1 | 嗚呼お願いします、あの月を取ってくださいな。 |
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――呼ばれているような気がするの。 「……誰に?」 いつもの喫茶店、一番奥の席。壁際に灯されたランタンの照り返しが、正面の席に座るメリーの顔を照らし出していた。生まれた影は、夜よりも濃い。どこか、ホラーじみた光景だった。喫茶店の中だというのに、百物語をやっている気分。 「誰かに、よ」 つぅ、とワイングラスの縁を撫でながら、メリーが答えた。指先で奏でられたワイングラスの音色が、私の耳に心地良く響く。いいワイングラスを使ってるんだな、と妙なところで感心してしまう。 「メリー、メリー! いくら私でも、そんな曖昧な言葉じゃ分からないわよ!」 ま、秘封倶楽部の片割としては、曖昧なメリーの言葉になんて慣れている。 我が親友、マエリベリー・ハーンは、いつだって曖昧だ。言葉も、動作も、立ち位置も。 見ている世界が――曖昧なんだから仕方ない。 「呼ばれてるって、ポン引きにでもあったの?」 「蓮子、お下品」 「じゃあマグロの一本釣り」 「蓮子……私のこと、一体なんだと思ってるのかしら?」 ふむ、と少し考え込む。それは中々に難しい命題だ。 とりあえず、思いつく限りに答えてみる。 「まず変人でしょ。それから――やっぱり変人じゃないかしら。境界を見ることができて、ちょっと間が抜けてて、時々鋭い、秘封倶楽部のメンバー。そんなところ?」 「一つ抜けてるわよ」 「え?」 メリーはぴっと人差し指を立てて、口の端に笑みを浮かべながら、 「――宇佐見蓮子の、お友達」 † † † 「『早く起きてください』って、夢の中で呼ばれてるの。それとも夢の中から呼ばれてる?」 とん、とん、とん、とリズムにのってメリーが階段を降りる。かつん、かつん、かつんと、石段に靴が触れるたびに音が鳴る。 夜の町は静かだ。歪に歪む朧月だけが、暗い街を照らしてる。人気はまったくなくて、絵本の中の町に入り込んでしまったように錯覚してしまう。 私の前にはメリーがいて。 メリーの後ろに私がいて。 二人で、無人の街を、歩いていく。 「早寝早起きを心がけないからよ」 「たっぷり眠るのが健康にいいのよ?」 くるりと振り返り、後ろ向きのままにとんとんとんと、器用にメリーは階段を降りていく。危なっかしいことこの上ないけれど、不思議とメリーの足取りは安定している。月に照らされた影絵の街を、メリーは踊るように降りていく。 「夢の中は夢?」 「夢は夢よ。メリー、貴方が見るのが夢なら、貴方を見ているのも夢ね」 「なら、夢の外も夢?」 「どっちが中で、どっちが外かなんて、誰にも分からないわよ」 くるり、 くるり、 くるくると。 月光の下、メリーは楽しそうに跳ね踊る。私はその後を、ため息を吐きながらついていく。こういうメリーは見ていて中々楽しいものがある。そんなメリーについていく私を、私は実のところ気に入っている。 いつも通りの、秘封倶楽部の活動。 振り返って、メリーは言う。 「ここは夢?」 メリーの手をとって、私は答える。 「『ここ』って、『どこ』?」 私の答えに、メリーは満足げに笑った。 † † † 影しかない夜の街を、月を追って歩きつづける。かつん、かつん、かつん。響くのは私とメリーの足音だけだ。手をつないで、目的地も目的もなく歩いていく。 目的地なんてない。 目的なんてない。 何気ない時間が、かけがえのない、秘封倶楽部の活動時間。 不思議と隣り合わせの散歩。 夜の街は別の世界だ。境界の向こう側と、くるりと入れ替わってしまったかのように。どんな不思議が起きても、それこそ不思議ではない。 「それで、貴方はどうするのよ?」 隣を行くメリーに問いかける。メリーは「え?」と首を傾げ、そのせいでよろよろと転びかけた。「わ、わわ」と体勢を立て直すメリーにため息を一つ送って、 「危ないわよ」 倒れないように、繋いだ手を引いてあげる。さっきよりずっと近くに、メリーの顔があった。 「ありがとう」 素直にメリーはお礼を言って微笑んだ。こういう素直なところは、ちょっとだけ羨ましい。 再び横を歩き出したメリーに、私はもう一度、分かりやすく問うことにする。 「呼ばれて、貴方はどうするの?」 訊ねるのには、ちょっとだけ勇気が必要だった。 呼ばれている、とメリーは言う。 それは――ここからいなくなるということに他ならない。 呼ばれて、遠いどこかへ行ってしまう。 境界を見ることのできるメリーは、きっと境界を越えてしまう。 ――そのとき、私はどうするんだろう? 考えたこともなかった。考えても、分かりそうになかった。 「そうね」 そんな私の思考を余所に、メリーはあっけらかんと、明るい声で応えた。 「蓮子はどうするの?」 「え? 私? 私は――」 私は、どうするんだろう。 答えに詰まる私の顔を横から覗き見て、メリーは微笑みと共に言った。 「蓮子が一緒なら、行ってもいいかなって思うけど」 「――――え」 予想外の言葉に、私の思考が、一瞬だけ止まる。 その、一瞬に滑り込むように。 「だって――」 メリーは満面の笑みを携えて、とどめのような一言を放った。 「私と蓮子、二人で――秘封倶楽部じゃない」 言葉に嘘はない。メリーの笑みに、嘘はない。 マエリベリー・ハーンは、心の底から正直に、嬉しそうにそう言った。 「…………」 あんまりといえば、あんまりな意見に。 私の口にも――笑みが浮かんでしまう。 「まったく、ホントメリーはメリーね」 「……今馬鹿にされたのかしら?」 「褒めてあげたのよ、マエリベリー・ハーンお嬢さん!」 「有難う、宇佐見 蓮子サン」 あはは、と私は笑い、メリーも笑う。 夜の街には誰もいない。影だけがどこまでも伸びている。空を見上げれば朧月。 けれど私は、空を見上げない。 月も星も必要ない。今が何時かなんて、此処がどこかなんて、そんなことは些細なことだ。 隣にメリーがいて、ここに私がいる。 秘封倶楽部としては――それだけで十分というものだろう。 「さ、行きましょメリー」 「どこへ?」 「どこかへ、よ!」 私達は笑いあいながら、夜の街を何処までも駆けてゆく―― (了) |
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