ、と開き直ってもいた。
 身を隠す物のない30メートルを浅羽はゆっくりと歩いた。更衣室の入り口までたどり着いたとき、すぐ近くでセミがじわりと一小節だけ鳴いた。
 今年もまた、セミがたくさん鳴いた。
 セミが死ぬ、「そんな時期」は、まだ遠い。
 パトカーのサイレンが聞こえたような気がした。
 もちろんそれは幻聴だ。ここ一年間園原市は平穏そのもので、大きな事件は一つとしてない。毎日のように起こっていたボヤや小さな事件もふっつりと止んでしまった。
 戦争が終わった、あの日から。
 今になって考えてみると、園原基地の影響は、誰が知るよりもきっと大きなものだったのだろうと浅羽は思う。誰も知らないだけで、生活の奥にまで影響はあった。隣の親父はスパイかもしれない。新聞には偽情報が混じっているのかもしれない。学校の保健教諭は軍の手先なのかもしれない。
 転校生は、宇宙人なのかもしれない。
 そんな疑いも、一年前までのことだ。
 今ではそんなことはない。
 学校の保健教諭は変わってしまったし、謎の転校生は謎を残したまま去ってしまったし、隣の親父はいつもどおりだし、新聞に嘘が載っているのは大昔からだ。
 屋根の上で、誰かがカップ麺を食っているということもない。
 それは悲しくて、悔しくて、忘れられない思い出だけど――
 浅羽の中で、ケジメはついている。
 それなのに何故今日こうして、未練たらしくも学校に来たのかといえば、そこにはもちろんちゃんとした理由が存在する。
 悪趣味な呼び出し状があったのだ。
 八月三十一日の朝、浅羽が新聞を取りに下駄箱から自分の靴を取り出したとき、違和感があった。
 いつもと違う、という違和感。
 とうとうきたか、という期待感。
 そして、その行為の懐かしさ。
 下駄箱の中のさらに中、浅羽の靴の中にはある物が入っていた。
 真っ白な、小指の爪の大きさすらない、小さな物。
 それが何なのか、浅羽はすぐには解らなかった。解った瞬間に愕然とした。
 白く、小さな機械。
 一年前のあの日、トイレの一番奥の個室で、泣きながら肉を抉り、血まみれになって痛い思いをして取り出した、あの機械。
 電波虫だった。
 便器の中に捨ててしまったはずの電波虫が、いつのまにか靴の中に入っていた。
 こんなことをしそうな人間に、浅羽は心当たりがあった。
 こんなことを出来る人間に、浅羽は心当たりがあった。
 生きているのか死んでいるのか定かではなかったけれど――そして恐らくは、死んでなどおらずのうのうと生きているだろうと思っていた――あの男の仕業に違いない、と浅羽は思った。
 だから今、こうして浅羽は夜の学校にいる。
 暗い更衣室に目もくれず、消毒液槽を通り越し、浅羽は月に照らされたプールサイドに踊り出た。
 名札のないスクール水着を着た少女がそこに――
 いなかった。
 誰もいなかった。
 誰の姿も、そこにはなかった。
「……はぁ」
 浅羽は盛大にため息をつき、肩を落として歩く。
 期待していなかった、と言ったら嘘になる。
 むしろ、期待満々だったのだ。ここにくるまでは。
 空に還った――と解ってはいても、もしかしたら、もしかしたらいるかもしれない、と期待していたのだ。
 期待は、期待のままに終わった。
 浅羽はもう一度ため息をつき、かつて少女がそうしたように、プールサイドにしゃがんで水面に手を伸ばし、波紋を作ってみた。
 静かなプールに静かに波紋が広がる。水月が揺ら揺らと形を変えた。
 落胆していたのは、ほんのわずかな間だった。
 ひょっとしたら自分が思い違いしていただけなのかもしれない。別に待ち合わせ場所や時間が明記されていたわけじゃない。最初の場所、と勝手に思ってプールに来ただけで、今ごろ部室長屋の上でカップ麺でも食べながら待っているのかもしれない。
 そう思って浅羽は立ち上がり、

「――よう」

 まさにその瞬間を狙って、浅羽に声がかけられた。
 死ぬほど驚いた。
 驚き過ぎて、いつかの誰かと同じようにプールに落ちるかと思った。
 昇降補助用の手すりにつかまって、ぎりぎり耐えれたのはただの偶然だった。
 浅羽は耐え、体勢を立て直してくるりと振り向く。

 ――そこに、榎本がいた。

 かつてと変わらない笑みを浮かべ、かつてよりも優しい雰囲気をまとい、無精ひげをきちんとそった、けれどもだらしなくネクタイをしめた榎本がそこにいた。
「よう、久しぶりだな。元気だったか?」
 呆然と立ち尽くしていた浅羽は、ゆっくりと笑って言う。
「……そっちこそ。怪我はもう大丈夫なの?」
「撃ったお前がそれを言うか。まあ、平気だから安心しろ。むしろあの後の方がいろいろ大変だったんだよ……お前が気にすることじゃないがな」
 榎本はそう言って笑い、浅羽から視線を外す。
 浅羽も榎本の視線を追う。
 視線の先には空しかない。
 ぽっかりと浮かぶ月と、散らばめた星の数々。
 オレンジ色に発光する戦闘機の姿は無い。
 空を見上げたまま、榎本は唐突に言った。
「――伊里野に会いたいか?」
 浅羽は即答した。
 答えは、初めから決まっていた。
「――うん」
 榎本は、何も言わなかった。
 それを見上げたまま、その口元は笑っていた。
 それが答えだった。
 浅羽は榎本に問う。
「場所は?」
 聞かなくても、解っていた。
 そこしかないような気がした。
 空に還ったその場所に、伊里野はいるような気がした。
 榎本は空から視線を戻す。
 浅羽の目を覗きこんで、榎本は真顔で言った。


「南の島だ」



 そして浅羽と榎本は旅立つ。
 終わらない夏の島へ。
 伊里野が空に還った島へ。

 ――南の島タイコンデロガへ。

 



あとがき。
イリヤの空の二次創作、伊里野帰還モノの前編でした。


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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。


唐突ですが、秋山原理主義者です。
当然ながら「持ち上げて、突き落とす」の思想を受けたアンチハッピー主義です。
もちろん氏の極みまでは届いていませんが。

従ってこの作品も、完全なハッピーエンドではありません。
作品の結末が幸福なのかどうかは、浅羽しだいです。
それでも、伊里野帰還を書いてみます。
どうか、後編を心待ちください。読んでくれた方、ありがとうございました。

<後編>

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