1 | 遠い音楽、近い魂響 |
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音が聞こえた。 音は音楽だった。ゆるやかに繋がるメロディだった。静かなピアノ・ソロ。落ち着いた響き。ゆっくり、ゆっくりと、心にしみこんでいくような、不思議な音。明るくなるわけでもなく、暗くなるわけでもない。 不思議な音。 不思議な曲。 森の中を独り歩いていた少年は、その音めざして進路を変えた。それが妖怪の罠という可能性も、もちろん考えてはいた。 ローレライ。 里で慧音先生から聞いたその御伽噺が、少年の頭の中に思い浮かぶ。 でも、そうしなければならない理由があった。 単純な話で――そもそも少年は道に迷っていて、どこかに向かって歩かなければどちらにせよ餓死するか、妖怪に襲われるかして死んでいたからだ。どうせ死ぬなら、綺麗な音楽を聴いて死にたい。そう思ったし、聞こえてくる音楽は、危ないものには感じなかった。 むしろ、歩き疲れた体に、わずかながら力が湧いてくるような、そんな曲。 心に温もりが灯る。 ――もう駄目だと、思っていたのに。 少年の口に、自然と笑みが浮かぶ。ここで自分は死ぬんだと、少し前までは本気で思っていた。 なにせ――ここは、魔法の森なのだから。 絶対に行っては駄目だよ、と慧音先生は言った。 あそこには店があるんだぜ、と通りすがりの魔法使いは昔言ってた。 少しくらいいいよね、と少年は思ったのだ。 気にはなっていたのだ。慧音先生や、一部の大人だけが入ることを許される、立ち入り禁止の魔法の森。時には彗星のような光が飛び交ったり、空を飛ぶ人間や妖怪が出入りする不思議な場所。 その真ん中にあると言われる、魔法の道具を扱う不思議な店。 好奇心をそそられないほうがおかしかった。 そして、少年とは、いつだって好奇心の塊なのだ。 計画を練った。 時間は昼下がり。大人たちが食事を終え、畑仕事に勤しむ時間で、妖怪たちがまだ動かない時間。陽が照っている時間は比較的安全だ――これもまた、慧音先生が教えてくれたこと。 出かけるにあたって、少年は自分に一つだけ約束した。 ――危なくなったら、すぐに帰る。 妖怪の恐ろしさと、それを踏まえたうえで共存する方法を慧音先生から散々教えられてきた少年は、そう心がけて、誰にも内緒で魔法の森へと踏み入れた。 その考えが甘かったことには、十分もしないうちに気付いたが。 まず迷う。そして、引き返せない。磁場も方向感覚も狂い、鬱蒼と生い茂る樹木のせいで太陽すら見えない魔法の森で、満足に歩けるはずがなかったのだ。引き返そうにも、気付いたときには帰る道すら分からなくなっていた。歩けば歩くほど怖くなってきたが、怖くなっても逃げ道はどこにもない。 おまけにどこからか、妖怪の笑い声が聞こえるのだ。それは実際の所、妖精が少年を指差して笑っていただけのことだったけれど、少年にとっては「自分を食べる相談をしているのだ」と聞こえた。 がむしゃらに走って逃げ、慧音の言葉を思い出しながら、泣き出しそうになった瞬間―― そのピアノの音が聞こえたのだ。 「綺麗な音……」 素直な感想を呟きながら、少年は音のする方へと歩く。何もかもがあやふやな魔法の森の中で、その音は奇妙なまでにはっきりと聞こえた。 ピアノ・ソナタ。美しき旋律。 里で育った少年は、その曲名を知らない。ピアノという名前すら知らない。それでも、少年には、綺麗だと感じた。 ウグイスの鳴き声を可愛く感じるように。 夕焼けを見て涙するように。 本能に訴えかける音が、その曲にはあった。 「どこから――これ……」 足を前へと踏み出すたびに、確実に、曲は大きくなっていった。 いや―― 音の大きさは、そう変わらない。 よりはっきりと、心に届くようになった、というべきか。霞がかかっていたのが晴れていくような、そんな感覚だった。 よくよく聞けば、その音は、数小節の繰り返しだった。同じような旋律を、繰り返し、繰り返し奏で続ける。だというのに、聞くたびにその音は顔色を変えていた。 跳ねるように。 踊るように。 くるくると雰囲気を変えながら、幻想的なメロディは続く。 ――きっと、人のものじゃない。 少年にはそれがはっきりと分かっていた。それでも、足を止めようとは思わなかった。 曲に誘われて少年は歩き続け――急に、森が裂けた。 開けた場所に出たのだと、すぐには気付かなかった。同じような光景を見ながら歩き続けていたせいで、感覚が完全に麻痺していたのだ。 木々が途切れ、唐突と言ってもいいほど急に、店が現れた。 いつから建っているのか分からない、古びた木造の店。 看板には、こう書かれている。 『香霖堂』と。 美しい音楽は、その店の中から響いていた。 香霖堂。それが、噂に聞いていた魔法の道具を扱う店なのだろう――頭の片隅で少年は思うが、それよりも、曲の正体が知りたかった。 曲を奏でている者を見たかった。 「――すいません……」 少年は小さく呟き、扉をくぐる。戸を開けた向こうには、物が雑多に積み込まれていた。混雑という混雑を混雑したような、雑多な店内。その奥に、和服を着た店主が座っている。 店主は少年を見て、 「いらっしゃい……お客かい?」 メガネを押し上げてそう言う店主の言葉に、少年は「いえ――」と答えつつも、その瞳はさ迷っていた。 音の出所を探して。 そして――すぐに、それは見つかった。 入り口の脇。比較的片付いた辺りに、ぽんと置かれていたのだ。 少年の手に乗るようなガラスの箱。その中から、音楽は聞こえてきていた。 少年の視線に気付いたのか、店主が朗々と語る。 「ああ、それかい? オルゴールといって、音を鳴らす道具だよ。君も、それに引かれたきたのか」 「君も――?」 オルゴールと呼ばれる箱を見ながら、少年は問う。店主は淡々と、 「どうにも、客寄せの効果があるらしくてね。その音につられて、ふらふらと寄って来るんだよ。大抵は物も買わない妖怪だが――」 店主は言葉を切り、少年の姿をしげしげと眺め、「物を買いそうにもない子供が釣られたようだ」と話を結んだ。 少年は店主の言葉を、話半分に聞いていた。というもの、その意識は、ほとんどオルゴールへと向いていたからだ。 上半分がガラスになった箱。箱の下半分には、少年には読めない文字が彫られている。 そしてその中には――少女が、閉じ込められていたのだ。 丸くなって眠りについた少女は、ふわふわと、箱の真ん中あたりに浮いている。そして、彼女が息をするたびに、口から音が洩れてメロディになるのだ。 彼女の――寝息。 あるいは、 「……夢の、音?」 「だろうね」 店主は、少年の独り言に、律儀に返事をした。そして、 「そこに書かれている文字はね、リリカ、と読むんだよ」 「リリカ……」 「何、よくある話だ。娘に死なれた男が、その魂の複製を箱に閉じ込めた。そして男は死んで、物だけが残り、ここへ流れ着いた。それだけだよ」 店主は笑いもせずに、淡々と言う。 「本物の魂もまた幻想郷へ流れ着き、複製の複製も妖怪となったのは珍しいけれど――それはまた、別の話だね」 「――いくらですか?」 気付けば、少年はそう口走っていた。 買えるはずもないのに――そう、言っていた。 眠っている少女が美しかったから。 聞こえてくる歌声が綺麗だったから。 それもある。 そして、それ以上に――箱の中で眠り続ける女の子が、独りぼっちでさびしそうだと思ったから。 箱から出してやりたくて、少年はそう言った。 けれど、店主はため息を一つ吐いて、 「君は買えないよ」 ただの一言で、そう切り捨てた。 「お願いします! いつまでかかるか分かりませんけど、絶対、絶対払いますから――」 土下座でもしそうな勢いで少年は言う。 何年かけてでも、代価を払うから、オルゴールを売ってくれと懇願する。 けれど、店主の態度は変わらなかった。退屈そうに本を開いたまま、少年を眇めて、再びため息をつく。その態度に少年は少しだけ苛立ちを感じてしまう。 思わず、抗議をしようとし、 「だって君は――」 その勢いを潰すように、店主は言った。 「――もう、死んでいるじゃないか」 「――え、」 抗議をしようとしていた少年の動きが止まった。店主はさらに一度ため息を吐いて、 「生身の人間が、生きて魔法の森を縦断できるはずもないだろう。君は多分、ここに向かう途中でとっくに死んでいて――魂だけが、魂の曲に魅かれてやってきたんだよ」 「…………」 少年は、何も言えない。 店主の言葉に、思い当たることがあったから。 歩き続けたというのに、疲れはなかった。お腹がすくとも思わなかった。 絶対に言ってはいけないよ、と慧音先生は言っていた。 それは正しかったのだと、今更ながらに思った。 なによりも、店主の言葉が、心にすとんと落ちてきた。ああ、それは本当なのだと、納得してしまったのだ。 ――自分は、死んだのだ。 自覚してしまえば、むしろしっくりきた。死んだ瞬間が分からないせいか、それとも急激な死に心が麻痺したのか、動揺はまったくなかった。 そんな少年を店主は見遣り、三度目のため息を吐いた。 「妖怪といい霊といい、どうして客以外が多く来るんだろうね……」 ぶつくさとしたその言葉を聞きながら、少年は視線を、店主からオルゴールへと戻る。 箱の中で、少女は奏で続けていた。 夢の音楽を、ピアノのメロディを、ゆっくりと広げていた。 遠い昔に死んだ少女は――ただの一人で、眠り続けていた。 少しだけ悩んで。 少年は、決意した。 「あの――――」 少年の言葉に、本を読んでいた店主は顔を上げる。少年は、オルゴール箱を指差し、店主の瞳を覗きこんで、はっきりと告げた。 「――お願いがあるんです」 * * * * * * * * * * * * * * 音が聞こえた。 いつものように魔法の森の上を飛んでいたら、ピアノのメロディが聞こえた。その音に引かれて、霧雨 魔理沙は予定を変更して香霖堂へと降り立った。 「よお、香霖」 挨拶して店に入ると、いつものようにいつもの如く、店主が本を読んでいた。 店の中にはピアノもなければ、ピアノをひく妖怪の姿もない。魔理沙は挨拶もそこそこに、きょろきょろと店内に視線を這わせ、 「これか」 すぐに、見つけた。 店の入り口の脇に置かれた、透明のオルゴールを。 「いい音だろう」 本を読んだまま、店主が言う。魔理沙が「ああ」と頷くと、店主は顔を上げて、 「最近、さらに音が良くなった」 「へぇ……」 箒を入り口に立てかけて、魔理沙はオルゴールへと近寄り、中を覗きこむ。 箱の中には少女がいた。 丸くなって、眠る少女が。 そしてその少女は――同じように眠る少年と、手を繋いでいた。 透明な箱の中、少年と少女が、手を繋いで眠りについていた。 寂しそうなところは――少しもなかった。 驚きに目を丸くする魔理沙に、店主はどこか嬉しそうな声で言う。 「きっと、幸せな夢でも見ているんだろう」 |
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