1 | いつか、きっと。 |
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レミリア・スカーレットは棺桶を一つだけ持っている。 それは寝床ではない。棺桶に故郷の土を詰めねば眠れないような時期は、とうに過ぎている。 何よりも――レミリアにとっての故郷は、もはやここ幻想郷であり、この紅魔館なのだから。 だというのに、レミリアは棺桶を捨てようとはしなかった。大切な宝物のように、大事に保存してあった。 そして――今。 その棺桶を、レミリアは使う。 大切な人を弔うために、一つきりの棺桶はあったのだから。 ――十六夜 咲夜の葬儀は、密やかに行われた。 とても――式と呼べるようなものではなかった。参加者はわずかに三名。 棺桶を担ぐ紅 美鈴。 その姿を見守るレミリア・スカーレットと、側に立つパチュリー・ノーレッジ。 三人、だけだった。 他には誰もいない。吸血鬼の妹は、部屋から出てこようとはしなかった。 あの子は、分かっていないのかもしれない――レミリアは少しだけそう思う。長く長く長くに渡って地下室に閉じ込められていたフランドール・スカーレットは、まともな教育など受けていない。人間と血液の区別ができていないような子供に、果たして『死ぬ』ということがわかるのかどうか。 そして、それは自分も一緒なのだろうと、レミリアは思うのだ。 心のどこかで。 認めたがっていないのだろう。 十六夜 咲夜が、死んだことを。 だからこそ――ここには三人しかいない。葬儀のことどころか、彼女が死んだことを知るのは、ここにいる者たちだけだ。 紅白の巫女も。 黒白の魔女も。 半霊の庭師も。 誰も――咲夜が死んだことを知らない。せいぜい、「あら、最近姿を見ないわね」と言う程度だろう。 いつかは気付くとしても――今は気付いていない。 それでいい、とレミリアは思う。 言葉には言霊が宿る。意識には魂が宿る。意志が世界を作っていく。 十六夜 咲夜が死んだことを知らなければ。 彼女たちが、「そのうちふらっと帰ってくるよね」と思っていれば。 本当に、十六夜 咲夜が、何事もなかったかのように戻ってくるのではないかと――レミリアは、そう思うのだ。 埋めますよ、と紅 美鈴が言う。 暗く昏い視界の中、紅 美鈴は迷いのない手つきで土を掘る。弾幕でも使えばすぐに終わるだろうに、彼女は決してそうしなかった。 十六夜 咲夜との記憶を、思い返すかのように。 ゆっくりと、スコップを使って、土を掘り返していた。 レミリアもパチュリーもそれを急かしたりはしない。早くしろ、とも、ゆっくりやれ、とも言わない。 黙って、土を掘り続ける紅 美鈴の姿を見ている。 紅魔館の裏庭は暗く――赤い。 空には満月。神々しい光は、けれど赤い館に反射して血のような光になっていた。中庭に降り注ぐ光は、紅魔の光だ。吸血鬼のための、赤い月。 夜空に浮かぶ月が、赤い満月のように見えた。 月が、血の涙を流している――レミリアがそう思ってしまうのも、無理はない。 少しだけ、嬉しかった。 月が、咲夜との別れを惜しんでくれているようで。 夜は、静かだ。 ざくり、ざくりと、土を掘り起こす音だけが聞こえる。 ざくり、ざくりと。 土が掘り起こされるたびに、咲夜との別れが、近づいてくる。 私、悲しいと思っているのだろうか――レミリアは、自身にそう問いかけてみる。 方法は、いくつでもあった。 本当に死んでほしくないのならば、無理やりにでも血を吸えばよかったのだ。そうすれば眷属として生き延びることができる。 あるいは――どこぞの薬師に頼んで、不老不死にしてもらえばよかった。 全てをなげうってでも、やる価値があると思えるのならば、そうするべきだった。 無理やりにでも、生かせばよかったのだ。 レミリアは思う。 なぜ、私はそうしなかったのだろう――と。 ざくり、ざくりと土が掘られていく。レミリアと、パチュリーは、何も言わない。 土を掘る紅 美鈴の瞳から流れる雫が、月の光を反射して輝いているのに気付いても、何も言おうとはしなかった。 彼女は悲しんでいる。 紅 美鈴は、友人との別れに悲しんでいる。 その感情を、少しだけ羨ましく思う。 早いものね、とパチュリーが言う。 早いのか、遅いのか。 そんなことに、意味があるのかどうか、レミリアには解らない。 どちらにせよ、同じことだ。 時差はあろうとも――運命は平等にやってくる。 死んだ時刻も。生きた時間も。 死んだ理由も。 生まれた理由も。 全ては――意味がないことだ。 彼女は、ここにいた。 そして、今はいない。 それだけが――レミリアにとって、全てだった。 咲夜さん、と紅 美鈴が名前を呼んだ。 棺桶に詰められた十六夜 咲夜は返事をしない。 花と共に箱に詰められた彼女は、眠るような美しい顔をしている。 自らの時間を止めたかのような姿だった。 けれど――その少女は、もう、喋ることも、動くこともないのだ。 それでも、紅 美鈴は名前を呼ぶ。咲夜さん、と。 別れを惜しむように。 名前を呼べば、答えてくれると信じているかのように。 咲夜さん、咲夜さん――小さく名前を繰り返しながら、泣きながら、紅 美鈴は土を掘る。 墓を、掘る。 十六夜 咲夜の墓を掘る。 もういいわよ、とパチュリーが囁く。 気付けば――穴は、十分な深さと広さになっていた。 それでも紅 美鈴が手を止めなかったのは、終わることを拒んでいたからだろう。 けれど、何事にも、終わりはある。 夜が明けるように。 人が死ぬように。 紅 美鈴は穴から出て、スコップを傍らに置いた。服の袖で瞳を拭い、棺桶の側に戻る。 十六夜 咲夜が眠る棺桶を――彼女は、そっと持ち上げた。 大きな箱を、一人で苦もなく運ぶ。 彼女は、一人ではない。 妖怪と、吸血鬼と、魔法使いが。 一人の人間の死を悼んでいる光景は、他のものから見れば、どう映ったのだろう。 けれども、見ているのは月だけだ。 満月だけが、彼女たちを見守っている。 棺桶が、土の中へと入れられる。紅 美鈴が、棺桶の周りに土を埋める。 蓋は、また閉めない。 別れを告げる時間が必要だった。 さようなら、と紅 美鈴が言い、紅魔の庭を離れた。 さようなら、とパチュリーが言い、紅魔の庭を離れた。 残ったのは、紅魔の主、レミリアだけだった。 気をきかせてくれたのだろうとレミリアは思う。 最後の最後に、二人だけになる時間をくれたのだろう。 そんな友人と門番に、レミリアは心の中で感謝した。 周りには、誰もいない。 レミリアと、咲夜の二人きりだった。 二人きりの――最後だった。 レミリアは棺桶に近寄り、咲夜の顔を覗きこむ。 穏やかな寝顔にしか見えなかった。 眠っているようにしか、見えないのに。 彼女はもう、遠いところへ行ってしまったのだ。 心に痛みが走る。それは勿論幻痛だ。 その幻を――レミリアは、何よりも愛しく思う。 咲夜、とレミリアは名前を口にしてみた。 口から出した響きは――自身で思っていたよりも、心地良く耳に響いた。 大切な、名前。 大切な、言葉。 もう二度と――呼ぶことのないかもしれない、名前だった。 レミリア・スカーレットは空を仰ぐ。 満月が、レミリアを見下ろしていた。大きな瞳に見守られているような気になる。 けれど、ここにいるのは、二人だけだ。 死んでしまった従者と。 生き続ける主。 二人しか、ここにはいない。 そしてもうすぐ――一人に、なる。 狭くて広い、この幻想郷は。 独りきりで生きるには――寂しすぎると、レミリアは、思う。 けれど。 彼女に、生を強要することはできない。 それは、尊厳だ。 人間として生きてきた、彼女の尊厳だ。 主が、それを馬鹿にすることはできない。 主だからこそ、それを壊すことはできない。 操り人形を、従者にした憶えはない。 十六夜 咲夜が、十六夜 咲夜だからこそ――側にいたのだから。 だから、決めるのは、彼女だ。 レミリアは、地面に膝をつけ、棺桶に埋まる咲夜に近づく。 顔を、近づける。 綺麗な死に顔。薄く死に化粧に彩られた、銀の少女。 今にも、目を覚ましそうな。 眠っているだけのような。 時の止まった、永遠の眠り姫。 その、彼女の顔に。 レミリアは、自身の顔を近づける。 誰も見ていない。 レミリアだけが、咲夜を見ている。 咲夜は――何も見ていない。 息が触れそうな距離になっても、咲夜の瞼は開かない。 それでも、構わないと、レミリアは思った。 だからこそ、ゆっくりと―― レミリア・スカーレットは、十六夜 咲夜に唇を重ねた。 一秒が過ぎ、二秒を向かえ、三秒を越えて――レミリアは唇を離す。 赤色の唾液がわずかに糸を引き、すぐに途切れた。 十六夜 咲夜の唇は、艶を取り戻していた。 レミリア・スカーレットの血によって。 レミリアの唇も、自身の血で濡れている。口端から、わずかに血が垂れている。 キスの前に、口の中を、自らの牙で傷つけたのだ。 そして――キスと共に。 血を、彼女に分け与えた。 それがどういう意味をもたらすのか、レミリアは本能でしか知らない。 血を吸えば、従者にできる。 血を与えれば―――― それを決めるのは、十六夜 咲夜自身だ。 強制的に、従者にするのではなく。 彼女は、選ぶのだ。 死へ断つのか。 側に立つのか。 決めるのは、彼女自身だと、レミリアは思う。 だからこそ――レミリアにできることは、選択肢を与えることだけだ。 そして、願うだけだ。幸せな日々を。 十六夜 咲夜の魂に、安らぎがあることを。 レミリアは立ち上がり、側にある棺桶の蓋を手に取る。 眼下には、十六夜 咲夜の静かな姿。 その姿を、最後とばかりに見つめて。 レミリア・スカーレットは、全ての思いを、一言に込めた。 「――ありがとう」 蓋を閉める。 土が被さる。 空には満月。 少女の赤い涙を、誰も知らない。 (了) |
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