夏の匂いがした。
「―― 」
しょっぱくて、塩の味をはらんだ風。気温は暑いのに、吹く風は熱を孕んでいるのに、通り過ぎる一瞬に心地よく感じてしまう風だ。夏の暑さと匂いを孕んだ、一年でもこの季節だけにしか感じることのできない風。
神の風ではない、自然の風。
その風が、東風谷 早苗の首筋をくすぐっていく。制服の襟を逆立たせながら、長く伸びた緑の髪をたなびかせながら、後ろからきた風は前へと去って行く。風を吸って膨れ上がったスカートが、旗のようにたなびいた。
手で押さえ、足を止める。
隣を行く神はとまらない。風にのって歩むように、片足でけん、けんと、跳ねるようにして歩く。両手を横に広げてバランスをとるのは、白線の上から落ちな
いようにするためだ。一車線しかない田舎の道路の、所々アスファルトが壊れている古びた道路の、薄れて消えかけた白線の上を神の少女は歩く。
名を、諏訪子という。
その名に秘められた意味を、早苗はよく知らない。
知らないままに、隣を歩いている。
「 ――」
夕暮れ時だった。
海の向こうに太陽は沈もうとしている。凪いだ海の果ては地平線のようで、その果てが赤く染まっている。夏よりも短い、夕暮れにしか見ることのできない光
景。果てに沈む太陽は、海を、彼女たちを、そしてその向こうにある山をも赤く染める。夕焼け小焼けの海岸線を、二人の少女が歩いている。
一人と、一人かもしれない。
一人は現人神の巫女で、
一人は失われた神なのだから。
一人と一人で、けれど独りではなくて。手をつなぐこともなく、けれど離れることもなく、彼女たちは歩んでいる。
夕暮れの道を。
夏の道を。
「…… 」
右手の果てには海と太陽があり、左手の向こうにはそびえる山がある。その閾となる夏の道を、二人で歩く。消えかけた白線を、諏訪子は一歩一歩踏みしめて。
その背中を追うように、早苗も再び足を進めた。
ゆるやかに吹く風に押されるようにして、急ぐことなくゆっくりと。踏みしめた地面の感触を、体が押し分けていく空気の匂いを、刻一刻と変化する光の色を味わいながら。
長く長く、影が伸びている。早苗の陰の方が少しだけ長い。海から来る光を浴びて、影は山へと伸びている。追い抜くことなく、離れることなく。影は現の跡を追い、影は影を追いかける。足音なく、静かに。
ぺたん、ぺたんと――諏訪子が跳ね、地に触れるたびに軽やかな足音が。
こつ、こつと――小さな歩幅の早苗の靴が、時計の秒針のように足音を刻む。
現だけが、音を奏でている。
「 ……」
前を行く諏訪子が何かをいい、その背を追う早苗が手を口に当てて笑う。そのことに気をよくした諏訪子はさらに何かをいい、大仰に手振りをくわえ、転びかけてくるりと回り――再び白線の上に着地する。小さな拍手。落ちかけた帽子を、諏訪子は両手でかぶりなおす。
他愛のない会話だった。
明日になれば忘れてしまうような、
昨日には失われてしまったような、
意味も意義もない、ただの会話だ。
ただの、言葉で、
ただの、感情だ。
感情のやり取り。言葉に意味はなく、ただそこにいることこそが必要なのだと――彼女の笑顔は物語っていた。
「 ―― 」
手を後ろで組み、早苗は前をゆく諏訪子に語りかける。諏訪子は振り向かない。けん、けん、けん――片足だけで白線を踏み、前へ前へと進む。
前には何もない。
どこまでも道は続いている。なだらかな山の向こうまで。あるいは、凪いだ海の終わりまで。海岸線の続く限り、山のある限り、道は続いていた。先は蜃気楼のようにかすんでいて見えない。アスファルトから立ち上る夏の熱気が、陽炎のように揺らいでいた。
どこからか――蝉の声が聞こえてきそうな、夏。
昼間ほどは暑くなく、けれど暑いことに違いはなく。早苗の首筋を汗が一筋流れ、アスファルトの上に小さな染みを作る。それを置き去りにして、早苗は前へと往く。
「 …… 」
諏訪子が嘯く。早苗が微笑む。波の音は聞こえない。蝉の声は届かない。彼女の声だけが世界の全てで、彼女の姿だけが世界の全てだった。陽炎に軋む世界はよく見えない。そこにあるものだけを、早苗はただ追いかける。
影が回る、
くるり、
くるりと。
現が巡る。
くるり、
くるりと。
白線の上で蛙の神が踊る。踊るように笑い、笑うように歩く。進んでも進んでも追いつかない。けれど置き去りにすることもない。誘うように楽しむように、彼女は舞っている。あるいは、待っている。全身で夏を受け止めながら。
「 」
明日もきっとこんな日になるのだろう――早苗はそう思った。昨日もきっとこんな日だったのだろうと、そうも思った。思うだけだ。あるいはそれは、願い
だったのかもしれない。傾いた日差しがやけに眩しくて、夕焼けに照らされた諏訪子の姿があまりにも赤くて、そんなことを考えてしまったのかもしれない。
足が止まる。
風が止む。
波はなく、
蝉もいない。
足音すら消えて、
世界は、静かに。
ただ、静かに――
「早苗」
前を往く神の足が止まる。彼女は振り返らない。深く帽子をかぶり、空を見ていた。上を見ていた。前でもなく後ろでもなく、ただ遠い遠い、夏の空のその果てを見やっていた。
歩き出すことなく、早苗も同じように空を見る。赤から紫へとかわりゆく空。昼から夜へと移りゆく空。西の果てに太陽は沈み、風はなく雲もなく、
宵の明星を、彼女はそこに見た。
狭間に見える輝きを、閾の上で、早苗は見た。
ああ――
口から呟きが漏れる。それは囁きであったのかもしれないし、ため息であったのかもしれない。自身ですらよくわからない感慨だけが胸の中にあった。
その輝きを、目に宿したままに。
早苗はゆっくりと顔を下ろす。先と何ら変わることなく、神の少女の背がそこにある。
「諏訪子様」
名前を、呼んで。
名前に答えるように――風が吹く。何よりも強い風が。世界の果てから、また果てへとゆくような夏の風だ。忘れられた波の音が風でよみがえる。ざぁ――
ざぁ――フルートの音のように、反響しながら耳に届く。風にあおられた緑の髪が、旋律のように前へと広がった。スカートが広がり、
風にのって、大きく足を踏み出した。止まらない。かつん、と心地よい音とともに、踏み出した足は白線の上に着地する。
白線は、線路のようにどこまでも続いている。
(了)
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