1 | 自戒と皮肉の境界線 |
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三月に入ったばかりの月は、わずかに青みがかかって見えた。 月の色は白か黄色と相場が決まっているのに珍しい夜もあるものだと、森近 霖之助はいつもの椅子に座ったまま窓枠の向こうに見える月を見上げていた。欄干の間から見える月は、確かに青に近い白。あるいは、白に近い青。水深が浅い澄んだ海のような色をしていた。 いや、と霖之助は思い直す。綺麗ではあるが、さして珍しいわけでもない。幻想郷において、天蓋に映る月は万華鏡よりも多種多様の表情を見せる。この間など、紅く染まったかと思えば、空ごと割れてしまった程だ。青くなったからといって、それがどうしたと巫女や魔法使いならば笑うだろう。 それでも、見上げた月は美しかった。空の涙が、一滴だけそこに零れているようにすら見える。出来ることならば、杯ですくい取りたくなるほどに。 けれど、願望とは裏腹に、青の月は天の座へと昇っていく。手を伸ばしたところで、すり抜けて彼方へと行ってしまうだろう。 地の民にできることは、精々見上げることくらいだ。 ほぅ、と吐息を漏らして、霖之助は杯を傾けた。中に入っているのは月の雫ではない。澄んだ――けれど色のない――液体。米を醗酵させて創り上げた命の水。喉と胃を通過し、冷えた体を温めていく。 三月とはいえ、まだ夜風は寒い。開け放たれた窓からは遠慮なく客人が入り込み、店内の暖を奪い去ってしまう。 ストォブをつけようか、と迷う。日用品であると同時に売り物でもあるストォブは、今も店の一角に鎮座している。少し席を離れ火を灯すだけで、無遠慮な北風たちは外へと追いやられるだろう。 そうしなかったのは、席を立つのが面倒だったからではなく――春風を外へと追い出すのが名残惜しかったからだろう。春の訪れだと思えば、肌に寒いこの風も心地良く感じられた。 月が、ゆっくりと昇っていく。 刻一刻と変わり続ける――あるいは遅々としか進まない――月の動きを、霖之助は両の眼で追いかける。丸い瞳の中に、月が映し出される。水面に映る月のように。 水月が、微かに揺らめいた。 からん、と。扉に備え付けられた鈴が来客を告げた。瞳の端で、扉が開くのが見えた。 ――客? 心中で霖之助はいぶかしむ。こんな時間に、こんなところにまで足を運ぶ客がいるとは思えなかったからだ。そう考えて、すぐに思い直す。 客は来ずとも、来客は訪れる。 大方、巫女か魔法使いが暇潰しか月見か酒盛りかで――大抵の場合、それらは同義でもある――香霖堂を訪れたのだろう。よくあることだ。 いらっしゃい、と声をかけるつもりはなかった。霖之助は無言のまま開いた扉へと振り返り、 「あれ……」 そこには、誰もいなかった。 開いた扉の向こうには夜闇だけがどこまでも続いている。あまりにも暗すぎて、店の光が届くところまでしか判然としない。それから先は、ただ一色の黒に染められている。 それでも、入り口の向こうに人がいるかいないかくらいは分かる。 開いた扉の向こうには、確かに、人影はなかった。ついでに言うのならば、妖怪影もない。 無人の夜が、どこまでも広がっている。 「風で、開いたかな……?」 自分でも信じていない言葉を呟いて、霖之助は席を立とうとした。扉を開けた誰かが倒れているかもしれない――と思ったわけでもないが、開いたままの扉を閉めなければならないのは確かだ。何よりも、窓だけならばともかく、戸まで開け放しておくには少々寒かった。 だから、席を立とうとした。 立とうとして立つことができなかったのは、 「あら、どこへ行くの?」 ぐい、と。 誰もいないはずの後ろから、引っ張られたからだ。 うわ、と霖之助は呻いて後ろへと倒れる。椅子から立ち上がろうとした瞬間に引っ張られたのだ。行き場のなくなった力が迷い、足が前へと滑った。結果、転げるようにして椅子に座りなおす羽目になる。勢いよく身を押し付けたせいで、ぎしりと背もたれが悲鳴を鳴らした。 誰もいないはずの後ろからは、白い手が伸びていた。 絹の白手袋に覆われた細い手が、肩口から前へと、後ろから霖之助の体を抱き寄せていた。その手が、霖之助を立たせまいとひき止めたのだ。 どこかで見たことのある手だった。 「どちらさまですか」 誰もいなかったはずの背後へ、霖之助は問いかけた。まさかこの椅子、腕の生えてくる呪われた腕じゃないだろうな――そう思いながら顔だけで振り返り、肩越しに背後を見た。 腕は、椅子からではなく。 椅子の背後から、伸びていた。 椅子の背後に立つ、少女の腕だった。 少女は霖之助の背後に立ち、椅子越しに抱きかかっていた。手袋を填めた腕を霖之助の前面へと回し、両の鎖骨の間へと後頭部を引き寄せていた。波打つ金髪が、どこか、魔理沙のことを思い出させてしまう。 見覚えがあった。 この幻想郷において――あまり会いたくない妖怪の一人だった。便利ではあるものの、この上なく便利ではあるからこそ――厄介事が付きまとう、そんな妖怪だ。 「こちらさまです」 少女は――八雲 紫は、微笑みながら答えた。真の年齢を感じさせない、少女のような笑みだった。 「…………」 極間近で瞳を覗きこまれ、霖之助は戸惑ってしまう。先まで月が映っていた瞳には、今は八雲 紫の笑みが映りこんでいる。 「何時の間に――」 「今の間に、です」 答えと同時に、再びちりんと音が鳴った。見れば、開いていたはずの扉が、風一つ吹いていないというのに、独りでに閉まっていた。 おかしくはないだろう、と思う。 境界を操る八雲 紫ならば、これくらいのことは造作もないはずだ。 「風が――吹いたのでしょう」 けれども八雲 紫は、くすくすと笑いながらそういった。今のは私ではありませんよと、冗談のように話してくる。 「それは、桶屋が儲かりそうなことですね」 適当に答え、杯を傾ける。背後からは未だ八雲 紫の手が伸びている。抱き寄せられていることに不快さは感じない。むしろ、触れた肌からの温もりが心地良くすらあった。 なぜ彼女がここにいるのか、疑問には思う。思うが、浮き出た疑問は、その心地よさの前には如何でもよくなってしまう。 「こんな夜更けに――何が入用ですか」 飲み干した杯を机に置き、振り返ることなく霖之助は訊ねた。この妖怪が気ままでとらえどころのないことは知っていたが、聞いておくにこしたことはなかった。 返答の代わりに帰ってきたのは――僅かな、衣擦れの音。 ず、ず、と、連続して衣同士がこすれあう音。見えないせいで余計に想像力が刺激されてしまう。背後の八雲 紫が何をしているのか、否応なく考えさせられてしまう。抱きまわされていたはずの腕が片方ないことに気付く。八雲 紫の右手だけが、背後で何事かを蠢いている。 衣擦れの音が、止まった。 左腕を支点にするように――するりと、八雲 紫の体が寄ってくる。背後からではない。右から、しなだりかかるように、八雲 紫が肌を重ねてくる。 両の白手袋以外には――何一つとして、身につけていない、八雲 紫。 その吐息が、かかるほどに近い。 「貴方は……」 「温もりを少々――頂きに参りました」 そう言って、八雲 紫はただでさえ近かった顔を、さらに寄せた。酒に濡れていた唇がふさがれる。視界の向こう、金髪のヴェールの向こうに、青い月の姿が見えた。 † 『――青い月の姿が見えた。』 そこまで書いて、彼はキーボードを打つ手を止めた。 かれこれ六時間。よく書いたと思う。一時間に原稿用紙一枚だから、そう悪くない速度だ。この調子でいけば、今日のうちには完成することだろう――そう自分に言い聞かせ、彼は満足げに息を吐いた。 「……だからちょっと休むかな」 モニタの前から身をそらし、大きく伸びをする。同じ姿勢でいたせいか、背骨が軽快な音を立てた。肩が凝っているのが自分でもわかる。 背後を振り返ればテレビがある。ジャックから伸びた赤と黄色の線は、脇のゲーム機へと繋がっている。椅子を離れ、テレビの前に座ればボタン一つで遊ぶことができる。 ゲームするか、と思う反面――このまま一気に書き進めてしまいたくもある。 「どうすっかなあ……」 椅子の上で胡坐を書いて、彼は悩みこんだ。今書いている作品は、彼がのめりこんでいるゲーム機の遊びの二次創作だった。巫女と魔法使いが弾幕をかわし敵と戦うシューティング・ゲーム。弾幕の美しさが魅力的で――最も彼は、弾幕よりもキャラクターが好きなタイプの人間だった。 特に――『八雲 紫』という人格は、彼のお気に入りだった。 何よりも、その強さがいい。境界を操るという反則に近い能力は、『最強』という単語に強い憧れを持つ彼の自尊心を満たすにはちょうど良かった。八雲 紫ならば他の作品の人格と戦わせても負けようがない、いや、あの人に造られた神話の神のようなものだ――そうとすら彼は思っている。 だからこそ――まだ一度として弾幕で挑んだことはないが――彼は八雲 紫を良く作品に出していた。幸いにも格闘の方では自機として使える。資料には事欠かなかった。 不満があるとすれば、作品の中に登場する男が森近 霖之助一人しかいないため、絡ませる相手が選びようがないことだった。 その不満も、 「まあ、そのうち俺が考えたオリジナルキャラクターと――」 という、遠大な企みによって、意味のないものになりつつあったが。 今書き綴っていた作品も、八雲 紫と森近 霖之助の小説だった。青い月の夜に香霖堂を訪れた八雲 紫が、森近 霖之助と濡れ場を繰り広げる。肉欲と情愛、そしてその強さに惚れた森近 霖之助は、自ら『八雲 紫の守護者』を名乗り、彼女の式となって戦いの場へと挑む――そういう物語だ。 もっとも、作品は未だ八雲 紫が香霖堂を訪れたところまでであり、この速度でいけば、今日どころか完成するのは週明けになりそうなのだが、本人は特に意識していない。それどころかこの作品は壮大な物語の序章でしかなく、森近 霖之助と八雲 紫の壮大で華麗な物語の構想は止め処なく溢れていた。 最大の問題は完成の見通しが存在しないことだが、それは些細な問題だと彼は思っていた。構想は最高であり、出来あがればそれは万人を感動させる名作に違いなく、だからこそ遅いか早いかの違いなど意味をなさないのだ。 「とりあえず……ゲームすっか」 だから今日も、彼は椅子を離れてテレビの前に座った。ゲーム機についている丸いボタンを押す。ゲーム機に赤い光が灯り――テレビのブラウン画面に、『NO DISC』の文字が浮かび上がる。 勿論、それはゲームではない。 「あー……そうだった……」 彼はその画面を見て頭を抱えた。ゲームをするにはディスクが必要であり、そのディスクを友人に貸していたことを忘れていたのだ。 「あー……」 彼はぼやき、叩くようにゲーム機のボタンを再度押した。付いたばかりの光が消える。 ディスクを入れ替えればゲームはできた。ただしそれは『やりたかったゲーム』ではない、他のゲームだ。興をそがれた彼に、それをやる気力などなかった。 仕方がなく、彼は机に戻る。開きっぱなしだった小説に向かい合い、キーボードの上に手を乗せる。 「面倒だけど……書くかぁ」 ぼやきながら、彼は指を動かし出す。幸いというべきか、常に比べて素早く物語を描き始めることができた。いつもならば、はじめるまでに長い時間がかかるというのに。 「俺も巧くなったもんだ」 自尊に満ちた声で呟き、彼は物語を綴る。 † † † 【――露に濡れる八雲 紫の秘所へと霖之助の手が伸びる。春風に冷やされた体の中で、そこだけが夏よりも熱く感じられた。抜き指した手が雫を纏い、静かな夜に水音を立てる。 『あの子に見つかるかもしれませんわ』 ちらちらと舌を蠢かして八雲 紫が囁いた。耳元で放たれた言葉と共に息がかかる。三半規管が痺れるように甘い吐息。言ノ葉が正常な脳を溶かしていく。 『あの子――とは?』 それが誰だか分かっていながら、あえて霖之助は問い返した。そうすることを、八雲 紫が望んでいるように思えたからだ。不道化たような、御道化たような、くすぐったい言葉のやり取り。 『分かっているのでしょう』 八雲 紫の手が蠢く。霖之助の胸元から忍び込んだ指先が、産毛立った肌を撫でていく。手は留まるところを知らず、下へ、下へと貪欲へ降りていく。 手の動きに反するように、八雲 紫の唇が上へと向かう。首筋を這うようにして舐め、舌は座ったままの霖之助の耳へと辿り着く。 耳朶を噛むようにして――八雲 紫は、そっと囁いた。 『【彼】が見ているわ』】 † † † 「…………」 そこまで書いて。 彼は、手を止めた。手を止めざるを得なかった。そしてモニターの画面を注視し、我が目を疑った。 作中の場面は盛り上がりのきわまりを見せていた。夜の香霖堂で濡れ場を繰り広げる二人。その爛れたやり取りが行われているところだ。八雲 紫は「あなたを慕うあの子が、こんなことをしているのを見たら、どう思うでしょうね――」といい、森近 霖之助が苦笑と共に「貴方にさえ誤解されなければ、それで良いのですよ」と答える場面だ。 答える場面の、はずだった。 そう入力したはずなのに――出てきた文字は、まったくの別物だった。 「打ち間違え……たか?」 自分でも信じていない声音で呟き、彼は削除キーを複数回押し、『【彼】が見ているわ』という八雲 紫のセリフを消した。 そして、続きを改めて書きなおす。 † † † 【耳朶を噛むようにして――八雲 紫は、そっと囁いた。 『覗き見は――悪趣味だとは思わない?』 そう言って、す、と森近 霖之助から身を話した。青い月に照らされた裸身が、霖之助の手の届かないところへと離れていく。 突然の行動に困惑する霖之助をおいて、八雲 紫は着衣の乱れを直すよりも先に―― ――こちらを、見た。】 † † † 「な――んだこれ!?」 今度こそ。 【彼】は大声をあげて驚愕した。打ち間違いなどという、些細な問題ではなかった。打ってすらいないのに、画面の中では物語が進んでいくのだ。すでに手はキーボードから離している。離しているというのに――文字の入力は進み、物語が綴られる。 そこに、意志があるかのように。 そこに、意思があるかのように。 【『そもそも必然性が欠けているわ。どうして、私がこの人と寝なければいけないのかしら? 理由があるのならばともかく、貴方の都合に合わせる気はないわよ』 からかうように言って、八雲 紫はようやく着衣の乱れを直した。火照っていたはずの肌も、瞬く間に常どおりに戻っている。先の痴態などどこふく風で――八雲 紫は商品棚の上に腰掛けた。 放っておかれた霖之助だけが、八雲 紫へと手を伸ばした姿勢で固まっている。 時間が止まったかのように。 世界が止まったかのように。 八雲 紫だけが――動いている。 『演出は三流。シナリオはそれ以下。それでは遊んであげる気も――演じる気も失せるというものよ』 八雲 紫はそう言って。 こちらを、指さして。 微笑みながら。】 「やりたくもないことをやらされている気分――味わってみるかしら?」 【耳元で、そう告げた。 『な――!?』 モニターの向こうの文字ではない、すぐそこで聞こえた言葉に驚き、彼は椅子から転げ落ちた。その様子を、私は境界の向こう側から笑いつつ見ている。滑稽な仕草とは、時と場所を隔てても変わらないものらしい。 『きょ、境界を操る――うそ、嘘だ――』 才覚はないわりには聡いらしい。向こう側とこちら側の境界が入れ替わっていることに、彼はすぐに気付いた。そもそも、彼にとっては元より境界など曖昧なのかもしれない。向こう側とこちら側の区別がよくついていないからこそ、あっさりと踏み込んでしまうのだ。 それが良いことであれ悪いことであれ。 まあ――そんなことは。 私の知ったことではない。 興味すらも、ない。 『う、うわ、ああ、うわああ!』 彼はうろたえながら逃げようとした。どこへ逃げようと考えたわけではない。ともかく、ここより一刻も早く一間でも遠く離れようとしたのだ。 が。 足は、彼が思ったように動くことはなかった。 『――え?』 呟きと共に、彼の足が意思を離れて動き出す。 それはある意味では逃走だった――彼の足は彼の意志を離れ、彼の体は彼に従わなかった。翻弄されるように窓際まで足は歩き、手は鍵をあけ、体は窓から外に出た。高層マンションの上層階は風が強い。窓を開けると同時に、室内に春風が満ちた。 『い、いやだ、そんなことはしたくない!』 悲鳴をあげながら、彼はベランダへと足を踏み入れる。 『俺は――そんなことがしたいんじゃないんだ!』 素足のままベランダを横断し、胸の高さ程ある柵を乗り越える。 遠くに見えるは、堅い地面。 堕ちれば、死ぬ。 その果てを見ながら、彼は準備体操でもするかのように、大きく伸びをした。その顔に不安はない。今から飛び降りるというのに、驚くべきことに彼の心に惑いはないのだ。 『や、やめ、やめてくれ、やめて――頼む、俺を操らないでくれ!』 今生の言葉を告げて。 「私も、そう思うわ」 『――――――――――――――――――』 そう言って、彼は大声で笑いながら、この世で一番の幸せを携えた笑みを浮かべて、嬉々として飛び降りていった。真実がどうかは知らないが、そうであったほうが喜劇のオチとしては良いだろう。 まる。 (了) ■あとがき 『まる』 最後まで書き終えて、私は筆を置いた。八雲 紫と森近 霖之助、そしてその二人を崇拝する少年の物語を全て描き終えたのだ。 心の中に満ちた充足感を味わいながら、私はん、と大きく伸びをする。数時間机に向かっていたせいで、体のあちこちが固くなっていた。 この度の作品も、良い出来だと思う。 紫の万能性を崇拝する少年が、その万能性がゆえに自滅する物語。プレイヤーとロールプレイの境目。境界を越える物語だ。多少の惨酷さが良い味付けになっていればよいのだが。 原稿用紙に向かいながら、次は何を書こうかと悩む。 幻想郷が滅びる物語か。 『彼』が目指したような、一次創作人物の出番か。 それとも――いっそ予告編の類にでも手を出してみるか。 筆を手に取りながら考え込み、 「貴方も――いい加減になさいな」 耳元でした声に私はふりk |
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