1 | 月は無慈悲な夜の墓碑 |
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1 / The Earth 雅なことではある――月を見上げることは。 少なくともこの幻想郷ではそういう風習があった。初めは幻想郷だけのものだと思っていたが、生活に慣れるうちに、それが地球では一般的な解釈だと知った。 納得がいかなかった。 鈴仙・優曇華院・イナバは宇宙人だ。月で生まれ、月で育ち、月で生きていた人兎だ。戦争さえ始まらなければ、流刑地である地球へと逃げ込むことなどしなかっただろう。月の民にとって、地球は卑しき土地であり、控え目にいっても月人の住まう土地ではなかったからだ。戦争が始まったこと。そして何よりも――その流刑地に、月の姫と月の頭脳が流されたことを知らなければ、鈴仙は地球へ逃げようなどとは考えなかっただろう。 そんな背景があるからこそ、鈴仙は疑問に思っていた。月を雅だと思うのはおかしい、と。 月を敬うのならば判る。卑しき地球人が、月人を敬い、月を神々しいものとして扱うのだとすれば納得がいく。月は神の住まう土地であり魔力の満ちた土地であり神聖なる土地であるのだ――そういった解釈ならば、いくらでも受け入れることはできる。 ただし。 どんなに幻想郷に慣れたとしても――月を雅なものだとは思えなかった。 はっきりと言ってしまおう。 鈴仙・優曇華院・イナバは、月を見上げて『美しい』と思うことができなかったのだ。月で生まれ、月で育ち、月で生き――地球へと逃げ込んできた鈴仙だからこそ、空にかかる満月を見て思うのだ。 ――なんて、凶々しい光景なのだろうと。 空に浮かぶ月と、その模様を見るたびに、思わずにはいられなかったのだ。 その日もそうだった。幻想郷にきて幾度目かの満月の日。鈴仙は庭へと降り立ち、一心に月を見上げていた。空には雲もなく、天蓋へと映る月は常よりも判然としている。手を伸ばせば届きそうなほどに近い。 ――満月を見れば狂うと、人は言う。 月は魔力であり、満月の夜には妖怪たちは活発になる。強い妖怪にとっては、強過ぎる満月は毒にしかならない。満月を見続ければ、たちまちに狂ってしまうのだ。 私に限ってそれはない――確信をもって鈴仙は断言できる。満月に対する耐性があるからではない。 とうの昔に、狂っているからだ。 少なくとも、地球人からは、そうとしか見られないに違いない。 「何を――見ているのかしら」 声がした。振り返る気にはなれなかった。声の主もまた、狂人であるとわかったからだ。 千年以上も流刑地で狂い続け、月人とも地球人ともつかなくなった、この家の主。 蓬莱山 輝夜の声だった。 声だけでわかる。彼女が笑っていることに。なぜ笑っているのかは、わかりたくもない。月を見上げる私が滑稽だから笑っているのだと、心のどこかでは気付いていた。 認めたくなかった。 月を見上げて美しいと言える地球人も――月を見上げて笑うことができる、輝夜の存在も。 「月を、」思いを少したりとも言葉に出すことなく、鈴仙は答えた。「月を、見ていました」 「そう」 返事は簡素だった。まるで興味がないと言いたげな、気のない返事。初めから聞かなければ良いのに、と思ってしまうほどに、適当な返事だった。 けれども、次に輝夜が吐いた言葉は、鈴仙の思考を止めるのに十分過ぎた。 「――美しい月ね」 輝夜は。 月の罪人、蓬莱山 輝夜は――かつての故郷である月を見上げて、そう呟いた。 「――――」 鈴仙は無言で振り返る。何も言うことがなかったのではない。驚愕のあまり、言葉を発することを忘れていたのだ。見開いた目で、縁側に平然と立つ輝夜を見遣る。 信じられなかった。 他の誰でもない、月のことを誰よりも知っているであろう輝夜が、よりにもよって『美しい』などということが信じられなかった。 ――私は。 美しいなどと、思えるはずもない。禍々しいつきを見るたびに、鈴仙が思うことはただ一つだ。 ――私は、罪人だ。 月の模様を見上げるたびに――己が罪人であり、逃げてきたものだということを、否応無く思い出してしまう。それを、美しいなどという言葉で飾ることができるはずもなかった。 「美しい、ですか?」 問い返してしまう。問い返さずにはいられなかった。本気で、本気であの月を美しいと思っているのか問い訊ねたかった。 ――それとも。 ふと、悪寒のようなものが背筋を走る。それは恐ろしい考えだった。 蓬莱山輝夜は。 地球に来て狂ったのではなく。 最初から狂っていたのではないか――あの月を美しいと思う程に。 そんな鈴仙の狂気じみた不安を嘲うように、輝夜が、袖で口元の笑みを隠しながら答えた。 「貴方はそう思わないのかしら? あんなにも美しい、真実の月を見て」 「…………」 鈴仙は答えない。何を言っても、どう答えても、自分にとって致命傷となる言葉になりえる気がした。はい、と答えても、いいえ、と答えても、蓬莱山 輝夜は揚げ足をとるだろう。とった足の先にある心臓を、ひと息に貫くような言葉を、吐くことだろう。 彼女は、知っている。 月を。 そして、鈴仙の罪を。 だからこそ――蓬莱山 輝夜は笑っているのだ。地球へと追放された姫は、地球に逃げてきた兎を見て、楽しそうに微笑んでいる。 「ここからだと――月の都は見えないわね。裏側だもの」 蓬莱山 輝夜は言う。確信を持って。核心を貫く言葉を。遠回りに、じわじわと。真綿で首を絞めるように、鈴仙の心を傷つける言葉を吐く。 戯れで。 姫君らしい戯れで――狂人らしい戯れで。 狂人は、狂人にしか理解できない狂った論理で、兎に話し掛ける。 「こちら側から見えるのは、穴だらけの月面だけだわ」 兎は。 鈴仙・優曇華院・イナバは――答える言葉を持たなかった。抉るようなその言葉を、ただ黙って聞くことしかできなかった。下唇を噛みしめる。手足の震えを、必死で堪えた。 月。 月面。 見上げた月は満月。人の目では見ることのできないものを、鈴仙の感覚器官は捉えている。遠く遠く遠く離れた月面の、その表面にある数え切れないほどの穴を。クレーターと呼ばれる、月面の凹凸を、鈴仙は感じ取る。 どんなに遠く離れていても――その存在を、感じ取ることができる。 忘れることなど、できるはずもなかった。 それこそが、彼女の罪の証なのだから。 鈴仙・優曇華院・イナバは今一度月を見上げた。蓬莱山 輝夜は何も言わない。月を見上げる鈴仙を、ただ黙ってみている。その視線を感じながら、鈴仙はひたすらに、月の表面を見つめていた。数多の穴を。数多の罪を。 そして、思い出す。 自身の罪と罰を。 逃げてきた、 全てを置き去りにしてきた、 月の記憶を。 2 / The Moon 月は地球の侵攻を受けている――誰も知らないほど、静かに、密やかに。 地球の人間すら、知らないほどに。 「レイセン」 名前を呼ばれた。何の感情もこもっていない無機質な声。生体番号で呼ばれたとしても、ここまで意味のこもらない音にはならなかっただろう。声は、ただ区分するための意味しか持たず、呼びかけるという以外の感情が含まれていなかった。 レイセンは黙って振り返った。返事をする、などという無駄な行為はそこにはなかった。呼ばれたから振り返る。 機械的な行動。 反射的な行為。 そもそも、『何ですか』と問い返す意味はないのだ。この声はいつだって一つのことしかいわない。ここは軍隊であり、レイセンは月の軍人であり、軍務を果たすだけなのだから。 振り返った先にいたのは、月での上官だった。兎の耳と制服、感情を感じさせない顔。もっとも、鏡を覗き込んでみてれば、自分も同じような顔をしているだろうとレイセンは思う。ここにいる兎は、みんなそうだ。楽しそうに笑っているのは一部の月人だけであり、使い捨ての兎は、使い捨てられるためにいるのだから。 明日死ぬとも知れない場所で。 同じ顔をした兎たちが死んでいく此処で。 閉じられた楽園で。 幸せそうに笑うことなど、できるはずもない。 今、レイセンたちがいるのは月の中心だ。此処からでは、地球は見えない。反対側の果てまでいけば、青い地球が見えるだろう。遠く、遠くにある流刑地。けれど、流刑地からは月の都は見えない。 此処は、幻想郷だから。 ある種の結界で閉ざされた、月の楽園。月の都。 月の幻想郷。 その結界ギリギリの所に、レイセンたちの戦場はあった。 「今日の分です」 そういって、上官はレイセンに箱を手渡した。大きな箱。縦も高さも、レイセンの背の倍はある。月面の重力が小さいとはいえ、箱の下に車輪がついていなければ、とても運ぶことはできないだろう。 これが、今日の任務だ。 いつもの――任務だ。 量は変わらない。この箱一つが、レイセンの一日の任務だ。箱を渡された瞬間から、レイセンの軍務が始まる。月の兎としての戦いが。 敵に向かって弾を撃つ戦いではない。 それでも――これが戦争であることに、変わりはない。 あるいは。 生存競争だ。 月と地球の、生存競争。そしてそれは、圧倒的なまでに、じり貧で勝ち目のない戦いだった。 それでも、今日も月で戦いは続いている。 恐らくは――誰一人といなくなって、月が無人の死に果てた土地になるまで、その戦いは続くのだろう。 そうして、 死ぬまで、レイセンの仕事は続くのだ。 「――――――はい」 今日初めての、そして最後の言葉を吐いて、レイセンは箱を受け取った。レイセンが受け取ったのを確認して、上官は踵を返して去っていく。彼女には、彼女の仕事があるのだろう。 詮索することなく、レイセンも自らの仕事に戻る。受け取った箱の取っ手を握り、力いっぱいに引きずる。じゃり、と月の乾いた土を噛んで車輪が回る。 一度動き出すと、後は楽だった。大した力も必要なく、箱は動き出す。 レイセンは、独り。 月の大地を、歩き出す。 結界の外は――既に穴だらけだった。地球の民がクレーターと呼ぶ穴が、数え切れないほどに開いている。穴の深さも広さもまちまちで、規則性も法則もそこになかった。 その穴を避けるようにして、レイセンは独り、歩きつづける。 がらごろ。 がらごろ。 穴を避けるようにして、レイセンは歩きつづける。穴は所々で繋がっていて、高低差が存在するため、気付いたら穴の中を歩いていることもあった。そういうとき、箱を穴の上にまで持っていくのに力を必要としたけれど、何を愚痴ることもなく淡々とこなした。 レイセンは何も言わない。 ただ黙って、箱を押す。 何も見ない。何も考えない。表情を出すこともなく、疲れを見せることもなく。淡々と、機械的に、レイセンは箱を運ぶ。月の裏側へと。 地球が見える位置へと。 まだ穴が存在しない場所へと。 ただひたすらに、歩きつづける。 地球が見えてくるにつれて、穴の数は減っていった。当然だ。基本的に、結界に近い側から穴は作られてきたのだから。そして、その土地が足りずに、こんなに遠くまで穴を掘りにくるはめになるのだから。 レイセンは思う。 いつか――きっと。 この月面の全てに、穴が出来る日がくるのだろう。 そして、 それは、 月人が滅びたことを――意味するのだ。 「…………」 レイセンは黙って足を止めた。疲れたのでも、呼び止められたのでもない。 単純に、それ以上歩く必要がなくなったからだ。この辺りまでくれば、穴の数はうんと減っていた。丸みを帯びた平らな大地が、彼方まで続いている。 空には天体。 青い地球が真上に見える。遠く遠く距離を置いて、蒼の星と目が合った。 「――――」 彼方に見える地球を。 美しいと――レイセンには、思うことができなかった。 青い惑星は、レイセンにとってはただの流刑地だ。罪人が行くところ。月で罪を背負った者が送られる最果ての地。かつて永遠という罪を犯した月の姫が、送り込まれた下賎の世界。月の民ならば、誰もが忌避すべき場所だ。 行くべきでない、場所だ。 けれど、レイセンは。 その、美しくない土地のほうが――この美しい土地よりも、まだいくらか良いと、そう思った。 地球は罪人が辿り着く流刑地で。 月は、墓地なのだから。 生きているだけ。 死に満ちていないだけ。 あるいは、地球のほうが良いのかもしれないと、レイセンは時折考えてしまう。こうして軍務について、地球を見上げているときは、強くそう思ってしまう。 「…………」 いつまでも地球を見ているわけにはいかない。レイセンは視線を地球から箱へと戻した。取っ手を大きく捻り、手前に引く。巨大な箱は開き、その中身を外にさらけだした。 レイセンは扉の内側についていたスコップを手に取った。今日も昨日と変わらず、箱の中身はぎっしりと詰まっていた。 おそらくは、明日と同じように。 箱の中の光景を目にしながらも、レイセンは顔色一つ変えない。そこにどんな悲惨な光景が広がっていても、彼女にとっては見慣れたものだからだ。 昨日と同じように。 明日と同じように。 今日も、また。 箱の中には、ぎっしりと――兎人の死体が詰まっていた。 自分と同じような顔をした、自分と同じような死体が、隙間なくぎっしりと詰まっている。兎の耳が幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも折り重なっている。虚ろな瞳があらぬ方向を向いていた。箱の中に何人分の死体が詰まっているのか、数えたことは一度もなかった。それはただ、死体の山という、それだけのことだった。 死体。 月の死体。 外傷はない。身体が欠けているわけでも、病に侵されている訳でもない。 ただ、死んでいるだけだ。 仕方がない――これは戦争なのだから。 地球と月の、戦争なのだから。 「――――――」 レイセンは、無表情のまま兎人たちの死体から視線をそらした。その死体は過去の多くの仲間たちの姿であり――いつかくる、自分自身の姿だった。 そのことを考えないように、何も考えないように、レイセンはただただ、穴を掘る。 スコップで、穴を掘る。 月の大地は硬い。力を入れなければ掘り進めることができない。それでもレイセンは、少しも休むことなく、ただひたすらに穴を掘る。 ざくり。 ざくり。 一つ目の穴が出来る。掘り返した土は、穴の脇で山となった。人間を一人分埋められるだけの穴を掘り終え、レイセンはスコップを土山へと突き刺した。 空いた手で、箱の中から、死体を一つ取り出す。 ずるりと、力なく死体が箱から零れ出た。確かに、死んでいる。身体に力はなく、ぐんにゃりと手と足が垂れた。死んでいるとは思えないほどに綺麗な姿だった。まるで、ただ魂だけが抜け落ちてしまったかのように。 それは――その通りなのだろうと、レイセンは思う。 彼女は殺されたのではない。 ただ、死んだだけだ。 感染病のように、月の民は死んでいる。次から次へと。休むことなく、日ごとに、死者は増えていく。そのたびに、月の幻想郷は少しずつ、少しずつ小さくなっていく。 あるいは。 小さくなるからこそ――月の民は、減っていく。 それこそが、地球の攻撃なのだ。 幻想であった土地を。 神聖なる土地を。 人間は――科学の力で、知識の力で、侵略してくる。月がただの天体に過ぎぬと人が知ったときに、月の聖性は弱まった。月に人類がたどり着いたとき――もはや月は、尊ぶべき土地ではなくなった。地球の民は、土足で、月を荒らした。 知るという行為によって。 科学という力によって。 月の幻想を――追い払った。 それは紛れもなく侵略であり、戦争だった。一方的な戦争。幻想が取り払われるたびに、月の幻想郷は縮み、月の民は死んでいく。止まることはない。一方的な戦争は、片方が息絶えるまで、ただひたすらに続いている。 兎たちは、死んでいく。 月人たちは、死んでいく。 レイセンの仕事は――任務は。任務と名づけられた、仕事と名づけられた、無意味な抵抗は。 仲間たちの死体を月中に埋めていくという、墓守に他ならない。 月の幻想郷に飽和する死体を、外に放り捨てるだけの仕事。 仲間の死体を、延々と、延々と、埋め続ける仕事。 それが、レイセンに与えられた、任務だ。 「――――」 死体を穴に放り込み、土を被せる。穴は埋まり、余った分の土が小さな山を作った。この余りの分の土がいくつも重なり――結果、月の地面は、凹凸だらけになってしまう。 それでも、穴は足りない。 死体は、次から次へと出てくるのだから。 レイセンはスコップを手に取り、わずかに移動して、二つ目の穴を掘り始める。 ざくり。 ざくり。 掘り返した土が脇に山を作り、穴の中に死体を埋めて、再び土を被せる。 レイセンはスコップを手に取り、わずかに移動して、三つ目の穴を掘り始める。 ざくり。 ざくり。 ざくり。 今日もまた、レイセンは仲間の死体を埋める。 明日もまた、レイセンは仲間の死体を埋める。 いつか――自身が死に、同じように埋められる、その日まで。 レイセンは、穴を掘り続ける。 ざくり。 ざくり。 ざくり。 そうして―― いつの日か―― 月面を埋め尽くすほどに―― ――――――――――――――――――――――――――――――穴が。 END |
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