1 迷イ人ハ迷ワナイ
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 月に手は届かない。それでも手を思い切り伸ばせば、あの満月がつかめるような気がして、藤原 妹紅は枝葉の隙間から見える月に向かって手を掲げてみる。
 限界まで伸ばした手は、空を掴むだけで――月までは届かない。
 馬鹿なことをしたな、と心の中で思い、妹紅は苦笑した。空へと伸ばした手を降ろし、そのまま頬を指先で掻く。誰も見ていないとはいえ、少しばかり気恥ずかしかった。
 月に感慨なんて、あるはずもないのに。
 月とは確かに多くの因縁があるが、月に帰りたいと思ったことなど一度もない。そもそも妹紅は地球生まれの地球育ちであり、月から来たのは、彼女の宿敵なのだから。
 蓬莱山 輝夜の、故郷。
 その故郷を手に掴むというのは、ある種の悦びがあるような気がした。いっそ炎の翼で月まで飛んでいこうかと思う。

 そうすれば――そうすれば、どうだというのだろう。

 迷走しかけた思考を、妹紅はため息と共に外へと吐き出した。考えても詮のないことだ。
 そもそも、天狗や魔法使いですら月まで辿り着くことなどできない。博麗大結界があるからこそ月の使者がここに辿り着くこともはないが、それは同時に、幻想郷から簡単に外へは出られないことを意味している。
 それ自体は、妹紅にとってはあまり意味を持たない。彼女は現状に満足しているし、月の使者や結界も興味のあるものではない。
 妹紅にとって、興味があるのは主に二人だ。
 一人は宿敵、月の罪人蓬莱山 輝夜であり。
 今妹紅が歩いて向かっている先にいる――上白沢 慧音だ。
 月見酒をしよう、と慧音がいった。
 ただ酒が飲めるなら、と妹紅は正直に答えた。
 慧音は苦笑して、宴会だから大丈夫だ、と言った。何でも神社――あの恐るべき巫女がいる――で鬼が捕まったらしく、無限に酒が出る瓢箪で宴会をしているらしい。それに慧音も呼ばれたので、一緒にいかないかということだ。巫女だの魔法使いだの因縁がある相手が集まる宴会ということで、敵地に殴りこみにいくような楽しさがある。
 足が軽いのは、きっと、そのせいもあるのだろう。
 慧音との待ち合わせの場所を目指して妹紅は歩く。
 明かりは二つ。空に浮かぶ満月と、手に持つ箱提灯。中に入っているのは妹紅自身が作り出した炎で、雨が降っても簡単には消えない不死の炎だ。
 もちろん、箱提灯がなくとも妹紅自身は困らない。闇夜の中を全速力で走りぬけることもできるし――偶然見かけた老人がショックで気絶したこともあるが――全身に炎をまとって太陽のような明るさを造ることもできる。
 それをやって竹林を火事にし、叱られたからこそ、妹紅は慧音に箱提灯を持たされたのだが。中に符が縫いこまれているのか、妹紅の炎が傍で燃えているのに熱くなることすらない。
 小さな灯火を持ちながら、妹紅は夜の森を歩く。
 足取りに不安はない。箱提灯は十分に温かな光を出しているし、何かに襲われても対処できるだけの実力が妹紅にはある。見ているほうが不安になるくらい気楽な態度で妹紅は歩く。
 妹紅が歩くたびに、灯火が上へ下へと揺れる。
 そのたびに、生まれ出る濃い影が森の中に揺れる。長い長い妹紅の影が、主に従ってゆっくりとついてくる。
 周りには誰の姿もない。
 遠く、高くで月と星が見ているだけだ。風が吹くたびに森の木々が静かに揺れる。夏のなまぬるい風が肌を撫でていく。遠くから聞こえる鈴虫の声に、どことなく夏の終わりが近づくのを感じてしまう。
 いい夜だと思う。
 空気が心地良く、夏の夜を泳いでいるような気さえした。
 こんな夜ならば、よい酒が飲めるだろう。
 宴会ならば特に。
 箱提灯を指二本でつまみ、ゆっくりと左右に揺らす。灯火がゆらり、ゆらりと鬼火のように揺れた。妹紅は真っ直ぐ歩いているだけなのに、影は右へ左へと灯火につれて揺れ動く。まるで、妹紅を中心に影が躍っているようだった。
 妹紅が歩き――影が躍る。
 無声アニメのような光景。音もなく、灯りにあわせて影と実が手を結んで踊っている。足音はリズムであり、風の音はメロディだった。妹紅本人もそれを楽しんでいるのか、箱提灯を上へ下へと動かしていた。
 その足音に、違う足音が混ざった。
 慧音がきたのかな――と思い、妹紅は足音がした方へと箱提灯へと向ける。慧音と合流する予定の場所はもっと先だ、という疑問が頭を過ぎったが、矢でも鉄砲でも妖怪でも持ってこようが平気だな、と思ったので気にはしなかった。
 が。
「…………」
 光を向けて先にいたものを見て、妹紅は言葉を失う。
 ある意味、矢よりも鉄砲よりも妖怪よりも困る存在がいた。
「…………」
 子供がいた。
 丁度森の木々の切れ目が交差し、四つ角になっている所だった。別の道から来たと思しき子供がそこにいた。妹紅は少年の姿を見て立ち止まり、少年もまた、妹紅の姿を見て立ち止まった。
 子供と呼ぶには少しだけ大人びて、青年と呼ぶには若すぎる――そんな少年だった。着慣れた作務衣に身を包み、歩き続けているせいか草履は土と砂で汚れていた。
 妹紅と違って、箱提灯は持っていなかった。そのせいで、顔に出来た影がより濃く見えた。
「……お姉さん、迷子?」
 先に口を開いたのは少年の方だった。上から下まで妹紅の姿を見回して、呟くように吐き出した。まだ声変わりしていない、純粋な疑問の声。
「迷子は」妹紅はため息をつき、「お前の方だろう」
 妹紅の言う通り、少年は迷子にしか見えなかった。
 というよりも――露骨に怪しすぎた。
 真夜中に妖怪が出るような道に、武器どころか灯りも持たずに一人で歩く子供。
 怪しく思わないほうがどうかしている。が、逆に怪しすぎて、警戒する気にもなれなかった。
「家に帰らなくていいのか?」
 一応、妹紅は尋ねた。
 帰る家があるのかどうか、帰る必要があるのかどうか、分からなかったけれど。
 妹紅の問いに、少年は首を横に傾げた。何を言われたのか分からない、と言いたげに。
 少年の態度に、妹紅はもう一度ため息を吐いた。
 その瞬間を狙ったかのように、少年が言う。
「お姉さんは?」
「……あ?」

「お姉さんは、家に帰らなくていいの?」

 少年からしてみれば――単に、聞き返しただけなのだろう。妹紅から尋ねられたことをそのまま尋ね返した、それだけのことなのだろう。
 けれど。
 月が綺麗だったせいか、柄にもないことを考えていたせいか。感受性が強くなっていた妹紅は、どうしても思い返してしまった。思い返さずにはいられなかった。
 帰るはずの家を。
 自分の両親のことを。
 遠い遠い昔に――置いてきてしまったもののことを。
「残念だけどね、帰れないのさ」
 明るい声で、そう言った。その言葉に無理をしたようなところはない。そんな悩みなど、とうの昔に越えてしまったと、妹紅は態度で示していた。
 郷愁すらも。
 望郷すらも。
 千年の時間で、ゆっくりと風化していったのように。
 妹紅の答えに、少年は首を反対側へと傾ける。目を丸くして、箱提灯を持つ妹紅の瞳を覗きこむ。
「帰りたくないの?」
「さて――どうだろうね」
 妹紅は言葉を濁した。答えたくなかったのではない。答えられなかったのだ。
 帰りたくないか、どうか。
 帰りたくないと言えば、それはきっと嘘になるだろう。
 けれど、帰りたいと言えば――それもきっと、嘘になってしまう。
 帰りたいと願うことは、蓬莱の薬を飲むこともせず、普通に生き、普通に死にたいということだ。
 そんなことは、望んでいない。
 自分で望んで不死になった。
 その果てに色々なことがあった。千年の時で得たものがある。
 友人も、いる。
 その総てを、否定することはできなかった。
 だから。
「帰ろうと思わないの?」
 少年の問いに、妹紅ははっきりと答えた。
「――思わない」
 力のこもった断言。
 蓬莱山 輝夜が月を懐かしんだとしても、決して月に帰ろうとしないように。
 大昔のあの出来事を、やり直そうとしないように。
 藤原 妹紅もまた――あの日に戻ろうとは、しない。
 自分の人生を、妹紅は悔やまない。
 少年はそんな妹紅の心中を察したのか、しばらくの間無言で妹紅を見つめていた。その瞳から、妹紅は視線をそらさない。炎のように熱い心は、凪のように平穏だった。強い意志のある瞳。
 その瞳を見つめながら、少年は言う。
「……帰り道が分からないんだ」
 小さなその声は、不安が入り混じって、今にも泣き出してしまいそうな声だった。
 それでも少年は、ぽつり、ぽつりと、本音を吐露する。
 妹紅がそうしたように。
「お母さんが、待ってるのに」
 そう言って、少年は作務衣の袖で目元を拭った。その瞳は、涙に濡れてはいない。
 きっと、堪えているのだろう。
 泣き出してしまえば、止まらなくなってしまうだろうから。
 男の子なんだな――変なところで妹紅は感心してしまう。
 そして、三度目のため息をついた。
 今度のため息は、どこか嬉しそうな、苦笑交じりのため息だった。出来の悪い息子を見て、『仕方がないな』と笑う母親のように。
「もう迷うなよ」
 優しく言って、妹紅は手に持った箱提灯を少年へと手渡した。不死鳥の炎は、妹紅の手から離れても消えることはない。強く優しい光を、ゆらゆらと揺れながら放っている。
 少年は、炎と、妹紅の顔を交互に見比べた。いいのか、と瞳が語る。
 妹紅は笑って、空になった手で、少年の頭をがしがしと撫でた。照れ隠し、だったのかもしれない。炎に照らし出される妹紅の顔は、少しだけ赤かったから。
「母親が待ってるんだろ? なら、あんまり待たせるんじゃないぞ」
 撫でていた手を離し、その手で少年の背を押す。少年は押されるがままにニ、三歩歩き、立ち止まって妹紅を振り返り、
「――ありがとう、お姉さん」
 ぺこりと頭を下げて、今度こそ駆け出した。赤い灯火が揺れながら遠ざかっていく。鬼火が墓場の向こうに消えるように。
 その炎が完全に見えなくなるまで、妹紅は、少年の後ろ姿を見守っていた。
 嬉しそうな――そして、寂しそうな――そんな瞳で、見守っていた。
 少年の姿が、箱提灯の灯火が見えなくなるまで、妹紅はずっとそうしていた。
 やがて灯火は見えなくなり、辺りには夜の暗さが戻ってきた。手にはもう箱提灯はない。

 ――空には満月。

 その光だけを頼りに、妹紅は暗い森を歩き出す。少年が去っていった方とは別の道を。慧音と待ち合わせる場所へと続く道を。
 そう歩かないうちに、慧音と出合った。待ち合わせ場所から、妹紅が来ると思しき方へと歩いてきたらしい。いつもの慧音とは少し違う。角が伸び、雰囲気が変わっていた満月のせいで、白沢の力が強まっているのだ。
 手には箱提灯。妹紅が持っていたのとお揃いだが、中に入っているのは蝋燭だ。
「遅かったな妹紅。心配したんだぞ」
 慧音は立ち止まり、箱提灯を掲げて見せる。高い位置から照らされて、辺りが少しだけ明るくなる。
 その光から逃げるように――妹紅は立ち止まらずに。
 立ち止まった慧音の胸に抱きついた。
「わ、」
 慧音の驚きが直接伝わる。それでも妹紅は離れない。
 抱きつくというよりは――ただ寄り添い、寄りかかるような仕草。
 肩にあごを乗せて体重をよりかけているせいで、慧音からは、妹紅の表情を見ることができない。
 彼女がどんな顔をしているのか――慧音には分からない。
「……妹紅?」
 その態度に、いつもと違うものを感じたのか、慧音が不安そうに問うた。
 何かあったのかもしれない、と考えたのだ。また何か、永遠亭の人間がちょっかいをだしてきたのかも知れない。
 そう心配し始めた慧音に向かって、妹紅はぽつりと、息が触れそうな距離で慧音に言う。
「ごめん、慧音。箱提灯、無くした」
 淡々と、単語区切りで妹紅は言う。
 感情を含まないのではなく。
 感情を含めようとしない声。
 慧音は黙ってその言葉を聞いた。妹紅もまた、返事を必要としなかった。独り言のように、
「迷子だって言ってた。母親のところに行くんだって。だから、箱提灯をあげた」
 慧音は「そうか」と頷き、提灯を持たない方の手で、妹紅の頭を撫でた。
 銀の髪を、抱きしめるように撫でた。
 母親が――子供に対してそうするように。
「――お盆も終わるね」
 妹紅が言う。
 灯火を持って、夜を歩いた少年が、どこへ向かったのか。
 妹紅は知っているし――慧音も気付いている。
 だから、言った。

「ちゃんと、帰れるといいな」

 その言葉の意味を――上白沢 慧音は、どこまで知っているのか。
 あるいは、すべてに気付いているのか。ただ「ああ」とだけ言い、より強く、より優しく、妹紅を抱きしめた。
 何も言わない。
 何を言う必要もない。
 妹紅は、そこでいるだけで十分だし――慧音にも、言えることはなかった。
 言わなくてもわかることはある。
 居るだけで幸せになれることもある。
 それだけだった。
 身をよせあい、二人は何も言わず、月がわずかに動く時間、互いの体温を感じていた。心臓の鼓動が聞こえそうな距離。ゆるやかに風が吹き、灯火が揺れ、影が躍る。
 抱き合い動かない二人を、月と影が見守っている。
「……行こうか」
 言い出したのは、妹紅で。
「ああ」
 頷いたのは、慧音で。
 どちらからともなく、身を離して。
 二人同時に、手を繋いだ。
 慧音は箱提灯を持たない方の手で。
 妹紅は箱提灯を渡した方の手で。
 指を絡め、二人は手を繋いで歩き出す。一つきりの箱提灯を頼りに、二人の少女は歩き出す。
 宴会の灯りは、まだ先だ。
 月の灯りは、遠すぎる。
 箱提灯の灯火だけが、二人の少女を、優しく照らしている。






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↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。


■作者からのメッセージ

 どうか、迷わず帰れますように。
 帰るところが、手を繋いだ先にありますように。


だがこの世に飢餓と貧困があるかぎり、博麗 霊夢は何度でも蘇るだろう。


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