1 優しい幻想郷の滅ぼし方
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 部屋の中は薄暗く、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
 窓が一つもない。おかげで、外がどうなっているのか、昼なのか夜なのか――それすらも、霧雨 魔理沙にはわからない。外と繋がるのは正面にある扉一つきりであり、その扉には少女が寄りかかるようにして立っているため、外に出ることもできなかった。
 魔理沙と相対する少女は、笑っている。
 紫色のゆったりとした服に身を包み、黄金に揺れる髪を帽子で包んだ少女は、笑っている。

 境界を操り、幻想郷を滅ぼした少女は――妖艶に笑っている。

「――どうして」
 魔理沙が問う。様々な意味を込めて。不可解なものを尋ねるために。疑問符をただの一言にまとめて、魔理沙は問う。『どうして』と。
「どうして?」
 紫色の少女は、『心外だ』といわんばかりの声で、魔理沙の言葉を反覆した。おどけたように片方の眉があがる。
「どうして、ですって?」
「…………」
 魔理沙は何も言わない。少女の瞳をじっと覗きこんで、何を言おうともしない。
 店にいるのは、二人だけだ。
 他の者は――いない。
 誰も、いないのだ。
「そうしたかったから、では駄目かしら」
「…………!」
 魔理沙の瞳が吊りあがる。明確な怒りと、微かな戸惑いを持って。
 一方の少女は、その怒りを受けても戸惑う様子はない。笑みを消すこともなく、魔理沙の瞳を逆に覗きこむ。
「私は幻想の世界を愛していて――だからこそ、幻想郷を滅ぼした。それじゃあ不満かしら?」
 少女は言う。
 私は、幻想郷を愛していると。
 少女は言う。
 だからこそ、滅ぼしたのだと。
 普通に考えれば相反するであろう二つの意味を、少女は『だから』という接続詞で纏めた。愛しているから滅ぼす――それがどういう意味なのか、魔理沙には解らない。
 解りたいとも、思わなかった。
「……お前を倒して、異変を解決するぜ」 
 魔理沙は懐から八卦炉を取り出し、明確な敵意と共にそれを少女へと向けた。八卦炉から放たれる必殺の魔力に、魔理沙は自信を持っている。たとえ相手が境界を操るような相手でも、全力で掛かれば負けることはないはずだ。
 何よりも。
 負けられない、と魔理沙は思うのだ。
 自分の愛した幻想郷を滅ぼしたような相手に、負けるわけにはいかない――その思いが、魔理沙に力を与えた。相手を倒せば、滅んだ世界も元に戻るだろう、そんな思惑もあった。
 だが、少女は、そんな思いを読みとったかのように――首を横に振った。
「私を倒しても、無駄でしょうね」
 魔理沙はもう何も言わない。
 聞く耳を持たない。手に持つ八卦炉に力を込める。今にも張り裂けてしまいそうな緊張が店の中を圧迫していく。 
 その中で尚、紫の少女は平然としていた。
 淡々と、少女は魔理沙に告げる。
「なぜって――――」
 今にも魔砲が撃たれるという、まさにその直前。
 少女は、魔理沙の脳を揺さぶる、真実を口にした。
 

「――幻想は、滅んではいないのだから」


 そう言って――少女は、にっこりと笑った。

 子供のように、優しい笑みだった。




        ◆ 優しい幻想郷の滅ぼし方 ◆




 初めに違和感を感じたのは霧雨 魔理沙だったが、事態そのものに気付いたのは三番目だった。
 魔理沙がそのことに気付くよりも先に、異変に気付いたものが二人いる。
 八雲 紫と、射命丸 文だ。
 八雲 紫は、その能力によって。
 射命丸 文は、その行動力によって。
 二人はいち早く異変に気付き――そして、気付いただけで何もしなかった。完全に、放置した。
 能力によって事実を悟った紫は、そのあり方ゆえに何もしないことを選び。
 記者たる文は、その信念ゆえに自ら動きはしなかった。

 

 だから――初めに違和感を感じたのは、幻想郷中を飛びまわる魔女、霧雨 魔理沙だった。



「最近変だぜ」
 博麗神社の鳥居に背をもたれ、魔理沙は低く抑えた声で呟いた。帽子をまぶかにかぶっているせいで表情が見えない。腕を胸の前で組み、指先で肘をゆっくりと擦っている。
「何が変なのよ」
 答える霊夢は対照的だった。落ち着いた動きで境内に落ちる葉を集めている。箒が地面に触れるたびに聞き心地のよい音が響く。声には興味関心の色が一切なく、どこか眠そうですらあった。
 二人のほかには、誰もいない。
 物理的には幻想郷の境目とはいえ――意味的、人的には幻想郷の中心に位置する博麗神社にしては珍しいことだった。大抵、暇そうにしている妖怪の一人や二人は転がっているというのに、今日は人の気配も妖怪の気配もなかった。日が真上にあるため、吸血鬼の姉妹がこられないのはわかるが――鬼や悪霊ならば、いてもおかしくはないだろうに。
 もっとも、鬼や悪霊がごろごろと寝そべる神社というのは、何かがおかしい気もするが。
【我関せず】という態度を取る霊夢を相手にしても、魔理沙に焦った様子はなかった。むしろ、自分の考えに自信が持てずにいるような口調で、
「うまく言えないんだけど……なんか変だろ」
「妙に歯切れが悪いわね。第一、変なことが起きるのはいつものことでしょう?」
 ふぁぁぁ、と霊夢がちいさく欠伸をした。眠そう、ではなく眠いのかもしれない。瞳に浮かんだ涙をこすり、再び箒で掃いていく。
 秋も深まり、そろそろ葉が役目を終えて落ち始めていた。
 風が吹くたびに、静かに舞い落ちる葉を見ながら、魔理沙が言う。
「そりゃそうだけど……なんか、変なんだよ」
 肘を擦っていた指で、波うつ金の髪を弄くり出す魔理沙。自分の思っていることをうまく伝えられないのがもどかしいのだろう。
 そんな様子を見ても、霊夢は淡々と掃除を続ける。
「いつものこと、よ。どんなことにしても」
「ずいぶんと消極的だな」
「いつも違うことが起きる、って考えなさいよ」
 そういうの得意でしょ、と霊夢は言葉を結んだ。掃くのが終わったのか、集めた枯葉の山の中に札を一枚差し込む。またたく間に札は燃え上がり、火は枯葉にも燃え移る。
「焼き芋でも食べたいわねー。魔理沙、お芋持ってないお芋」
「持ってるわけないだろ……」
 はぁ、と魔理沙はため息一つ。霊夢は気にした様子もなく、その場にしゃがみこみ、炎に手をかざして「温かいわよ」と嬉しそうに呟いた。夏はとうに終わり、近ごろはゆっくりと寒くなり始めている。
 その姿を見ながら、「あー」と唸りながら魔理沙はさらに考え込む。どうしても気になるらしい。頭の中に沈殿している記憶を、隅から隅までひっくり返しているようだ。
 あー、だの、うー、だの唸り続ける魔理沙をちらりと見遣り、霊夢は呆れたように言った。
「まだ考えてるの? 何か異変が起きたら、そのとき動けばいいじゃない」
「だから、そうじゃなくて、そう――」
 霊夢の言葉が、ヒントになったのか。
 頭の片隅から、魔理沙はようやく、違和感に最も近い言葉を探り当てた。土中から金塊を見つけたときのように、その言葉をそっと、丁寧に口にする。

「変なことが、起きないんだよ」

 霊夢の表情は、動かなかった。
「平和でいいじゃない。世は全て事もなし、よ」
 言って霊夢は立ち上がり、袴の裾を手で叩いた。それが合図だったかのように、枯葉は燃え尽き、火が静かに消えた。わずかに残った煤も、秋風に乗って遠くへ去っていく。
 風が吹く。魔理沙が帽子を深く被りなおす。
 霊夢は――遠くを。
 まるで幻想郷の果てまで見晴らすかのように、遠くを見つめて、「寒くなるわね」と言の葉を風に乗せた。


        †   †   †


 風を感じる。
 地表にいるならばともかく、空を飛んでいるときは常にそう思ってしまう。穏やかな地上とは違い、空から風が消えてなくなることはない。空気は常にゆるやかに流れている。巨大な雲すら動かす風に逆らって飛ぶには、膨大な体力と魔力を使ってしまう。
 が、今魔理沙は積極的に飛んでいなかった。風の吹くままに、流されるように飛んでいる。目的地はない。しいていうのならば、飛ぶこと自体が目的だった。
 ゆっくりと、遥かな高みから、幻想郷の全景を眺めながら飛ぶ。
 広い――と魔理沙は思う。
 遠くに見える山々は、どんなに速度を出しても辿り着けない気がする。魔力を最後の最後まで使っても、空に浮かぶ太陽や月に届かないようなものだ。果てはあるが、果てまで辿り着くのは難しい。
 そう――果てはあるのだ。
 博麗大結界。
 それこそが幻想郷の果てだ。四方といわず八方といわず、幻想郷の全てを包み込む巨大な結界。外と中を区別する、概念の壁。意味で区切られた箱庭、それが幻想郷だ。
 見える壁は、何もない。
 けれども、たとえ空に向かって飛ぼうとも、その空を越えることはできないだろう。月からの使者が幻想郷へ降りてこられないように。
 それは空だけではない。遠くに見える山に向かって飛んでいても、いつのまにか元に戻っていることがある。迷いの竹林に近いが――それをさらに巨大化し、違和感をなくしたようなものだった。
 幻想郷の外へは出られない。
 幻想郷の中に入ってこないように。
 ごく稀に――外で幻想となってしまったものが、内外で区別をなくし、幻想郷の内へと迷い込んでくることはあるが、それはあくまでも例外だった。
 外と中は、概念で区切られている。
 失われたものは内へ。
 幻想が辿り着く場所。それこそが、この幻想郷だ。
 だからこそ、幻想郷には『変なもの』が集まりやすい。それは集まれば集まるほど、相互反応を起こし『変なこと』を巻き起こす。幻想郷が異変に満ちているのも、その異変を巫女が日常と感じてるのも、ある意味では当然のことなのだ。
 妖怪と人間が共存する楽園。
 けれども。
 けれども――
「……やっぱり、変だぜ」
 誰にともなく――空の彼方では、誰に聞こえるはずもなく――魔理沙は呟いた。周りには誰もいない。風と雲があるばかりだ。
 そう、誰もいないのだ。
 普段ならばこれ幸いと寄ってくる記事目当ての天狗や、暇そうな妖怪が、一人も近寄ってこなかった。妖精やら何やらがたまに飛んでいるが、積極的に魔理沙に近寄ってこようとはしていない。
 なんだか、幻想郷から無視されているようで、あまりいい気分ではなかった。
 普段なら、誰かしら寄ってきて、何かしら起きるというのに。相手が誰でもいいから、思い切り弾幕遊びをしたい気分だった。だというのに、肝心の相手がいない。一人で遊ぶのは虚しすぎる。
「神社で寝てればよかったかな……」
 悔いをこめて呟くも、今更遅い。今から神社に戻るのは何となく癪だった。どうせ、霊夢に何かを言われるに決まっている。何が変なのか、結局説明できなかったのだから。
 せめてそれを説明できれば――霊夢と競うようにして異変の解決に乗り出せれば――この、胸が空っぽになったような感情も、どうにかできるかもしれないのに。
 ふん、と一度息を吐いて、魔理沙は箒を握る手に力を込める。
 風の向くままに飛びながら幻想郷の空を飛んでいたが、結局誰にも会えなかったし、異変らしい異変を見つけることもできなかった。いい加減漂うようにして飛ぶのにも飽きてきたのだ。
 箒にさらに力をこめて――魔理沙は一気に加速した。
 身体にぐんと負荷がかかる。風を、そして空気を押し分けるようにして飛ぶ。さっきまで身体を運んでくれていた風が、今度は強大な防壁となって覆いかぶさってくる。
 その力に負けることなく、魔理沙は悠々と飛び続けた。
 明確な目的地を以って。
 紅魔館に行こう、と思ったのは半ば偶然だった。迷いの竹林に行くのは、今の心境をそのまま表しているようで嫌だった、というのが一番強い理由なのかもしれない。それに比べれば、門があり、門番がいて、正面から入館を防ごうとする紅魔の館に行きたかったのかもしれない。あるいは単純に――あそこにいけば、誰かが弾幕遊びをしていると思ったのかもしれない。
 が、魔理沙本人には、ほとんど自覚がなかった。
 ほとんど何も考えずに、飛ぶ。
 何も考えないようにして――飛ぶ。
 元々、何かを深く考えるようなタイプではなかった。考えるよりも動く。異変が起きたらまず動き、体当たりでぶつかって解決する。解決したあとで考える――それこそが霧雨 魔理沙だった。
 当たる壁がなければ、どうしようもない。
 だからこそ心がもやもやして晴れないのかもしれない。どんなに飛び回ろうが、異変が解決するどころか、姿すら現さないのだから。
 思考を止めた頭の隅で、そんなことを思いながら、魔理沙は飛び続ける。
 紅魔館目指して。
 魔理沙は、飛ぶ――飛び続ける。
 飛んで、飛んで、どこまでも、どこまでも、紅魔館を目指して飛び続けて。
 果てが、やってこない。
 紅魔館が、見えてこない。
 さらに飛んで、その上で飛び続け、なおも飛んでも、紅色の館は見えてこない。
 眼下に見えるのは、平和な幻想郷の光景だけだ。
 異変など、何一つ起きていない、
 どこまでも――幻想郷は、平和だった。
 平和な世界を眺めながら、魔理沙は飛ぶ。
 飛び――続ける。
 やがて――
 自分でも解らないくらいに飛び続け――
 魔理沙は、ようやく辿り着いた。


「あら、魔理沙――お帰り」


 博麗神社に、辿り着いた。

「…………」

 狐に化かされた気分だった。


        †   †   †


「おかしい……絶っ対におかしいぜ」 
 荒い口調で疑問符を吐き出しながら、魔理沙はさらに箒の速度をあげた。そのたびに風の圧力は階乗に増えていくが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。力まかせに乱暴に風を押し分け、少しでも速い速度を出そうと上半身を箒にぺったりとつける。風の抵抗を抑え、箒はゆっくりと加速していく。
 博麗神社が、豆粒のように小さくなって、消えた。
 今は、速度を出してはいるものの――どこかに向かっているわけでもなかった。
 あてもなく飛んでいる、というのが正しい。
 肝心の『あて』が、存在しないのだから。
 そう――存在しない。
 紅魔館に向かって飛んでいるつもりだった。目的地は紅魔館であり、今までにも幾度となく訪れている場所だった。深い竹林の奥や一度もいったことがない場所ならばともかく、空を飛んでいて迷うはずもない。
 迷うはずが、ないというのに。
 まるで今まで見ていたものが蜃気楼だったかのように――紅魔館は影も形もなく消えていた。もちろん、魔理沙は心の底からそう信じているわけではない。ただ単純に、紅魔館が『ある』ことを証明しきれないだけだ。
 どんなに急いでも。
 どんなに探しても。
 紅魔館どころか、その周辺にあったはずの湖さえ、見つけることができなかった。影も文字通りの意味で、影も形もなく紅魔館は無くなったとしか思えなかった。最初からそんな館は存在しないと言われても信じてしまいそうなくらいに――紅魔館は、完全に消失していた。
 ひょっとしたら、どこかにはあるのかもしれない。
 魔理沙が見つけ出せないだけで。
 けれど、見つけられない以上――それは存在しないのと変わりがなかった。
 挙句に、まったく別の方向に飛んでいたはずなのに、博麗神社に戻ってきていた。
 どう考えても、異変だった。
 正体の推測すらつかない、完全なる異変だった。
 異変である以上、自ら積極的に関わっていくべきだ――そう思った魔理沙は、すぐに博麗神社を飛び出し、他の場所へと戻った。
 だというのに――
「……紅魔館だけじゃ、ないの……か?」
 自信なさげに魔理沙が呟く。自分でも信じたくないというような声だった。
 紅魔館がない以上、他の場所を探すべきだ――魔理沙はそう思い、最も怪しい白玉楼と永遠亭を訪れたのだ。
 否、訪れようとしたのだ。
 訪れることは、できなかった。
 どんなに空の高くまで飛んでも、白玉楼へと繋がる門を見つけることすらできなかった。
 どんなに地を飛ぼうとも、竹林すら見つけることができなかった。
 それどころか――その道中で。
 魔理沙は、一度も、他の妖怪に出会わなかった。
「異変だぜ――これはもう、間違いないな」
 周りに誰がいるでもないのに、不安にかられてか、魔理沙は大きな声でそう口に出した。頭に浮かんだ悪い想像を、無意識のように消そうと思ったのだろう。
 紅魔館に辿り着けなかった。
 白玉楼に辿り着けなかった。
 永遠亭に辿り着けなかった。
 その道中で、誰にも会えなかった。
 その事実に、魔理沙は思わずにはいられないのだ。
 ひょっとすると――――もう、誰もいないのではないかと。

 幻想郷には、自分ひとりしかいないのではないかと、思ってしまったのだ。

 だからこそわざわざ口に出したのだ。誰かが答えてくれることを祈って。
 けれども――当然のように、返事はなかった。
 誰も、答えてはくれなかった。
 魔理沙は口を一文字に引き結び、低空を飛ぶ。
 目的地は、神社だ。
 今起きているのは、間違いようもなく異変だ。異変ならば解決するだけだ。そうすれば、いなくなったように見える皆も帰って来るだろう。
 何よりも、異変が起きたのなら――博麗 霊夢が、重い腰をあげるだろう。 
 そう思って、魔理沙は博麗神社へと向かっている。本音の部分では、自分以外の誰かがいるのを確認したかったのかもしれない。

 が――

「…………」
 ついに、魔理沙は箒を止めた。
 かれこれ、数時間は飛び続けている。休むことなく、博麗神社を目指して。
 だというのに。
 紅魔館のように。
 白玉楼のように。
 永遠亭のように。
 博麗神社は――その姿を、消していた。
 いくら飛ぼうとも、魔理沙が、博麗神社に辿り着くことは、なかった――――


        †   †   †


 神社と同じように、幻想郷の中心となっている場所はもう一つあった。その事実を知っている者はほとんどいないし、意味を無理やりこじつけたような、言葉遊びの延長線上にあるような『中心』だが、本人がそう主張している以上それは真実だった。
 香は神、つまり神社であり、博麗神社に通じる――そう言ったのは、いつのことだったか。それとも言われてはおらず、自分で考え付いたのか。遠い昔のことでもないのに、魔理沙は思い出すことができなかった。
 それでも――魔理沙は憶えていた。
 その店、香霖堂が、幻想郷の中心であることを。

 だからこそ――香霖堂は、最後まで残っていたのかもしれない。

「こーうりーんッ!」
 怒鳴るように叫びながら、魔理沙は香霖堂の中へと飛び込んだ。扉をノックすることも、扉を開くこともしない。箒の柄先で扉をぶち破り、飛行の勢いのままに飛び込んだのだ。香霖堂の床に箒を押し付けて無理やり止まる。衝撃波で、棚の商品がいくつか床に転げ落ちた。
 突然の乱暴な闖入者にも、店の主――森近 霖之助は驚いた様子もなかった。平然と、平静極まりない態度で、床に倒れる魔理沙を見遣り、
「来ると思っていたよ」
 淡々と、そう告げた。
 本を読んではいない。魔理沙の知る限り、来客がいようがいまいが構わず本を読んでいるのが、森近 霖之助という男だったのに。今の霖之助は、本を読むこともなく、じっと魔理沙を見ていた。
 その言葉の通りに、魔理沙が来るのを予想――確信して、待っていたのだろう。
 その事実に、魔理沙の頭に疑問が浮かぶ。箒を手放して立ち上がり、霖之助に詰め寄りながら、
「香霖。これ、どういうことなんだよ!?」
「どういうことも、こういうこともないよ」
 悲鳴のような声の魔理沙とは違い、霖之助はいつもと変わらない、落ち着いた声を返した。
「見てのとおりだ。君のことだ、幻想中を見て回ったんだろう?」
 うん、と魔理沙が頷く。
「なら、言うまでもないだろう」
「そん、そんな――!? それはないぜ香霖! だって、幻想郷が、」
「幻想郷から全てが消えていく、かい? 世界が滅びるように」
 霖之助はかけていた眼鏡を外し、布で汚れを取った。会話とは対照的な、あまりにも日常的すぎる霖之助の動作に、魔理沙はどこか苛立ちを感じてしまう。
 そんな魔理沙の機先を制するかのように、霖之助はぽつりと呟く。
「けれどね、それはきっと間違いだ。誰も消えてはいないんだよ」
 とるにたらない出来事なんだ、と霖之助は言葉を括り、急須から二つの湯のみにお茶を注いだ。片方を未だ座らない魔理沙の方へと差し出し、残る一つの水面を覗き込む。緑色の温い液体は、湯のみの中でゆらゆらと揺れていた。色が濃すぎて、霖之助の顔が映るということはない。
 日常的過ぎる――仕草。
 その中に見え隠れした、奇妙な言葉に魔理沙は反応した。逸る気持ちを抑え、霖之助の隣に進み、差し出された茶をひと息で飲み干した。
 ふぅ、と魔理沙は息を吐き、霖之助を睨みつける。
「……何の話だ?」
 魔理沙の問いに、霖之助は答えない。自らの茶をゆっくりと、時間をかけて飲み干した。魔理沙と同じようにひと息ついてから、常と変わらぬ表情で魔理沙の瞳を覗きこむ。
 全てが見透かされているようで――あまりいい気分ではなかった。
「香霖、」
「アイス・ナインというものが、外の世界にはあるらしい」
 魔理沙の言葉を遮って、霖之助はいきなりそう言った。訳の解らない単語に魔理沙は首を傾げる。霖之助は構わず、
「確か、この辺りの本に――ああ、あった」
 猫のゆりかご、と題字が書かれた本を魔理沙に見せる。それが何なのか、と魔理沙は思ったが、ぐっと我慢した。せっかく説明してくれているのだ、わざわざ横槍を入れて邪魔をすることもない。下手に邪魔をすれば、話が別のところへと飛んでいくことは分かりきっている。
 霖之助は頁をぱらぱらとめくり、目当ての頁を見つけたのか、その手はすぐに止まった。
「解りやすく説明すると、『それに触れたとき、世界中の水が一瞬で氷に変わってしまう』という世にも恐ろしいものだよ。向こう側の魔法なのだろうね」
「それが……どうしたって?」
 水が氷に変わったりしてないぜ――魔理沙はそう告げ、自分の手でお茶のお代わりを注いだ。今度は一気に飲み干すようなことをせず、ひと口だけ舌を湿らせる。
「劇的な化学変化が存在する、という話だよ。妖精を一匹だけ撃つと、それに連なる妖精たちも消えていくだろう? あれも連鎖だよ。もし全ての妖精が連なっていたら――一匹撃っただけで、全ての妖精は消えてしまうだろうね」
「……何が言いたいのか、分からないぜ」
「何かをきっかけに、世界は大きく変わってしまう。それは突然で、劇的で、防ぎようもないものなのだろうね」
 言いたいことは言ったのか、霖之助は言葉を切り、急須からお茶を注ごうとして――手が止まった。
 急須の中には、もうお湯は残っていなかった。
 肩を竦め、霖之助は急須を机に置いた。取り出した本を元の位置に戻し、深く座りなおす。
 遠まわしな霖之助の言葉。比喩と暗喩を含んだその内容を、魔理沙は心中で反覆する。
 ――どこかで何かが起きて、その結果皆が消えた?
 抽象的過ぎて、わかりづらかった。
 ただ――どこかで何かが起きた、ということは。
 原因がある、ただの異変に過ぎない、ということでもあった。
「解決策は?」
 霖之助なら知っていそうだと思ったのか、魔理沙が訪ねた。けれども霖之助は、「さてね」と言葉を濁す。
 その反応から、魔理沙は悟る。
 きっと――原因を知っているのだ、と。全てではなくとも、その一端を、森近 霖之助は既に悟っていると。
 それなのに、彼は何を言おうともしなかった。
 永夜のときも、ただ月を眺めているだけだったように。
 積極的に関わろうとしない。あくまでもここに店を構え、幻想郷の全てをあるがままに受け入れる。それが香霖堂であり、それこそが森近 霖之助であることを魔理沙は知っていた。
 知っていても――納得できることではなかった。
「……ヒント」
 だからだろうか。
 その言葉は、自然と口から滑り出た。
「なぁ香霖、何かヒントくれよ。それを元に――私が解決するからさ」
 真摯な魔理沙の視線から、霖之助は目を逸らさなかった。じっと魔理沙の瞳を見続け――やがて観念したかのように、ふぅ、とため息を吐いた。
「仕方がないね……」そう前置いて、霖之助は言う。「最近、外のものがこちらに流れてくることが少なくなった。おかげで商売があまり成り立たない」
「……ふぅん? それから?」
「それだけ」
「それだけ!?」
 驚く魔理沙に、「これだけ言えば十分だろう?」と霖之助は告げた。
 彼がそう言う以上、それだけなのは魔理沙にもわかっていた。霖之助は時折とんでもないことをいうが、それは成否に関わらず、本人なりの理論を基にした言葉だ。霖之助が『それだけ』という以上は――それだけで、霖之助なりの『原因』を当てることはできるのだろう。
「……外の物が、流れてこない……?」
 口に出して、魔理沙はその意味を考える。
 幻想郷の外から、物が流れ着いてこない。
 それはある意味では当たり前のことだった。幻想郷の内外は博麗大結界で区別されている。中から外へ行けないように、外から中へ入ることもできない。
 ごく稀に――外の世界で幻想になったものが、こちら側へと流れ込んでくるだけだ。
 それすらも、なくなったということは――
「……どういうことなんだ?」
「それは自分で考えることだよ、魔理沙」
 言って、霖之助は手近な本に手を伸ばした。それは『話はここでお終い』という、明確な態度だった。本に視線を落とし、それきり、顔をあげようとすらしない。
「…………」
 その姿を見ながら――魔理沙は、立ち上がった。脇においた箒を握り、踵を返して戸口へと向かう。
 何か、いい考えが思いついたのではない。
 自分がいつもどうしているのか、思いだしたのだ。
 まず動く。動きながら――考える。
 店の中にいたからといって、事件が解決するわけではない。
 だからこそ――動こうと、魔理沙は思ったのだ。
「邪魔したぜ」
 それだけ言い残して、魔理沙は香霖堂の外に出る。


 その背を、霖之助が寂しそうに見ていたことに、魔理沙は終ぞ気付かなかった。


         †  †  †


 香霖堂の扉をくぐり、魔理沙は力強く箒にまたがった。
 やることは決まっていた。
 どこに行けばいいのかは解らないが――大体の目的は出来た。
 博麗大結界だ。
 霖之助の話を考えれば、一番怪しいのはそれということになる。結界に何かの異変があり、こんなことになったのだ。なら異変を解決するには、結界に関わる何かに当たるしかない。
 それは例えば、博麗神社であったり。
 それは例えば、結界を操る妖怪であったり。
 ――怪しいのはその辺りだな。
 魔理沙は心の中でそう決め、一気に空へと飛び上がった。
 怪しいあの少女がどこにいるのかは解らないが、うろついていれば向こうから接触してくるだろうという憶測があった。そうでなければ、マヨイガなり何なりを探せばいい。まずは幻想郷中を飛びまわることだ。
 そう思い、空へと飛び上がった魔理沙は、遠くに見える山めがけて加速した。
 見る間もなく、香霖堂が後ろへと遠ざかり――


 ――進む先に、香霖堂が見えてきた。


「え、」
 疑問符もなく、声だけが漏れた。
 何が起こったのか――まったく分からなかった。
 道を間違えたとか、そういうレベルの話ではなかった。鏡を覗き込んだら別人が映っていたかような、そんな種類の驚きがあった。
 香霖堂から離れるように飛んだはずなのに――目の前に、香霖堂が現れた。
 近づいて外から眺めてみると、それは香霖堂以外の何物でもなかった。見間違え、という線は瞬く間に消えた。
「…………」
 背筋をぞくぞくと走るものを、否応なしに意識させられる。
 ――おかしい。
 ここに至ってようやく、魔理沙は――異変の姿が見えてきた。
 その姿を、陽炎だと思い込むかのように、魔理沙は再び空へと飛び上がった。
「い、今のはなんかの間違いだぜ」
 そう言い捨てて、今度はまた別の方角へと飛ぶ。飛ぶが――
「……嘘だろ、これ」
 再び、香霖堂が見えてきた。
 どこへ飛んでも同じだった。右へ飛ぼうが左へ飛ぼうが、前へ飛ぼうが後ろへ飛ぼうが、必ず香霖堂へと戻ってきてしまう。
 まるで、世界には香霖堂しかないかのように。
「これじゃまるで、迷いの竹林みたいな、」
 そこまで言って。
 結界の異変。それが何なのか、魔理沙は、ようやく悟った。
「まさか――」
 言葉を切って、魔理沙は上へと上がる。
 太陽に届くかのように飛び上がり、飛び続け、高くまでたどり着いて、下を見下ろす。
 高くまで、飛んだはずなのに。
 魔理沙は、そう高くないところにいた。雲にすら届いていない。
 そして、下は。
 香霖堂以外には――何も、なかった。
 平和すぎる世界が、静かすぎる幻想郷が、広がっているばかりだった。妖怪どころか、妖精の姿すらない。
 異変のないという、異変の世界。
 魔理沙は、悟る。
 異変の正体を。


 博麗大結界が――少しずつ、小さくなってきていたのだと。


 そしてそれは今や、幻想郷を押しつぶさんばかりになっているのだと。
 箱を無理やり小さくしていけば、中の物は押しつぶされ、消えてなくなるように。
 幻想郷が結界に押しつぶされているのだと、魔理沙は、ようやく気付いたのだった。
「――嘘、だろ」
 呟く声には、力がない。
 自分でも、否定できなかった。頭に浮かんだ仮説は、それ以外にはないというものだった。
 幻想郷が――滅んでゆく。
 この世界にいるのは、もう、自分と香霖だけなのではないか――魔理沙はそう思い、
「そうだ、香霖!」
 その存在を思い出して、魔理沙は一気に下降した。自分以外にもまだ残っている人間がいる、そのことが魔理沙に力を与えた。
 こうなったら、もう無理やりにでも引きずりだすしかない。
 霖之助を事件に巻き込み、一緒に解決する。知識のある彼ならば、きっと何か方法を思いついてくれる。
 幻想郷の滅亡という事態に混乱した魔理沙は、半ば思考を停止させてまま、先ほど出たばかりの香霖堂へと飛び込んだ。
「香霖! 大変だ、幻想郷が、滅、」
 そして――


「初めまして、霧雨 魔理沙さん」


 香霖堂は、香霖堂ではなかった。
「……あ、え――?」
 扉をくぐった瞬間、それが最後のきっかけだったかのように、世界は変わっていた。
 そこはもう、店ではなかった。ただの部屋だった。小さな机が一つに、小さな椅子が二つ。部屋の中は薄暗く、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
 窓が一つもない。外がどうなっているのか、魔理沙には解らない。香霖堂に――否、この部屋に飛び込んでくるまでは昼だったが、それすらも、今は信じることができなかった。飛び込んできたはずの扉は消えうせ、ただの壁になっていた。その代わり、一番奥に扉がある。
 部屋の中には、幾つもの変わった物が転がっている。魔理沙が見たこともないようなものが幾つか。魔理沙が見たことがあるものも幾つか。神社のお払い串や、卒塔婆がそれだ。逆に、まったく使い道のわからないものも転がっている。
 本来なら――香霖堂においてありそうな、変わったものが、幾つもあった。
 そして。
 奥の扉にもたれかかるようにして、少女が立っている。
 紫色のゆったりとした服に身を包み、黄金に揺れる髪を帽子で包んだ少女は、妖艶に笑っていた。薄明かりの中でも、その顔ははっきりと見えた。
 その少女の名を、魔理沙は呼ぶ。
「……紫、か……? いや、え――?」
 声は尻すぼみになって消えた。
 少女は、確かに八雲 紫に見えた。見えたが――決定的に何かが違うことを、魔理沙は気付いていた。
 その証拠に、少女は首を横に振り、魔理沙の言葉を否定した。
 そして、紫色の少女は。
 幻想郷を滅ぼした少女は、自らを名乗り。

「いいえ。初めまして――私はマエリベリー・ハーン。友人には、メリーって呼ばれてるわ」

 くすりと笑い、メリーは真実を告げた。

「私が、幻想郷を滅ぼしたのよ」




        †   †   †





「――幻想は、滅んではいないのだから」

 その言葉に、魔理沙は考え込む。
 目の前の、八雲 紫によく似た少女は確かに言った。
 ――幻想郷を滅ぼした、と。
 そして同じ口で、今、こうも言った。
 ――幻想は滅んでいない、と。
 嘘を言っているようには見えなかった。笑ってはいるものの、それは相手を馬鹿にするかのような笑いではなく、むしろ純粋な、心の底から浮き上がってきたかのような笑みだった。
 純粋な、微笑み。
 自分のしたことに対して、後悔し罪を感じている人間にはできない笑みだ。
 笑える理由は、二つしかない。
 幻想郷を滅ぼすということに対して、一切罪の意識を感じていないか。
 あるいは――何か、理由があるかだ。
 前者ならば問答無用でマスタースパークを放つだけだが、どうもそうは見えなかった。滅んだのに滅んでいない――矛盾したその言葉の意味も気になった。
 ――もしかしたら、皆は生きているのかもしれない。
 微かな望みを抱いて、魔理沙は尋ねる。
「どういうことか、説明してもらうぜ」
 その言葉にメリーは嬉しそうに笑った。魔理沙がいきなり襲い掛からず、話してくれたことが嬉しかったのだろう。
「もちろん説明するわよ。――博麗大結界って、知ってるかしら?」
「……知ってる」
 予想外の単語に驚きながらも、魔理沙は答えた。
 博麗大結界。
 まさか、ここでもその名前が出てくるとは思わなかった。その反面、『やはりそれが原因なんだ』という奇妙な納得もあった。
 魔理沙の内心を読みとったかのように、メリーが説明を再会する。
「幻想郷の中と外を区切る結界。こちら側で滅んでしまったものが、貴方たちの幻想郷へと流れ込む。一方通行の幻想の行き着く果て。けれど――」メリーは自身を指さして、「私は、その結界を見ることができるの」
 八雲 紫みたいだ、と魔理沙は思う。
 思うが口には出さず、黙ってメリーの説明に耳を傾けた。
「それを利用して、秘封倶楽部は――私と友人がやってるサークルのことなんだけど――幻想郷について調べたりしてたの。まあ、オカルトサークルね」
 それがどうした、と思う反面、魔理沙の中には驚きがあった。
 今、自分の前に立つ少女は、紛れもなく『外』の人間なのだ。香霖堂で読む書物でしか知らなかった相手が、こんなにすぐ近くにいる。自分たちとはまったく違う生活に生きる少女の言葉には、どうしても興味をそそられてしまう。
 どこか好奇心の混ざる瞳で、魔理沙はメリーを見る。
 そんな瞳に満足しつつ、メリーは続ける。
「サークルだから、当然発表したりもするんだけれど……やっぱり、私や蓮子と違って、信じてくれる人なんてほとんどいないのよ」
 言って、メリーはつい、と視線を横にずらした。魔理沙も釣られて横の壁を見る。
 そこには、幾枚もの写真が貼り付けてある。どこかで見たことがある景色だ――と魔理沙は考え、すぐに気付いた。
 幻想郷の写真だった。
 天狗が撮った写真よりも数段綺麗なそれは、まごうことなき幻想郷の景色だった。竹林、墓地、咲かない桜。幻想郷中を飛び回っている魔理沙には見覚えのありすぎる光景。
 メリーの言葉を疑っていたわけではないが――それは、これ以上ないくらいに確かな『証拠品』だった。
 秘封倶楽部。
 それは理解した。
 けれどまだ、それと、幻想郷が滅びたことが繋がらない。
 魔理沙は写真からメリーへと視線を移し、メリーもまた魔理沙を見て微笑む。
「ずっと細々とやってたんだけれど、最近それが変わってしまったの」
「結界が……壊れたから?」
 ようやく、話が繋がった。
 そう思って、魔理沙は問うた。けれどもメリーは、黙って首を横に振った。
 それは違う、と。
「地上の結界は壊れてないわ。押されて大きさが変わるだけ。秘封倶楽部の活動が変わったのは、別の理由なの」
 もったいぶるかのように、メリーは言葉を止めた。
 それは――と魔理沙は瞳で問う。それこそが、幻想郷が滅びた理由なのだろうから。
 けれども。
 メリーが口にした真実は、魔理沙からしてみれば、まったくの予想外な言葉だった。
 

「人類が、月に到着したからよ」


 何を言われたのか、解らなかった。
 メリーの話す言葉が、まるで見知らぬ国の言語のように聞こえた。意味など、少しも頭に入ってこなかった。
 人類が――――月に。
 理解した瞬間、そんなことができるはずがないという疑問が浮かんで消えた。
 人間が月に行けるはずがないと理性は言う。
 その反面――逆とは言え、実例がいるのも確かだ。
 蓬莱山 輝夜。
 八意 永琳。
 鈴仙・優曇華院・イナバ。
 この三人は、彼女たちが嘘をついていない限り――月からきた少女たちだ。
 実際に『月からきた少女』と会い、弾幕遊びまでしているのだ。その逆が絶対にないとは、魔理沙にも言い切れなかった。
「何十年も前にあった『探索』とは違う、人が大勢訪れる月面ツアーが始まったの。それは月人にとっては、侵略行為にしか思えなかったでしょうね。月人たちも、戦ったはず」
 戸惑う魔理沙に、メリーの言葉が奔流のように押し寄せる。
「けれど――人の流れには、勝てなかった。人類はついに、月面へと遊びに行けるようになった。幻想郷が外の世界を駆逐できないように、月人たちも、地球からきた人を滅ぼせなかった」
 それでも、まだ――繋がらない。
 それが、どうして。
 幻想郷の、滅亡に繋がるのか。
「逃亡者も罪人も見つけることができない、行き詰まっている月人たちは考えたわ。押しつぶされて死ぬよりは、いっそ姿を現して、平和条約でも結ぼうって。――妥協、したのよ。地球の人の前に、月の代表たちは現れた。竹取物語みたいね」
 そうして、『月の幻想郷』は終わりを告げたの――
 メリーはそう言葉を結んで、魔理沙の反応を窺った。
 魔理沙は、何も言えずにいた。
 月の幻想郷が滅びた。
 否――自ら滅んだのだ。消滅することよりも、妥協して生き延びることを、月人は選んだ。その裏にどんな苦渋の決断があったのか、どんな取引があったのか、魔理沙には想像することもできない。もし鈴仙を月に連れ戻すことができていたら、月人たちは徹底抗戦していたのだろうかと思うことしかできない。
 頭の片隅で、意味が少しずつ、結びつつある。
 境界線。
 幻想郷の滅亡。
 秘封倶楽部。
 幾つもの線が、ようやく、一つに集まろうとしている。
 その後押しを、メリーがした。
 戸惑う魔理沙に向かって、どこか優しい声で、メリーは囁く。
「いままで幻想でしかなかったものが公式に認められて。『秘封倶楽部』の活動が世界的に有名になって。その結果――」
「その、結果……?」
 魔理沙には、もう、ほとんど解っていた。
 認めたくないだけだった。
 幻想郷が滅んで――幻想が滅んでいない。
 その言葉の意味を、魔理沙は理解していた。理解していたからこそ、自ら言い出す気にはなれなかった。言ってしまえば、もう後戻りはできないから。最後の逃げ道を残しておきたかった。
 異変を解決すれば、幻想郷は元に戻ると思っていた。
 異変なんて起きていないと、認めたくはなかった。
 けれど――メリーは、その逃げ道を、静かに潰した。
 微笑んだまま扉から身を離し、魔理沙が現れてから閉まったままだった扉を、後ろ手で開いたのだ。
 メリーは、ゆっくりと――扉を開ける。
 ゆっくりと、ゆっくりと、光が挿し込んでくる。扉が開くにつれ、中が明るくなっていく。外が昼だということを魔理沙は思い出す。ずっと――生まれたときからずっと――この部屋の中にいるような気がしていた。
 扉が開く。
 目が眩み、魔理沙は思わず手で影を作った。
 開ききった扉の向こうに――外の景色が見える。
 そして、魔理沙は見た。


「――幻想が、幻想でなくなった」



 幻想が、日常とともにある世界を。
 魔理沙が見たこともない鉄の乗り物が走っていた。それが車なのだと、森近 霖之助ならば気付いただろう。幻想郷よりも圧倒的に騒々しい世界に耳を塞ぎたくなる。人の声が近くで聞こえる。見たこともない数の人が道を行き来していた。
 魔理沙とメリーがいた部屋は比較的高い場所にあったのか、町の光景がよく見えた。高いビルとビルに挟まれるようにして紅魔館があった。空に浮かぶ白玉楼の門の近くを、飛行機が飛び去って行くところだった。妖精と手をつないで歩いている男がいた。妖怪と仲良く遊んでいる少女がいた。楽精が音を奏でるのに合わせて歌手が歌うCMがプロジェクターに映し出されていた。箒に乗った魔女が、魔理沙とメリーの頭上を彼方へと飛んでいった。
 妖怪と人間が、共に生きる世界がそこにあった。
「箱の中身が、全て外に出てきてしまった――そんな感じね」
 口を開けたまま、何も言えずにいる魔理沙に対して、メリーが嬉しそうに言った。
 この光景を見るのが、何よりも嬉しいのだと、何よりも望んでいたのだと――そう言わんばかりの声だった。
 幻想となった品が、幻想郷へと流れ着く。
 ならば。
 吸血鬼が、幻想ではなく日常のものとして受け入れられたなら。
 幽霊が、幻想ではなく日常のものとして受け入れられたなら。
 月人が、幻想ではなく日常のものとして受け入れられたなら。
 魔法使いが、幻想ではなく日常のものとして受け入れられたなら。
 結界に隔離された幻想郷は――その意味を失う。
 内外の区別が、意味のないものになってしまう。
 だからこそ、今までの幻想郷は、滅亡し。
 幻想は、滅びることなく、ここにあるのだ。
「みんな――いるの、か?」
 よろめくような魔理沙の言葉に、メリーは「ええ」と頷いた。
 誰も彼もが、ここにいる。
 新たな世界で、生きている。
「だから、ね。霧雨 魔理沙さん」
 メリーは、魔理沙の横をすり抜け、ニ、三歩前に出る。そこでくるりとスカートを浮かせて振り返り、正面から、魔理沙の顔を覗きこんだ。
 その後ろには、新たな世界。
 幻想と共に生きる、本当の世界が、そこにある。
 その世界を背後に――マエリベリー・ハーンは、とびっきりの笑顔を浮かべて言った。



「ようこそ、新しい幻想郷へ」







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↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。


■作者からのメッセージ



 箱が少しずつ縮んで押しつぶそうとしてくる、というアイデアが、気付けば箱庭の話に。
 箱を物凄く大きくすれば、内と中は逆になる。
 箱の外と中が同じになれば、箱は意味をなさなくなる。
 そういう話でした。


だがこの世に飢餓と貧困があるかぎり、博麗 霊夢は何度でも蘇るだろう。


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