1 | 豆腐とエノキと白ネギと |
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00 | イグサの匂いがした。 嗅ぎ慣れた、そして大好きな匂いだった。西洋の館では嗅ぐことのできない、日本特有の畳のにおい。古く乾いたイグサの匂い。 なぜイグサの匂いがするのか。 すぐにわからなかった。 どこか、畳のある部屋に寝かされている――それだけのことに気づくのに、妹紅はそれなりの時間を必要とした。 真っ暗だ。 夜が更けているかだと、最初は思った。 すぐに違うことに気づいた。 単純に、瞳を閉じたままだったのだ。 「あー……」 口を開いてみる。声が枯れていた。喉がからからに渇いている。ほとんど音にならなかった。 なぜこうして寝ているのか、よく判らない。 判らないままに、まぶたを開く。 見知った天井がそこにあった。 木造りの、古い日本家屋の天井。室内にいろりがあるせいで、黒くすすけている部分がある。すすけた方が長持ちするんだよ、と誰かに教わったが気がするが思い出せない。千年も生きていると、思い出せないことが山のように出てくる。時折、何かの拍子で記憶が顔を出すだけで、出てきた顔以外は判然としない。 もう、忘れてしまった顔がいくつもある。 忘れてしまったことさえ思い出せない人も、幾人もいる。 見知らぬ天井を見ながら、妹紅はそんなことを思ってしまう。 ――きっと、寝起きのせいだ。久しぶりの畳の匂いのせいだ。 普段は、こんなことを思いはしないと、内心で自重する。 林の奥で、独り生きていれば、何も考えずにすむ。 心も頭も空っぽにして、人の里から離れて。自分を『そういうものだ』と認識して生きていれば、つらいことも楽しいことも何もない。時折尾思い出したかのように送られてくる輝夜の刺客と遊んでいるだけで、月日は過ぎていく。 いつまでこうしているのか。 いつまでこうしていればいいのか。 そんなことも、考えずにすむ。 ――きっと、何か懐かしい夢でも見たんだ。 そう思い込む。 もちろん、どんな夢を見たかも思い出せない。夢を見ていたかどうかさえ判らない。 夢と記憶は似ている。 どちらも、泡沫のようにはじけて、いつかは消えてしまうのだ。 「らしくないなぁ。うん、らしくない」 呟きは、誰に聞かれることもなく、すすぼけた天井に消えていく、 はずだったのに。 「あ」 という音が、いきなり割り込んできた。 寝転んだまま、天井を見上げていた妹紅の視界に、突然男の子が入ってきたのだ。 まだ幼い、声変わりもしていなさそうな男の子だった。 「!?」 驚いて跳ね置きかけ、しかし体に力が入らずに上半身を起こすことすらできなかった。 突然跳ねるように動いた妹紅に驚いたのか、少年がビクッ、と体を震わせ、 「けー姉、起きた起きた!」 そう叫びながら、妹紅のそばから立ち去った。 ――けー姉? それが何を示しているのか、すぐには判らなかった。 ぱたぱた、と去っていく少年の足音。 しばらくの間。 間切りの向こう、近いところで、誰かが離れている声。フスマで仕切られているせいか、声がよく聞こえない。二人か、三人。ひょっとしたらもっといるかもしれない。 さらにしばらくの間。 とてとて、と近づいてくる足音。 足音だけで、もうそれが誰か分かってしまった。 永い永い年月を生きてきて、そこまで判るようになったのは二人目だった。今までは、人と深く関わることはしなかったから。 最も――その二人は、両方とも純粋な人とは言えないけれど。 一人は、怨敵、自称蓬莱人。 そしてもう一人は、半人半獣。ただしこちらは怨敵ではない。それどころか、妹紅が心許せる数少ない存在だった。 その半人半獣、ワーハクタクの少女―― 「妹紅。気分はどうだ」 「……慧音」 上白沢 慧音が、フスマを開いて現れた。 顔だけを横にずらして、声のした方を妹紅は見る。 足音の主、声の主。慧音がそこにいた。 いつもの裾の開いたスカート、紅のリボンのついたセーラー。黒のストッキングを履いた足がスカートから覗いている。いつもの一風変わった帽子は頭に乗っていなかった。 代わりに、エプロンをつけていた。 ワンピースのような、白いエプロン。慧音の前半分をほぼ覆える、実用的なものだ。ところどころについたフリルは慧音の趣味だろう。ひょっとしたらお手製なのかもしれない。 「どうした? ひょっとして、まだ体が痛むのか? 起き上がれないとか……」 布団のそばまで来て、慧音が座る。スカートとエプロンがしわにならないように気をつけて。 丸く、真円を描くようにして、スカートが畳に広がる。 不安そうに顔を覗き込んでくる慧音。 慧音は何を言っているんだ――そう妹紅が思っていたのは、わずかな間だった。 すぐに思い出す。なぜ自分がここにこうしているのかを。 何のことはない。 ようするに、いつものことなのだ。いつものように輝夜の刺客が来、いつものように刺客と戦い、しかしいつもと違い力尽きて倒れてしまった。死ぬことはないが疲れはする。傷は治っても腹は減る。空腹で死にはしないが。 ようするに、腹ペコで道端に倒れていたのを、慧音が助けてくれたのだ。 ――面子が立たない。まったくもって情けない。 道の真ん中で大の字になって倒れている自分の姿を想像して、妹紅は頭を抱えてゴロゴロと転がりたくなる衝動を必死にこらえた。 「……妹紅?」 妹紅が返事をしないせいだろうか。 慧音の顔が、少しだけ不安げに、泣きそうな顔に歪む。 その、泣き出しそうな少女の頭に、 「大丈夫。少しぼーっとしてただけ。身体には問題ないよ」 ぽん、と手を置く。 いつもの帽子の代わりのように。 そして、その手を、髪にそってゆっくりと撫でた。青味のかかった銀の髪が、手櫛にとかれて揺れる。 「そ、そうか。それならいいんだ」 少し顔を赤くして、慧音があらぬ方へと視線をそらす。 いきなりそんなことをされるとは思っていなかったのだろう。 妹紅としては、特別な意味があったわけではなかった。お礼の気持ちを込めて頭を撫でただけだった。遠い昔、まだ家族がいたころにそうされたように。 けれど、慧音に照れられると、自分まで照れてしまう。 妹紅は、照れかけた表情を隠すため、 「よっ」 という掛け声とともに、上体を起こす。 今度はうまくいった。ゆっくりと半身を起こし、慧音と同じ視線の高さになる。 目が合う。 何か言おう、と思い、 「へへ」 何も言葉にならず、ただ笑みだけが漏れた。 恥ずかしいのをごまかす、照れ隠しの笑みだった。 その笑みを受けて、慧音も微笑む。妹を見るような、微笑ましい仕草を向けられたときのような、優しい笑みだった。 「さて。起きたのならご飯にしよう。もう少しで出来上がる」 言って、慧音は立ち上がる。 エプロンをしていたのは朝食を作っていたから。そんな当然のことに、妹紅はいまさら気づく。 「ひょっとして、私の分も?」 「当たり前だろう。食べていかないのか?」 「いや、食べてくけど」 頬をかく。まさか、作ってもらえるとは思っていなかった。出される物はおにぎりだろうがウサギの丸焼きだろうが迷わず食べるが、作ってとお願いすることはない。お願いする相手もいなかった。 そして、ご飯を作ってくれる相手も、そういない。 こうして慧音が朝飯を作ってくれる。 そんな、人によってはなんともない日常的なことが、妹紅にとっては嬉しく感じた。 誰かと食卓をともにすることは、妹紅はもう、無くしてしまったから。 どんな朝食が出たとしても。たとえ黒焦げの石が出てきたとしても。 今の自分なら残らす全て食べるだろうと、妹紅は思うのだ。 「妹紅。何か失礼なことを考えてないか」 「いえいえとんと。滅相もない。望月に誓ってそんなことは」 「ならいいがな。暇なら、この子と遊んで待っててくれ」 フスマをあけて慧音が言う。 慧音の視線の先、空けたフスマの先には女の子がいた。さっきの男の子と年のころが変わらない、まだ童女から抜け出したばかりの幼い少女。 「さっきの男の子は?」 「薪を割ってる」 そう、と応える妹紅の声を聞いて、今度こそ慧音はフスマの向こうへと消えた。 開け放したフスマの向こう。 黒ストを履いた足をつっかけサンダルにつっこむ慧音の後姿を見ながら、妹紅は考える。 ――さて、どうしよう、と。 やることはない。 暇なことは暇だ。 が、何かをしよう、というつもりもなかった。 布団の上にあぐらを書いて考える。 何も考え付かなかった。 座ってぼーっとするのも何なので、妹紅は立ち上がり、フスマの方へと歩く。 フスマを過ぎたところで、足を止める。 そこに、先程慧音から言われた少女が立っていたからだ。 遊んで、といわれた。 しかし、何をして遊べばいいのか、妹紅にはとんと想像もつかない。自分の知っている遊びといえば蹴鞠であり、歌詠である。そんなことを今の子供がしているとは思えなかった。 目だけが合う。 なんとも気まずかった。何を言えばいいのか、何をすればいいのか。寝起き頭のなかでそんな疑問がぐるぐると浮かんでは消えた。 沈黙を破ったのは、少女の方だった。 「……なにかする?」 少女が、おずおずと妹紅を見上げるようにして言う。比較的背の高い妹紅の、半分程度しか背がないから、自然見上げる形になるのは仕方がない。 しかし、見上げられると、おびえられているような気がする。 ただでさえ、今自分は客人なのだ――そう思い、妹紅はしゃがむ。 縁側に座り、少女と目の高さをあわせる。 賢そうな少女だった。きっと、慧音から勉強でもならっているのだろう。少しおびえてはいるものの、しっかりとした意志を瞳に奥に感じさせた。 大きくなったら、慧音に似るかもしれない。そんなことを思う。 さながら、妹紅の妹か娘のような感じだ。そこまで考えて、妹紅は苦笑をもらした。その様子を少女が不思議そうに見ているが、苦笑は止まらない。 少女が娘で、慧音が母親。なら自分はお婆ちゃんだ――そんなことを、つい考えてしまったからだ。 不思議そうに妹紅を見る少女。 その少女の頭に、さっき慧音にしたように、妹紅は手を置く。 力をいれないように、ゆっくりと頭を撫でながら、妹紅は言う。 「んーん。いいよ、お婆ちゃんは、おねーちゃんを見てるから」 「お婆ちゃん?」 「なんでもないなんでもない。さ、手伝っておいで」 頭においていた手をはずし、背中を軽く押してやる。 とん、と少女は歩き出し、一度だけ妹紅のもとを振り向いて、それから慧音の元へと行った。 蹲式の台所。しゃがんでなべをかき混ぜる慧音の隣に少女は立ち、手伝いの指示を仰ぐ。 その様子を、妹紅は楽しそうに見ている。 鼻腔をくすぐるのは、味噌汁の優しい匂い。 小さく、妹紅にしか聞こえないくらいの大きさで、くぅと、お腹が鳴った。 |
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