1 | 三月精が人気になる方法を真面目に考えてみた。 |
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雨は降っていなかった。 雪も降っていない。霰も、霙も、雷も。空から振り落ちるものは何一つとしてない、天気の良い夜だった。空を見上げても、雲どころか何もない。 何も、ない。 何ひとつとしてない、静かな夜空だった。耳をすませば、月の唄すらも聞こえてきそうな夜。静寂と穏やかさを愛するものにとっては、かけがえの無い財産にすら成り得る夜だっただろう。 けれども―― そんなことを気にしている余裕は、男には欠片も存在しなかった。 彼は静寂を愛してもいなければ、月に向かって耳を傾ける趣味もない。事実――彼はその行動によって、夜の静寂を破る側だった。 荒々しく呼気を吐き。 騒々しく道を駆ける。 夜の静寂は、彼一人の手によって破られていた。はっはっは、と繰り返される短い息は疲れに満ちていて、今にも途切れてしまいそうに聞こえた。 それでも、途切るわけにはいかないのだ。 男は――立ち止まることなど、出来ないのだから。 懸命に、文字通りに命を振り絞って走る。走る足はもはや頼りがない。右へ、左へ。真っ直ぐ走ることができずに、よろめきながらどうにか前に進んでいるといった有様だ。実際、彼は自身が走っている自覚など、もはや得てはいないだろう。転びそうになるたびに右足を出し、また転びそうになって逆の足を出し――その繰り返しで、前に進んでいるだけに過ぎない。 前へ、前へと。 どうして前へと進むのか? それを考える余裕は、もはや男には残されていない。彼はただ、胸のうちから聞こえる声に従って、停まることを拒否するだけだ。幻想郷の中で生まれ、生きてきた彼の本能が、彼の胸のうちでこう叫ぶのだ。 ――怖い、と。 だからこそ、彼は停まることなく駆け続けている。停まってしまえば、『恐怖』に追いつかれる気がして。 「は、は、はっ、は、っ、はっ――」 調子を整える、という言葉は、もう彼の中には存在しないのだろう。荒く粗く吐かれる息は散り散りになっている。口から漏れるのは息だけではない。呼吸も満足にならないせいで、口端からは泡々が漏れている。息と共に唾を吐き、吐いた唾を追い抜くように駆けるせいで顔が汚れていくが、彼は涎と汗でぐっしょりと濡れた顔を吹こうともしない。 両手をばたばたと振りながら駆けるだけだ。 荷物などとうの昔に捨ててしまった――荷物のために命を捨てるほど、男は愚かではなかった。たとえそれが、隣村との交易に使う大事な品物だったとしてもだ。 男は、商人だった。 幻想郷という狭く閉ざされた世界でも需要と供給の変化は存在する。否、狭い世界だからこそ、わずかな差異が決定的な問題になることも少なくない。そこに目をつける人間も、当然出てくる。ある村では過分に採れてしまった穀物を、別の村が作っている機織物と交換する。その『中継ぎ』の間で発生する利益で食いつないでいるのが商人であり、男は、そんな商人の一人だった。 完全な素人、ではない。 むしろ男は慣れていた。いくつもの小さな村を回り、自分の下に誰かを雇って規模を拡大することすら実現していた。彼の人生は順風万欄であり、だからこそ――彼は、忘れていたのだ。 この幻想郷の主たる生き物は、人間ではないということを。 男は、忘れ、油断していた。そうでなければ、たとえ急ぎの交易だったとしても――夜の森を突っ切ろうとは、考えもしなかっただろう。 そして、『俺だけは大丈夫だ』という致命的な油断が、当然のように彼の足をすくった。 だからこそ、男は走っている。 恐怖から逃げるために。 「畜生、畜生、畜生……ッ!」 走る男の口から意味のある言葉が漏れる。しかし、そこにはもう、意味もなければ、意義もない。彼の悪態を聞き届けてくれる者は誰一人としていないのだから。そして、悪態をついたからといって、何かが変わるわけでもないのだから。 それでも、男は呟き続ける。畜生、畜生、畜生。何故言っているのかも、誰に言っているのかも分からずに、それがまるで魔法の言葉であるかのように、男は唱え続ける。畜生、畜生、畜生。言葉を続けるたびに体力が削られ、彼の足は衰えていくというのに、それでも止めようとしない。 そうしなければ、恐怖に押しつぶされてしまうからだ。 男にとって怖いのは――後ろから追ってくるものではない。 全てだ。 男の周りに存在する、ありとあらゆるものが怖くてたまらないのだ。ありとあらゆるものの中に潜んでいるかもしれない『何か』が、恐怖という形で彼を殺そうとしているのだ。風に囁く枝葉が、自分で踏み鳴らす土石が、口から漏れる吐息すらものが、自身を襲ってくるように思える。 だから――怖い。 怖くて、たまらない。 怖くて、怖くて、男は逃げている。 「畜生、畜生、ちく、畜生――どうして、」 男は走る。夜の闇の中を。夜の森の中を。それでも男の足が止まることも、行先を見失うこともない。 なぜか? 決まっている。幻想郷の夜とはいえども真の闇があるわけではない。むしろ昼とは違い、優しい月と賑やかな星たちが、囁き声のように幻想郷を照らし出してくるからだ。だからこそわずかな光の中で人は動けるし――妖怪たちは、心地良さそうに夜を謳歌する。 月と星の光があるからこそ、男はかろうじて走り続けられる。 だというのに、どうして。 どうして―― 「どうして、何も見えないンだ……ッ!」 怒りの混じった声と共に、男は走りながら空を見上げた。 森の枝葉の隙間から見える空には、雲ひとつない。 何も、ない。 文字通りに何もないのだ。雲がないというのに、夜空に見えるのは暗闇の緞帳だけだ。 星も、月も、見えてはいない。光はあるのに、姿が見えない。 何も、ないのだ。 一面の黒だけがどこまでも続いている。それはまるで、夜が降りてきて、月と星を塗り潰してしまったかのような――そんな光景だった。 尋常なものではない。 人に成し得ることではない。 それに気付いた瞬間――『妖怪』というものを思い出し、男は駆けだしたのだった。どこまで走っても空に変化はなく、男は、自身が狙われていることを悟っていた。 だから、走る。 走り続けている。 けれども―― 「――!?」 あからさまな異変に気付いて、男は、とうとう足を止めた。止めざるを得なかった。 急激に足を止めたせいで、草鞋が土にめり込み、じゃりという嫌な音を――立てなかった。 音が、しなかった。 そう――走り続けていたというのに、男は、自身の足音を見失ったのだ。急激に、本当に何の前触れもなく、足音が消えた。走っている実感がつかめずに止まってしまったのだ。足に感触はある。土を踏む感触がある。それでも、音だけがない。 空から姿が消えたように。 男の周りから、音が消えていた。 男は地面の砂を蹴ってみるが、何の音もしない。さっきまでは五月蝿いほどに耳にこびりついていた風の音や葉のざわめきすらもどこかに消え去っていた。 真の静寂だけが、そこにはあった。 何も音はない。 静寂に――押しつぶされそうになる。 半ば恐慌状態に陥った男は、もはや恥じも外聞もなく、大声をだして叫んだ。 「――――――! ――ッ! ――、――――!?」 叫んだのだ。 喉は痛いほどに震えている。骨を通じて、体内に響きと音は確かに伝わってくる。 なのに、声は出なかった。口から漏れた言葉は、音にならずに消えていた。 自身の声すらも、奪われていた。 堪えられるはずもなかった。大の男である彼の目からは涙が落ちた。涙は肌を伝い地に落ちるが、その音すらもないのだ。無駄だと分かっていても口から悲鳴をあげながら、男は子供のように泣きじゃくった。 逃げられない、そう思った。 その通りになった。 男の視界が消えた。空から月と星が消えたのとは比べ物にならない激変が起きた。男の眼に見えるもの、その全てが消えたのだ。世界が一瞬で暗闇に満ちた。何も存在しない崖へと落とされたような気がした。自分が立っているのか、座っているのか、それすらももう男には分からない。誰を信じることを、自分を信じることも、何を信じることもできなかった。 光もなく、音もなく。 何もない世界で。 男は、どこからともなく聞こえてくる、声を聞いた。 「くすくす…………」 「……くすくす……」 「…………くすくす」 少女たちの、楽しそうな、笑い声が―― |
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