1 | Who was What |
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珍しいものが道端に落ちていた。 香霖堂にでも持っていこうと、魔理沙は手を伸ばした。 † Who was What † 霧雨 魔理沙が香霖堂を訪れたのは、逢魔ヶ刻と言っても差し支えない頃だった。日は殆ど西に沈みかけ、わずかな残光が見えるばかりだった。夜に蠢く妖怪たちが、どこか遠くで寝起きの欠伸をしているような時間。人と魔の中頃の時刻に、魔法使いは古道具屋を訪れた。 背には大きな編籠。手にはむき出しの一升瓶と徳利を抱えており、すでに飲んでいるのは明らかだった。 夜桜を見に来た、と魔理沙は言った。 それは、酒を呑みに来たのとまったくの同義だった。聞けば、背負った巨大な編籠の中にも、酒の肴が入っているらしい。いくら箒に乗って移動できるからといって加減というものがあるだろうと霖之助が嗜めると、徹夜で呑み明かすのだから当然だと魔理沙は言った。 何日間徹夜するのかは、怖くて聞けなかった。 ともあれそういう経緯で――いつものように、いつもの如く――呑み始めたのだが。 いつもと少しだけ、魔理沙は違った。 最初から酒が入っているせいか――あるいはそれ以外の理由からか。 いつもよりも、艶やかだった。 いつもよりも――近くにいる。 酒を呑み交わすことはあっても。 触れ合うことはあっても。 こんな風に、触れてくることはなかった。 誘うように。 いざなうように。 黒い瞳が、見つめてくる―― 「……香霖?」 じっと見つめ返されていた魔理沙が、盃を傾ける手を止めて訊ねてきた。赤い唇がなまめかしく動き、名前を呼んでくる。 その唇を見遣りながら、霖之助は「なんでもないよ」と答えて視線を窓へと戻した。外では夜桜が、変わることなく風に揺れている。先ほど入ってきた蝶は、今は編籠の上で休んでいた。 風に吹かれて――桜の花弁が、再び蝶の如く部屋へと入ってくる。狙いすましたかのように、花弁は霖之助の持つ盃の中に入り込む。 「――――」 水面に揺れる、薄紅の花。 霖之助はしばしの間、言葉もなくそれを見つめ……やがて、ひと息に飲み干した。 桜の味が――したような、気がした。 空になった盃を手に振り返ると、矢張り魔理沙と目が合った。目が合ったことを認識すると、魔理沙は嬉しそうに微笑む。 どこか妖艶に――微笑んだ。 「……魔理沙」 意識してのものではなかった。 意識をせずに――気付けば、霖之助は、魔理沙の名前を呼んでいた。 自分の口から出た言葉だというのに、それが自分の声だと、霖之助は信じられなかった。魔理沙の名を呼んだとすら信じられなかった。 場の空気に、呑まれている。 場の空気に――飲み込まれている。 「酒が――美味いね」 飲み込まれまいとして、霖之助は無理矢理に話を変えた。いや、変えたというのもおかしいのかもしれない。魔理沙、と名前を呼んで、何を言おうとしたのかもわからない。何も言わずに、何かをしようとしたのかもしれない――そんなことを思う。 桜が、舞う。 はらり、ふるりと。風もなく、只々地に引かれて舞い落ちてくる。 雨というには、少な過ぎる。 雪というには、彩り鮮やかだ。 だからやはり――桜が降ってくると、そう表すのが良いのだろう。 「………………」 出来る限り魔理沙を見ないようにして――気を抜けば、意識ごと魔理沙へと引き寄せられてしまう――酒を傾ける。どれくらい飲んだのか意識できない。酒に呑まれるような呑み方はしていないが、どれ程飲んだのか憶えていないというのは不安になった。 それでも。 杯を置き、ふと視線をやると――じっとこちらを見ている魔理沙がいる。どことなく上気した顔で、蕩ける瞳で魔理沙は見ている。その瞳に見られていることに耐え切れなくて、会話の無言を埋めるように霖之助は酒に手を伸ばす。 盃は、空になっていた。 顔を動かさないままに、一升瓶のあるべき場所へ手を伸ばす。顔を動かしてしまえば、魔理沙が視界に入ってしまうからだ。桜だけを見ながら、酒を注ぎ足すべく手を伸ばし、 なかった。 伸ばしたそこに一升瓶はなく――代わりに、柔らかい感触が、そこにあった。 「呑みすぎは……身体に、毒だぜ」 「……魔理沙、」 見て、しまった。 予想外の感触に、つい、視線をやってしまった。そこに魔理沙はいた。先まで座っていたところではない――肌が触れ合い、吐息がかかるほどの近くに魔理沙は座っていた。左手で一升瓶を遠ざけ、残る右手を、伸ばした霖之助の手へと重ねていた。 細く、白く、柔らかく。己のものと同じものであるとは思えない手が、そっと、包み込むように触れてくる。触れた場所から伝わる温もりがやけに暖かく感じる。自分では気付かないほどに身体が冷えていたのだろうか。 夜風は肌寒い。 魔理沙の身体とて、冷えているだろう。それでも熱く感じるのは、何故なのだろうと霖之助は考える。 いや――それよりも。 温めなければ。 寒いのならば、温め合わなければ―― 「手……冷たいな」 一種、雑音のように混じった不可解な思考に被さるようにして、魔理沙の小さな呟きが耳に届く。どうしてそんなことを思ったのか。魔理沙に掌を握られたままに霖之助は考える。 それは、きっと。 吐息がかかるほどに、近くに魔理沙がいて。 見上げてくる瞳が艶やかで。 金の髪が――月光の中で耀いて見えたからなのだろう。 窓から入り込んできた桜が一片視界を横切った。黄金の川辺に浮かぶ船のように、桜色の花びらが髪にふりつく。 意識してではなく。 無意識に、手が伸びた。髪にはりついた桜をとろうと、指先が金の髪に触れる。 「あ……」 魔理沙の声。小さく漏らした声に、つかんだ手が震えた。自分の手が震えたのか、魔理沙の手が震えたのか、よくわからない。分からないままに、霖之助は右手で――桜の花弁を取ることなく、頭を撫でる。 手で髪を梳くように。 魔理沙の頭を、す、と撫でゆく。 撫でた感触を、心地良く思う。 撫でられた感覚ではなく、撫でた感触を。 「…………」 呼応するように魔理沙の手が動いた。一升瓶を掴んでいた手を離し、霖之助の頬に添える。霖之助が髪をなでるように、魔理沙が霖之助の頬を、その細い指でなぞった。 つぃ、と。 背筋を指先でくすぐられる種類の、ぞくぞくとした感覚が肌から這ってくる。指は止まることなく、頬から耳元を抜けて、首筋を下っていく。肌をなぞられるたびに、魔理沙の感触が、魔理沙の温もりが、余震のように伝わってくる。 肌を撫ぜる魔理沙が、少しだけ身を寄せながら言う。 「冷えてる――な」 「冷えてる――よ」 髪を撫ぜる霖之助が、少しだけ身を寄せながら答える。 二人が少しずつ身を寄せ、間にあった距離は限りなく零へとなった。吐息がかかるどころか、唇が触れそうになる。霖之助に抱かれるように胸の中へともぐりこみながら、魔理沙の手がさらに下へ、下へと降りてくる。和服の襟元から、爪先が鎖骨を撫ぜた。 頭を撫ぜていた霖之助の手もまた、下へと降りてくる。髪の中へと潜るように、魔理沙の首筋へと触れ、抱きかかえるように下へと降りていく。 変わらずにあるのは、繋いだ手だけだ。 甘い――甘い、香りが。 触れ合う魔理沙の肌から、脳が白湯になりそうなほどに、甘い香りがする。少女の匂い。桜の花のように、濃厚な――魔理沙の匂い。 情に溺れるように、霖之助は身を寄せる。もはや二人の間に距離はない。和服のはだけた霖之助の胸板へ、魔理沙は身体をすりよせていた。膨らみかけた双丘が押されて形を変えるのが、服越しでもはっきりとわかった。 魔理沙の手は、服の中へと、服の下へと、降りていく。 ――繋がりを求めるように。 霖之助の手は、下へ、下へと降りていく。 けれども。 その手が目指したのは――魔理沙の服の内ではなかった。 「……普通は」 「……?」 耳元で囁くように霖之助が言う。蕩けるような吐息だけを魔理沙は返した。放っておけば、そのうちに耳でも甘噛みしそうな態度。霖之助は、そんな魔理沙を突き放すことをしない。けれども、片方の手で抱き寄せようともしなかった。空いた手は、下へと降りきり――抱きついている魔理沙からでは見えないが――魔理沙の後ろへと、伸ばされる。 そこには桐の棚がある。霖之助は器用に、片手だけで棚を開け、中にあるものを手探りでつかむ。 「こういうときに名前の呼び方が違ったり、一人称が違ったりして判明するものだけど……相手が悪かったと、そう思って欲しい」 取り出したのは――針と呼ぶには、釘と呼ぶには、生易しすぎるものだった。人の身体を貫通できそうなほどに長く、太い、畳針とも五寸釘ともいえないような何か。鉄杭、と呼ぶのが相応しいのかもしれない。それが人を殺すための凶器だと言っても、だれも疑いはしないだろう。 それを、霖之助は固く握りしめる。 魔理沙は気付かない。気付こうともしない。ただ、抱きよった霖之助の体温だけを感じている。話をするのももどかしいとばかりに、霖之助の首筋へと唇をつけ、赤い跡をそこにつける。 「そんなことより……香霖――」 魔理沙の手が蠢く。こちらの準備は出来ていると。そちらの準備はできていると。 言葉は要らず、ただ愛して欲しいと、魔理沙が全身で告げている。 けれども。 その行為に――霖之助は、苦笑で答えた。 「これ以上やったら……魔理沙に怒られそうだ」 その言葉に。 霧雨 魔理沙は、身を強張らせた。霖之助の言葉で――彼が全てに気付いていることに、気付いてしまったから。 魔理沙が固まったわずかな瞬間を逃すことなく、霖之助は動いた。鉄杭を握りしめ、魔理沙の背後で振りかぶり、 「お前は霧雨 魔理沙ではない。正体を現せ――古道具」 はっきりとそう宣言してから――鉄杭を、振り下ろした。 肉を貫く音と、血の吹き出す音が――しなかった。突き刺さった鉄杭は、ずぶりと、肉ではなくモノに突き刺さる音を響かせた。服は破れたものの、穴からは、一滴の血を流すこともなかった。痛みにあえぐこともなければ、悲鳴を漏らすこともない。 魔理沙は。 霖之助に刺し貫かれた魔理沙は、ゆっくりと、自分の胸を貫通した鉄杭を見下ろして。 「ああ―――――――――――――――――――――――――――――――――良かった」 嬉しそうに、笑ったのだった。 † † † 本物の霧雨 魔理沙は、『魔理沙』が持ってきた大きすぎる籠の中に入っていた。 「……死ぬかと思った」 開口一番それだった。しばらくは眼を覚まさないと思っていたが、籠から出し、横に寝かせたらすぐに目を覚ましたのだ。もとより健全な眠りではなかったのだ。『霧雨 魔理沙』を映しだしていたモノが機能を失うと同時に、意識を取り戻したのだろう。 半眼でため息を吐く魔理沙を眇めつつ、霖之助は淡々と、 「そうかい」 とだけ答えた。すでに魔理沙から身を離し、乱れていた服も直っている。情事まがいの痕跡はまるでない。膝の上で本を広げるその姿は、いつもの香霖堂店主だった。 その霖之助を、魔理沙は睨みつけるようにして、 「磔にされる夢だった……」 「それは厭な夢だね」 「夢じゃなかった気もするぜ」 「君のお腹には穴が開いてるのかい」 魔理沙は答えず、無言で服をまくり、自分の腹を見た。 夢の中で――そして藁人形へと――五寸釘が突き刺さった場所に、穴は開いていなかった。小さなヘソと、白い肌があるのみだ。血も流れていなければ、跡があるわけでもない。 痛みはあった。 夢の中で味わった痛みが、幻痛として残っていた。傷のない腹を魔理沙は撫でつつ、 「結局……なんだったんだ香霖?」 「――憶えているのかい?」 「夢の中で見たことなら」 答える魔理沙の口調に澱みはない。現実を夢で見ていたと、確信している言葉だった。 霖之助は無言でため息を吐き、広げていた本を畳んだ。体ごと魔理沙へと向き直り、ずれていた眼鏡を人差し指で押し上げる。そして、その指で、霖之助は店の壁を指差した。 そこには―― ――小さな藁人形が、大きすぎる鉄杭に胸を貫かれて、壁に磔にされていた。 藁人形を指差したまま、霖之助は淡々と言う。 「魔理沙。君、穴の開いていない藁人形を拾っただろう」 「ん? あー……」 霖之助の言葉に、魔理沙の視線が揺らいだ。上へ下へ、右へ左へと視線をうろつかせながら魔理沙は考え込む。その様子を、霖之助は何も言わずに見守っている。 思い出すまでに、実に十六秒を必要とした。 「拾った拾った。道の真ん中に使われてない藁人形が落ちてたから、ここに持って来ようとして拾って――それからどうしたんだっけ?」 実に中途半端にしか思い出せなかったらしい。拾った後、自分がどうしたのか、魔理沙は覚えていないようだった。言葉に出さず、霖之助は心中で察する。 そこで入れ替わったのだな、と。 思い出せないのではなく、そもそも記憶がないに違いない。その瞬間から、人形が魔理沙へと変わり――魔理沙は籠の中で寝続けていたのだろうから。 はぁ、とため息。 いかにも面倒くさそうに、霖之助は説明を始めた。 「藁人形はね。元々、人間の『代わり』としての役割を持つんだ。呪術アイテム、片代だね。髪の毛を埋め込んで『見立て』て釘を刺し、見立てられた人を呪う。そのための道具だ」 ふんふん、と頷く魔理沙。 こういう講弁は話しやすいのか、霖之助の舌はからからと回りだす。 「ところが存在意義を満たされぬままに捨てられてしまった道具は――化けてしまう。手段と目的が逆転して、貫かれるために元となる人を求める。そんな人形に君が触れたから、魔理沙の魔力を使って人形は『代わり』となったわけだよ」 なるほどなるほど、と頷く魔理沙。実は適当に返事をしているのかもしれない。 もっとも、話すのに夢中になっていた霖之助は、最早返事を必要としなかった。教師のように人差し指を立て、 「だからまず『お前は魔理沙ではない』と否定したのちに、刺すことによって道具としての寿命をまっとうさせてやる必要があったんだよ」 「……ちょっと待った。香霖、もし否定しないで刺してたら――」 「人形と連動している魔理沙の身体にも、穴が開いたかもしれないね」 冷や汗交じりの問いに、霖之助は真顔で答えた。 げ、という嗚咽すら吐けなかった。表情が固まったまま、魔理沙の頬に一筋冷や汗が流れる。藁人形が人形を通じての呪いである以上――人形を刺せば、呪いが飛んでしまう。 だからこそ、霖之助は否定したのだ。 お前は魔理沙ではない、と。 それが分かったからこそ、魔理沙はなんともいえない顔をした。助けてもらった以上文句はいえないものの、他にも方法はあり得そうな気がしたからだ。少なくとも、危険が多少あったことには違いない。 まあ助かったからいいか――そう割り切ったのか、魔理沙はひきつり気味の笑みを浮かべ、 「……。まあ、なんとなくわかった。でも香霖」 「なんだい」 「どうして最初からそうしなかったんだ。いや、そうじゃない、そうじゃなくて――香霖、お前、いつから気付いてたんだ?」 「…………」 魔理沙の言葉に。 霖之助は、沈黙を返した。何気ない風を装って、本へと視線を落とす。 長い付き合いである魔理沙にとっては、それはわざとらしすぎる仕草であり――それだけで、事を察してしまった。 「香霖……お前……最初っからわかってたんだな!?」 「――さあ、どうだろう」 「あー! そうか、そうだよな、触ったモノの名前と用途が判るんだったら――触れた時点で、藁人形だってわかるはずだぜ!」 「…………」 再び、沈黙を返す。 沈黙以外の何を返せるはずもなかった。まさか、いえるはずもない。 ――抱き合った感触が心地良くて、手放すのが惜しかったなどと。 一時の情欲に流されそうになったことなど――最後の一線だけは踏み越えなかったものの――言えるはずもない。 だから霖之助は沈黙を返し、沈黙は、何よりも雄弁な返答となった。 ことを察した魔理沙は顔を夕陽よりも真っ赤に染め、 「ばか――! アホ――!」 捨て台詞と共に――箒に跨り、香霖堂の外へと文字通りに飛んでいった。進路上にあった香霖堂の玄関が扉ごと吹き飛ぶ。 随分と風通しのよくなった香霖堂の中には、一人、霖之助だけが残された。 霖之助は―― 去っていった魔理沙を見ることなく。 壁に突き刺さった、藁人形を見ていた。 霖之助は思うのだ。 去り際の、真っ赤になった魔理沙の顔の意味と共に――考えずには、いられないのだ。 ――はたして、あの行為は。 人形が望んだものだったのか、それとも――魔理沙が心の内で望んだものだったのか、と。 (了) |
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