1 | もっとずっとぎゅっと |
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「今何時?」 「十一時」 「…………」 「加えること二十一分三十一秒とゼロ三」 「…………」 「夜のね」 はぁ、とメリーは大きくため息を吐いた。空気は肌を刺すように冷たくて、口から漏れた吐息が白く見える。日が沈んだとはいえ、寒すぎる。もうすぐ春だというのに。去り行く冬の最後の抵抗を体で感じてしまう。 意識するだけで、ぞくりと寒い空気が背筋をなでていく。寒さを感じて、思わずホームの椅子に座ったまま体を丸めた。 目ざといことに、メリーはくるりと私の方を振り返り、 「寒いの?」 「眠いの」 「寝たら死ぬそうよ?」 「そりゃあ、駅のホームで一夜をあかせばめでたく凍死体の出来上がりよ」 冗談めかして言うけれど、私たちが――自分で言うのもなんだけれど――うら若い乙女だということを考えれば、凍死体のほうがまだマシな気がした。遊びまわった挙句終電を乗り過ごして、ホームレスみたいに新聞紙をかぶって一夜を過ごしたなんて、誰かに知られたらとても生きていけない。まだ凍死体のほうが、ちょっとは救いがあるというものだろう。 氷付けにされた蛙と、車に轢かれた蛙くらいには、差があるはずだ。 ……本当を言えばどちらも嫌だけれど。 メリーは、あごに手をあてて、「ふむ」と口に出して考え込んだ。どうせろくなことを言わないんだろうな、と思った矢先、おもむろにメリーは口を開き、 「それが嫌なら、マッチ売りの少女ね」 「死ぬじゃない、最後」 「フランダースの犬でもいいわ」 「どっちにしろ死ぬじゃない!」 やっぱりろくでもない提案だった。 まあ、ようするに。 こんなろくでもない話のやり取りをできる程度には――暇なのだ。駅のホームには誰もいなくて、人目を気にする必要はない。辺りをぐるりと見回して、私たちのほかには、駅員すらいない。いまどき、箱置き式の切符入れを見ることになるとは思わなかった。 メリーは一番ホームに。 私は二番ホームに。 それぞれの家がある方へとくる電車を、寒さに耐えながら待っているのだった。空を見上げればもう完膚なきまでに夜で、空気が冷たいせいか悲しいくらいによく月と星が見えた。現在位置は駅のホーム、現在時間は二十三時と半分。 寒い。 ホームに引かれた線――危険ですので白線の内側に入らないようにしてくださいというアレ――を踏み越えて、きょろきょろとメリーは左右を確認していた。電車の光が見えないのかどうか確かめているのだろう。危ないから戻りなさいよ、と言おうと思ったけれど、まるで母親みたいなのでやめた。 私とメリーは、 親子でも、 姉妹でもなく、 秘封倶楽部の、パートナなのだから。 「蓮子」 くるりと。 メリーはその場でターンして私を見た。私はといえば、相変わらず寒いので――というよりも、立ち上がってうろうろする気力も体力もないので、椅子に座ってメリーと空を交互に見ていた。それ以外に、やることがなかったからだ。現在時刻は二十三時と半分とちょっと。現在位置はメリーのそば。 とん、とん、と、メリーはけんけんをして私のそばまで寄ってきた。座っているせいで、自然彼女の顔を見上げることになる。長く伸びた金髪が、目の前まで垂れてきている。 その顔を見上げたまま、私は問い返す。 「何」 私の顔を見下ろしたまま、メリーは答える。 「寒いわ」 「…………」 がっくりきた。 「奇遇ねメリー、私もよ」 一瞬で一年分は味わった心の疲れを隠そうともせずに、私は投げやりに言った。さすがに態度から察したのだろう、メリーは「え、あれ? 違う、違うのよ蓮子」と、あわてて取り繕うように言った。 何が違うのか教えてほしい。 慌てふためくメリーは、頬を微かに赤く染めて、空を見て私を見て、それからなぜか背後を振り返って、ようやく続きを口にした。 「蓮子、寒いの?」 「――――」 その瞬間―― 今すぐにメリーを蹴り飛ばして線路へと落とし、わき目もふらずに駅のホームから飛び出して、暇そうにしているタクシーに乗り込んで「メリーのいないところまで走れ! 今すぐ! ゴー!」と運転手を恐喝したくなる気持ちを、私は残り少ない自制心で必死に堪えた。 ひょっとしたら、堪えないほうがよかったのかもしれない。 結局無茶な思考を実行しなかったのは、それをするのすら面倒だという気力の欠如によるものだった。もし、気力か体力かどちらかが残っていれば、少なくとも蹴り飛ばすところまでは実行していただろう。 足の代わりに放ったのは、言葉だ。 「……寒いわよ、すごく。今四月ってのは嘘で、実は霜月なんじゃないかって思うくらいに寒いわ」 空を見上げる。二十三時と半分とちょっとと少し。 電車が来る気配はない。 はぁ、と今度は私がため息をはいた。息が白い。空気中の温度が息の温度よりも低いから白く見える、という理屈だったはずだけれど、自信はない。理屈はわからなくても、白い息を見ていると、寒さを実感してしまう。 寒くないはずはない。 私よりもメリーが平気そうにしているのは、きっと体脂肪分が私よりも多いからに違いない。そうだ、脂肪が多いんだ。ソレだって突き詰めれば脂肪にしかすぎないのだ。脂肪がいっぱいあるからって何を誇れるものがあるというのだ。 ふん。 絶対に言葉に出さない思考を、頭の中でくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。一コブラクダが二コブラクダをはじめて見たとき、こんな気分になったのだろうかと、そんな馬鹿なことを考えてしまうけれど、それも同じように投げ捨てる。 メリーはといえば、何を得心したのか知らないけれど、「そう、そうよね」としきりにうなずいて、 「私、体温高いのよ」 「へえ」 自慢なのか何なのか理解できない言葉をききながら、子供みたいだな、と思う。たしか、子供は大人よりもずっと体温が高かったはずだ。子供は風の子、という言葉も、確かそこから来ていたような気がする。 子供は湯たんぽ、でもいいのに。 「そうなのよ」 メリーはもう一度うなずいて、私の隣に腰を下ろして。 「だから、ね? これで――暖かいでしょう?」 有無を言わせず、私に抱きついてきた。 「…………」 突然の行動に言葉がつまる。横を見れば、指二本分くらいの距離にメリーの笑顔があった。満面の笑顔。自分のやっていることに、何の疑いもない顔。 ――確かに。 暖かくはあった。風が入る隙間もないほどに近くに座っているおかげで夜風にさらされることもない。メリーの体温は子供みたいに暖かくて、湯たんぽのように思えた。このままずっと抱きついていて、メリーの体温で低温火傷してもいいかなって、そう思うくらいに。 寒いせいだろうか。 夜だからだろうか。 結局、私はメリーに対して。 「……そうね」 素直に、頷いた。 私の言葉に、メリーの笑みが深くなる。体に回された手に力が入り、もっとずっとぎゅっと身を寄せてくる。二つの脂肪分が押し付けられていることについては、考えない。 母親に抱きしめられる子供ってこんな気持ちなのだろうかと、ちょっと変なことを考えてしまった。この場合、母親はどちらになるのだろう? 「蓮子の体、ほんとに冷たいわ」 「メリーの体は暖かいわよ」 「きっと、蓮子は心が優しいのね」 「それは手でしょう――第一、手が冷たい人が心がやさしいっていうなら、」 「言うなら?」 首をかしげるメリーの顔を。 体が温かいメリーの顔を、じっと見つめて。 私は、言った。 「暖かい人は――それよりずっと、やさしいのよ」 「…………」 メリーは。 メリーは、すぐには何も言わなかった。私の言った言葉の意味を、ゆっくりと、頭の中で租借していた。なんだか恥ずかしくなって、私はふいと視線をそらしてしまう。現在時刻は二十三時と半分とちょっとと少しとわずか。 一分くらい、メリーは考え込んでいたように思う。それから、私と同じように、空を見上げて。 「ありがとう、蓮子」 そんなことを、ぽつりと、こぼすように口にした。 それは―― その言葉は。 その言葉は、私が言うべきなのだ。 そう、言おうとして。 「あ、」 メリーのつぶやきに、言いかけた私の言葉は遮られた。何かを見つけたような、ちょっと驚いたような声。何を、といいかけて、私もすぐに気づく。 メリーの見ている方。 私の見ている方。 空から。 ゆっくりと――音もなく。 雪が。 「……どうりで、寒いはずだわ」 はらはらと。 ひらひらと。 舞い落ちるように姿を見せ始めた白い雪を見ながら、私は呟いた。雪に力はない。けれども雪たちは、本当に楽しそうに、夜の空を舞っている。月の下を舞っている。駅で待っている私たちの前で、雪たちは、しんしんと降っている。 つもりはしない。 降っては風に舞い上がり、地に落ちてはすぐに消えてしまう。 名残雪。 冬の名残の――最後の雪。 雪は積もらない。 雪は消えて――春が来る。 冬が終わって、春が来る。 「綺麗、ね」 私と同じように、夜を踊る雪を見つめながら、メリーが言った。雪が淡く月光を反射して、その光がメリーの瞳の中で踊っていた。 ――彼女には。 ふと、思う。 結界を見ることのできる彼女の瞳には、この景色がどう見えているのだろうと、 この世界がどう見えているのだろうと、思った。 けれど思いは言葉にはならなかった。私はただ、「うん」と、言葉も少なく頷いた。 「静か、ね」 「うん」 「寒い?」 「今は、そんなに」 「私も」 ぎゅ、と。 もっとずっとぎゅっと――メリーが抱きついてくる。私も、その体に手を回して、メリーの体を抱きしめた。触れたところから、互いの体温が混ざり合っていく。外は寒く、雪は降って。けれど暖かくて。 冬が去って。 春が来る。 最後の夜。 最初の夜。 しんしんと、雪が降っている。 やがて、 そのうちに、 かん、かん、かん、と。 汽車が、やってくる。 名残雪の降る世界を、白いハイライトの光が照らし出していく。二乗の光。汽車の光。 一番ホームに、汽車がくる。 がたん、ごとん、がたんと。 静かな世界を汽車の音が塗りつぶし、その音はだんだんと大きくなって――やがて消えた。一番ホームに汽車はたどり着き、その音を静かに眠らせた。停車した汽車の上にも雪は舞い降り、そして溶けて消えていく。 扉が開く。こぼれでた光が、誰もいないホームを照らしている。 「汽車、きたわよ」 「……うん」 「…………」 「……うん」 メリーは、力なく頷いて。 それから、空を見上げて――雪を見上げて。 「――――またね、蓮子」 月のように明るい声でそう言って、蓮子は私から離れて立ち上がった。体温が、ふつりと断絶されて離れていく。「あ、」と私は言いそうになった。離れたメリーへと、手を伸ばしそうになった。 けれど、 結局、 手は、伸びなかった。伸ばしかけた手を、私は、小さく横に振った。 ばいばい、と。 手を振って、私は言う。 「またね、メリー」 「うん、おやすみなさい、蓮子」 「おやすみなさい、メリー。よい夢を」 別れの言葉に、メリーは笑って。 とん、とん、とん、と。 軽い足取りで、スキップでもするかのような足取りで、汽車の中へと飛び込んだ。それを待っていたかのように扉が閉まり、汽車はすべるように走り出した。窓から見えるメリーの横顔が、あっという間に遠ざかってしまう。 汽車は、瞬く間に、私の視界から消える。 無人のホームに残されたのは、 私と、雪だけだった。 「――――」 メリーが去ったホームに残った私は、立ち上がる力もなく、深く椅子に腰掛けたまま空を見上げた。落ちては溶ける雪を見つめた。その向こうに見える、ぽっかりと丸い月を見上げた。 「…………はぁ」 吐いた息は白く、時刻は零時丁度だった。 (了) |
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