1 冬への扉 (後)
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 どこから行こうかなど、考えてもいなかった。
 行けるところから行く。
 そして全ての場所に行く。
 幻想郷の端から端まで飛びまわり、全ての扉を開けて周る。そう決意して、チルノは香霖堂を飛び立った。
 そしてそれは、決して容易なことではなかった。
 幻想郷の扉は意外と少ない。幻想郷に生きるモノの大半を占める妖怪や妖精は、そもそも家を持たないからだ。自然の中で寝たり、木をくりぬいたり洞窟に住んだりするからだ。そもそも決まった寝床を持たず、木の上で寝たり、まったく寝なかったりするものも多い。
 問題は、家を持っている妖怪たちだ。
 そういう妖怪は、力が強く、性格に一癖も二癖もあるものたちばかりだった。
 真っ向から行っても、追い出される可能性があった。
 それでも、チルノは真っ向から行った。それ以外に方法を思いつかなかったし、それ以外の方法を探す時間もなかったからだ。今日が終わればもうどうしようもなくなる。回りくどいやり方をする暇もない。
 だから、正面から、門を叩いた。

「たのも――っ!」
「何を頼むんですか?」

 突然飛び込んできたチルノに、紅魔館の門番・紅 美鈴は冷静に対応した。いきなり弾幕を撃ってくるような人間に比べればまだ常識的な登場だったからだ。

「あら、あんた湖の氷精じゃない」
「そういうあんたは門。開けていい?」
「門番、よ。開けられるはずないじゃない」

 チルノがまっさきに紅魔館に来たのは、この門番が顔見知りだという理由からだった。紅魔館の近くの湖を縄張りにするチルノは、たびたびこの門番と出会っていた。
 おもに、湖を越えて紅魔館に特攻する侵入者がいるせいで。
 その侵入者はとんでもなく強いので、チルノと美鈴は折り重なるようにして倒れる羽目になる。怪我の治療や愚痴話をしたこともあった。別に仲が良いわけではないが、そこそこ見知っている分だけ頼みやすかった。
 どう話を切り出そうか悩むチルノに、美鈴は言う。

「で、何の用? 侵入しに来たのなら、相手になるわよ」

 身体を斜にし、右手を前に突き出して構える美鈴。門番としての役目は一応忘れてはいないらしい。
 どういう風に伝えるべきか。
 結局チルノは思いつかず、一番分かりやすい言葉で言った。

「ううん。遊びに来たの」
「…………は?」



        *



「……ねぇ咲夜。あの子達は一体を何してるのかしらね」

 紅魔館の中。
 ばたばたと走りまわるチルノと美鈴の姿を見て、レミリアは後ろにたたずむ従者に向けて呟いた。
 珍しく館が賑やかだから、ひょっとして霊夢か魔理沙が遊びにきたのか――そう思って部屋から出ると、館の周りをうろちょろしている妖精が中にいた。おまけに傍らには門番がいて、その後を小悪魔が追いかけていた。
 何をしている、と思わず呟いてもおかしくはない。

「何でも、冬を探すために扉を開けて周っているそうです」

 咲夜はとくに動じることもなく淡々と説明する。この程度のことならば日常茶飯事だ。壁を壊したり床を壊したり何もかもを壊されるのに比べれば、扉を開けて回るくらい仕事の邪魔にはならない。

「それ、どういう意味?」

 説明を受けてレミリアはさらに混乱する。
 冬を探すために扉を開ける。
 何のことだかまったく分からない。咲夜の言うことが分からないことはよくあるが、今日のは特に極まっていた。

「さあ。何でも、香霖堂の店主にそう言われたそうですよ」

 その言葉に、レミリアは半分納得する。
 レミリアと咲夜は、香霖堂にとっての数少ない常連客だ。あの店主がどんな人間なのか、咲夜たちはよく知っている。
 得体の知れない胡散臭い店主。
 店主のイメージはそのひと言につきた。あの男なら、変なことを氷精に吹き込むことくらいはするだろう。それが本当であるか嘘であるかは別として。
 納得できない半分は、『なぜそんなことを』というものだが、それは気にしないことにした。気にしても仕方のないことだし、興味すらも湧かない。
 が、レミリアの沈黙を別の意味で取ったのか。
 咲夜が、険のある声で言う。

「扉を開ける程度なら問題はないと思って中に入れましたが――」

 そこで咲夜は言葉を切り、右手を前に突き出す。
 その手には何も握られていない。完全に空手。
 しかし、ピンと張り詰めた空気だけが、その手が無害ではないと主張していた。
 手を向けたまま、咲夜は言う。

「追い出しますか」

 すらり、と。
 いつの間にか、咲夜の手の中には銀色に光るナイフがあった。たった一本。しかし、それは放たれれば幾重にも増える、種も仕掛けもある魔法のナイフだ。本気で放たれれば、一秒もかからずにチルノは館の外へと追い出されるだろう。
 咲夜にはそれを可能にするだけの能力があるし、それを実行に移すだけの忠実さもあった。
 が、

「別に構わないわ」
「構いませんか」
「地下への扉さえ隠してくれたら、あとは別に。もうすぐ春だもの、こういうこともあるよ」
「はぁ、そうですか。お嬢様がそう言うのなら」

 それきり興味を失ったのか、レミリアは踵を返し、奥へと引っ込んでいく。
 咲夜もナイフを懐にしまい、一歩遅れてそれに続く。主の影を踏まないだけの距離を置いて、足音もなく、ホコリを立てることもなく瀟洒に歩く。

「ああ、そうそう。咲夜、」

 振り向くことなく、レミリアは言う。

「あの子たちが汚した分の掃除、全部貴方に任せるわ」

 その言葉に眉一つ動かさないのは、咲夜が完全に瀟洒な従者だからだった。
 内心で、扉の時間と空間を弄くって湖に全員放り出そうか、と考えていたけれど。



        *



 扉の多い紅魔館の、全ての扉を開け終わるころには、陽はすでに真上にまで昇っていた。もっとも、雲で隠れているため何となく程度にしか分からない。雪はあいかわらず降っているが、朝ほどの勢いはなかった。
 ふらりはらりと降り落ちるなごり雪の中を、チルノは飛ぶ。
 紅魔館を出て、上へ、上へと。
 向かう先は、幻想郷の遥か上、白玉楼の手前にある、巨大な扉だった。
 空に浮かぶ、巨大な扉。
 それこそが、白玉楼――つまり、現世とは異なる幽世へと繋がる扉だった。別の場所へ繋がる、という意味では、霖之助の言った扉の例に当てはまるのかもしれない。
 高く昇るにつれ、空気が薄く、寒くなっていく。
 そのたびに速度は増した。寒くなること。雪が増えること。それは、チルノにとってはマイナスにはならなかった。むしろその環境の方が、チルノにとっては過ごしやすいものだった。
 ひたすらに飛び続けると、目前に扉が見えてくる。
 何の唐突もなく現れる巨大な結界と、結界の向こう側への道である扉。この先が白玉楼、亡霊たちの世界。生きている妖精がいくべき世界ではない。
 紅魔郷の知識人に教えられるまで、こんな場所は知らなかった。
 たのもう、と言おうかどうか、チルノは悩む。
 扉の周りには誰もいなかったからだ。誰もいないなら言う必要はない。

 ――ちょっと、扉を開けてみるだけだし、いいよね。

 心の中でそう言い訳して、チルノはその巨きな扉へと近づく。
 デカい。
 間近で見ると改めてそう思う。下から見上げると、上の端がかすんで見えない。いったいどれだけの大きさがあるのか、チルノには想像もつかない。
 扉に手をかける。
 少しだけ緊張した。
 紅魔館での扉は、すべて冬には繋がっていなかったから。香霖堂を出たときに比べて、心に少しだけ陰りが出来ていた。
 ――もし――
 それ以上は考えないようにする。
 腕に力を込めて、
 チルノは扉を、

「そこの妖精。何をしている?」

 開けられなかった。
 気づけば、首筋に刀が添えられていた。二尺七寸の日本刀。雪の放つ光を浴びてかすかに光る刀身は、触れただけで斬れてしまいそうだった。
 息を呑むことすらできなかった。
 瞳だけ動かして横を見る。刀を持ち主は、チルノの真横に立っていた。さっきまでは、どこにもいなかったというのに。
 誰かが扉に触れたのを察知し、逡巡しているその一瞬の間に妖夢が駆けつけたなど、チルノに分かるはずもなかった。
 分かることはただ一つ。
 動けば死ぬ。
 少しでも動けばその瞬間に死ぬ。本気でそう思ったし、妖夢が本気でそうするだろうことは、その目を見ればよく分かった。
 相手を敵としか見ない、そういう目だった。
 怖かった。
 氷よりも冷たい刀から漂ってくる死の感触がたまらなく怖かった。 
 逃げよう、そう思い羽に力を入れて、

「逃げられると思うなよ。私の剣は、二百由旬を越えてお前を斬り倒すぞ」

 いつの間にか抜かれていた二本目の刀が、チルノの羽に添えられていた。もはや身じろぎすることすらできず、チルノは横目で妖夢の顔を窺う。
 思い切り睨まれていた。
 逃げられるだなんて微塵も思わなかった。戦おう、と一瞬だけ思ったが、すぐに無理だと諦めた。この位置関係なら、弾幕を放つよりも氷を作るよりも早く首を跳ねられるだろう。 

「さあ吐け。一体何をしにきた」

 正直に言わないと斬るぞ、と目が語っていた。
 扉を開けにきた、と言ったら許してもらえるだろうかとチルノは考える。何となく、馬鹿正直にそう言ったらその瞬間斬られるような気がした。ようするにこの相手は門番で、門を守るため、というよりは門を破る敵を倒すために存在する。となれば、門をこっそり開けようとした自分は、誰がどう考えたって侵入者だ。
 かといって何も言わなければ、これもまたあっさりと斬られてしまうに違いない。根気のあるような相手には見えなかったし、穏便に済ませようという意志も感じられなかった。

 ――どうしよう。

 チルノが本気で悩んでいる間、妖夢もまた、同じように悩んでいた。
 こいつは一体何をしにきたのだ、と。
 見たことはある。地上でうるさく騒いでいる氷精だ。それが、こんな所まで昇ってきて、あまつさえ結界の扉を開けようとしている。
 何が目的なのか分からない。
 が、侵入者という事実には変わらない。自分はここを守るものであり、敵を斬るものである。全ては剣が教えてくれる。真実は斬れば分かるものだ。
 そう思い、妖夢は刀を握る手に力を込め、

「あら妖夢。そんなに脅しちゃダメじゃない」

 その刀が、横からひょい、と奪われた。

「――!?」
「――ッ!」

 二者二様の反応を見せた。
 妖夢は驚いて刀を奪った相手を見、チルノはその隙にバッと距離を取った。とりあえず斬ればいい、と思っていた妖夢と、生きる死ぬの間際に立っていたチルノとの緊張感の差がはっきりと表れていた。
 チャンスを逃してしまったことを悟り、妖夢はほぞを踏む。そして、剣を奪った相手――空中に開いたスキマに座り、指で刀を摘んだままのんびりとしている八雲 紫を睨みつける。

「何のようですか、紫様。またろくでもないことをしにきたんじゃないでしょうね」
「心外ね。私は六でも七でもないわよ」
「そんなことを言っているのではありません!」
「まぁまぁ落ち着いて。老けるわよ」
「半霊はそう簡単には老けません!」

 思わず怒鳴ってしまう妖夢。その姿に、さっきまでの冷徹さは残っていなかった。年上の姉にからかわれている妹にしか見えない。
 思わずチルノはため息を吐く。張り詰めていた空気が、春に溶ける雪のように霧散していった。
 この雰囲気なら、説明できるだろう。
 そう思った話を切り出そうとするが、妖夢も紫も漫才のような会話を繰り返すばかりで、チルノを見ようとすらしなかった。ひょっとしたら存在すら忘れているのかもしれない。

「あ、あのっ!」

 思い切って大声で言う。
 何だまだいたのか、という顔の妖夢と、何を考えているか分からない微笑を浮かべた紫が、同時にチルノの方を振り向いた。
 う、と気圧されてしまう。さすがに凝視されると言いにくい。

「あのね、あたいは――」

 おずおずと切り出されたその言葉を、紫が勝手に引き継いだ。

「冬へと繋がる扉を捜しにきたんでしょう?」
「えッ!? 何で知ってるのさ!」
「……冬へと? どういうことですか、紫様」

 紫の言葉に、二人は驚きの反応を見せた。まさか知っているとは思わなかったのだ。
 こいつは何者だ、とチルノは思う。
 多少は顔見知りの妖夢にとってさえ、紫は『得体の知れない妖怪』だったし、ましてや初対面のチルノにとっては正体不明の存在だった。
 ある意味、妖夢の方がずっと分かりやすいとチルノは思う。突然現れた紫が何を考えているのか、なぜ自分が冬への扉を捜してることを知っているのか、まったく分からなかった。
 二人の言葉に、紫は胸を張って答える。

「幻想郷のことで、私が知らないことはないわ」
「…………」
「…………」

 微妙に答えになっていない。
 チルノはそう思ったが、質問し返すのは止めておいた。たとえ訊いたところで、同じ調子ではぐらかされてしまうだろう。そういう雰囲気が、紫にはあった。
 質問をしたのは、多少は紫の扱いに慣れている妖夢だった。一度ため息を吐き、疲れたように肩を落として、

「それで。紫様は一体何をしにきたのですか」

 妖夢の問いに、紫はすっと指差す。チルノの後ろ、空にそびえる巨大な扉を。

「これ、開けてあげようと思って」

 劇的な反応があった。妖夢の顔がさっと青ざめ、すさまじい剣幕で紫を睨みつけたのだ。もし刀を持ったままだったら、その場で切りかかりかねない勢いだった。

「何のつもりですか!? いえ、何を企んでいるんです!」
「人助け。いえ、妖精助けね〜」

 胡散臭い。
 チルノと妖夢は同時にそう思った。こんなに胡散臭い妖怪が、胡散臭い言葉を吐く。裏に何かあるに決まっていた。

「どんな理由があろうとも、ここを開けさせるわけにはいきません。ここが開いたらどうなるか、紫様だって知らないわけじゃないでしょう」

 知らないはずがない。チルノは知らないが、白玉楼に住む妖夢と、そこに遊びにくる紫は嫌と言うほど知っていた。
 この扉は現界と幽界を隔てる境界であり、ここが開くということは、白玉楼内の幽霊たちがどっと地上に押し寄せることに他ならない。そう迂闊に開けていいような門ではないのだ。
 しかし、うかつに開けてはいけないような門を、あっさりと開けてしまいそうなのが、紫という妖怪だった。

「でもね、妖夢」
「なんですか」

 紫は満面の、本当に心の底から楽しそうな笑顔を浮かべて、言った。

「もう開いたわ」
「――へ?」

 ぎぎぎ、と音がしそうなぎこちない動きで、妖夢は後ろを振り返る。
 扉が、開いていた。
 巨大な扉は、既に音もなく開いていた。完全に開ききった、というわけではない。人一人がどうにか通れるくらいの、狭い隙間が開いただけだった。
 それでも、開いたことには変わりがない。
 妖夢の動きが固まる。その隙間から幽霊たちがどっと出てくるところを想像して、妖夢の顔が青を通り越して白くなる。
 突如うろんな目をして固まった妖夢を見て、こいつ大丈夫だろうか、という顔をチルノがする。
 紫はその様子を楽しそうに見ている。
 そのまま、しばらく固まった後。
 突然妖夢が動き出した。バネじかけの玩具のように動き、紫に飛びつく。そのまま襟をつかみ、紫の頭をがっくんがっくんと揺らす。
 
「あ――――ッ! 紫様なんてことしでかしてくれたんですか! これの後始末誰がやると思ってるんですか私ですか私ですよ私以外に誰かしてくれるんですか紫様がしてくれるんですかしてくださいよねも――っ! また幽々子様に叱られちゃうじゃないですか! 紫様も一緒に叱られてくださいよ!?」

 騒がしいを通り越して姦しい。
 思わず耳を押さえるチルノ。一方、間近で叫ばれた紫は、それでも平然としていた。耳が遠いのかとチルノは思ったが、何も返事をしないでにこにこしているところを見ると、そもそも何らかの方法で聞いていないのかもしれない。
 ハァ、ハァ、と肩で息をする妖夢。
 その妖夢に、紫は笑って声をかける。

「妖夢」
「なんですか!?」
「気はすんだ?」
「…………ハハ。紫様、斬ってもよろしいでしょうか」
「あら。斬ってもスキマをすりぬけるだけよ。それに、ほら」

 妖夢に締め上げられている紫は、アゴでくいと後ろを指し示す。締め上げたまま、妖夢は首だけで後ろを振り向いた。
 門が開いている。
 それは変わりない。しかし、それ以外に変化もない。
 ようやく気づいた。
 変化がないのだ。扉が開けば、幽霊たちは地上の陽気に誘われて一斉に飛び出てくる。元は地上にいた人間たちだ、機会があればいつでも現世へ還りたいと思っている。
 その幽霊たちが、扉が開いたというのに、一人も出てこない。
 それは、明らかにおかしなことだった。
 紫を締め上げていた手が、無意識のうちに外れた。
 身体ごと振り返り、わずかに開いた扉を注視する。
 確かに、扉は開いている。そして、よく目を凝らして見れば、開いた扉に無数の――多数の幽霊たちが詰め寄っている。そこから出ようとして、芋洗いような有様になっている。
 だが、それでおしまいだった。
 詰め寄った幽霊たちは、なぜか、扉のこちら側に出ることが出来なかった。入り口のところでぎゅうぎゅうに詰まるだけで、それ以上先に進むことは出来なかった。
 さらに目を凝らす。
 視力ではなく、感覚と、霊力の目で見る。
 見えた。
 開いた扉。そのスキマには、結界がはられていた。その結界のせいで、幽霊たちは外に出てこられないのだ。
 妖夢はもう一度振り返る。今度は、扉から視線を外し、紫を振り返り見る。
 紫は、変わらぬ微笑を浮かべてそこに浮いていた。

「ね? 大丈夫でしょう」

 どっと疲れが襲ってきた。
 妖夢は身体から力を抜き、肺の中の空気を全て吐き出すようなため息をする。

「紫様ぁ、一体なにがしたいんですか?」

 泣くような妖夢の質問に、紫は笑って答える。

「だから言ったでしょう? 妖精助け、って。――これでよかったのかしら、氷精さん?」

 最後の言葉は、妖夢に向けられたものではなかった。
 開いた扉を見て、その向こう側に広がる世界を見て、呆然としているチルノに向けられたものだった。
 チルノは、話しかけられたことにも気づかず、目を見開いて扉を見続けている。

「……思ったのに」

 口から漏れた呟きは、誰かに向けられたものではない。
 自分自身の心から漏れ出た、ただの独り言だった。
 その独り言を、妖夢と紫は耳をそばだてて聞く。

「――繋がってると、思ったのに」

 それは、チルノの本心だった。
 繋がっていると思っていたのだ。紅魔館では無理だったけれど、ここなら繋がっているような気がしたのだ。別の世界へと繋がる巨大な扉。そんな大層なものなら、冬の世界に繋がっていてもおかしくないと、チルノは思っていたのだ。
 思っていたのに。
 期待はあっさりと裏切られた。突然の闖入者に扉を開けてもらえたものの、開けてもらった向こうには冬の世界はなかった。多少温度は低いものの、それは幽霊たちの体温でしかなかった。
 冬へと繋がる扉ではなかった。
 期待していた分だけ、落胆は大きい。チルノの羽が力なく揺れる。顔が俯き、吹き出る冷気が大人しくなる。
 なぜチルノが突然落ち込んだのか分からない妖夢は、何と声をかけていいか悩む。
 代わりに紫が口を開く。

「これで満足でしょう?」

 むかついた。
 馬鹿にされているような気がした。自分が頭がいいとはチルノは微塵も思っていない。それでも、面と向かって馬鹿にされるのは我慢がならなかった。紫の言い方ではまるで、自分が真剣ではなく、だだをこねている子供のようではないか。そう感じた。
 チルノは顔を上げる。
 その瞳に暗い部分はもうない。あるのは炎だけだ。やる気と意志に満ちた瞳がそこにはあった。
 チルノは紫を睨みつけ、精一杯の虚勢を張って胸を張り、空元気を振り絞って声を出した。

「ふん! まだまだよ、まだ扉はいっぱいあるんだから! あんたなんかに開けてもらわなくったって、あたいは自分の力で見つけ出せるんだからね!」

 もうそれ以上、チルノは紫に構おうとはしなかった。こんな妖怪に構っている暇があったら、一つでも多くの扉を開けるべきだと思った。時間は無限ではないのだ。幻想郷を西に東にと駆け回るのなら、余計なことに使う時間はまったくない。
 ぷん、と顔をそらして、一目散に地上に降下するべく羽を立てて、身体を傾ける。
 走り出す短距離選手のようなチルノに向かって、紫は最後に言葉を投げかけた。

「ああ、そこの小さな氷精さん」

 むっとした。
 出鼻をくじかれたような気をした。大体、小さな、と言われる筋合いはない。確かに相手は少女の外見にしては大きいが、それでも自分が格別小さいとはチルノは思っていない。もう無視して立ち去ろうかと悩む。
 が、この妖怪が、扉を開けてくれたことも事実だ。
 今すぐ飛び去りたいのを少しだけ堪えて、訊ね返した。

「……なに?」
「がんばってね〜」

 ――なんだ、そんなことか、とチルノは思った。
 無気力な、やる気の感じられない応援だった。
 それでも、応援には違いなかった。
『そんなこと』が、今のチルノには、とても嬉しかった。顔には出さなかったけれど、落ち込みかけた気力が戻ってきたような気がした。
 紫から顔を背ける。もし赤くなっているのなら、それを見られたくはなかったからだ。
 紫と妖夢と視線を合わせないまま、チルノは言う。

「――ありがとっ!」

 言って、飛び出した。
 薄く寒い空気の世界から、冬の終わりかけた地上へと、チルノは一目散に落ちていく。
 その後ろ姿を、妖夢は不思議そうに見つめている。
 その後ろ姿を、紫はにやにやと笑いながら見つめている。



        *



 それから、長い時間をかけて、チルノは幻想郷中を飛びまわった。
 東の果てにある民家の扉を片っ端から開けて、ハクタクに追い出された。
 西の果てにあるお屋敷の扉を片っ端から開けて、多すぎる扉に吸い込まれかけた。
 幻想郷の果てにある神社で扉を開けて、巫女に蹴り出された。
 魔法の森にある魔法使いの家の扉を開けた。防犯用魔法が発動して死にかけた。
 散々な目にあった。
 痛い思いを幾度もした。
 途中で止めて、湖に帰りたいとすら思った。
 時には追い出されたり追いまわされたりしたこともあったけど、それでもチルノは扉を開け続けた。頭を下げ、侵入し、時には弾幕ごっこすらして、幻想郷中の扉を開けて周った。
 何故、自分がここまで必死になってるのか、チルノ自身にもわからなかった
 分からないままに、チルノは扉を開けて周った。
 止めようと、諦めようと、幾度となく思ったのだ。
 そして、そのたびに、次の扉こそ、次の扉こそと思いながら、飛び続けた。



 そして――――



        *




 ――もう、どこにも、扉は残っていなかった。




        *

 

 夜になった。
 太陽が沈んでから、雪の勢いは強くなった。月の光の下では、雪たちは活発に動き回れる。太陽にかき消されることもなく、思う存分降り積もることができる。
 しかし、それは最後の灯火にすぎなかった。
 蝋燭が消える前にもっとも強く輝くのと同じことだった。
 こうも降ることができるのは、この夜の間だけだろう。夜が終わり、月が沈み、太陽が再び昇ってくるころには、雪たちは全て消え去るだろう。
 冬の妖怪たちと共に、消えていくことだろう。
 レティも消え去り、チルノだけが残されるだろう。

 もう、どうしようもなかった。 

 開けていない扉なんて一つも残っていなかった。行っていない場所など一つもなかった。希望を心に扉をあけ、そのたびに裏切られること幾度となく繰り返した。扉を開けるたびに心に黒いものが溜まっていった。それでも途中で止めなかったのは、どれかが、どの扉かが冬に繋がると信じていたからだ。
 けれど、もう、だめだった。
 扉は、一つとして、冬の世界には続いていなかった。
 扉という扉を開けて、そこにあったものはただの絶望だった。暗く深い諦観を得ただけだった。どう足掻いたところで、冬には繋がらない。そのことを自覚するだけで時間は過ぎていった。
 時間すらも、残ってはいない。
 この夜が終われば、全ては終わる。
 冬が終わり、春がくる。花が咲き生き物ははしゃぎ宴会は始まり、誰もが歌い喜び楽しむ、幸せな季節の春がくる。
 そんなものを、チルノは、欲しいとは思わなかった。
 その全てを引き換えにしてでも、冬を留めていたかった。
 その全てを引き換えにしてでも、レティと別れたくはなかった。
 その方法が残っていたら、チルノは迷わずにそうしただろう。けれど、もう、何も残ってはいなかった。飛ぶ元気すらも残っていなかった。
 冷たくない雪の上を、とぽとぽと歩くので精一杯だった。
 足取りは重い。うまく前に進まない。羽は動かない。
 特にどこに向かっていたわけではない。
 目的地があったわけではない。どこに行こう、そう考えるだけの気力も残っていない。ただ、立ち止まるが怖かっただけだ。立ち止まったら、それこそもう二度とレティに会えなくなる気がしたから歩き続けただけだ。
 右足を前に出す。力なく身体が倒れそうになり、惰性で左足を出す。その繰り返し。無気力な繰り返しだけで、前に進んだ。
 立ち止まってもいいかな、とチルノは、少しだけ思った。
 立ち止まって。横になって。
 何も考えずに、雪の中で眠る。
 そのまま雪と一緒に溶けてしまって、消えてしまえば楽になれる。そんなことすら思ってしまった。
 それでも、足を止めなかったのは。
 きっと、細い蜘蛛の糸よりもなお細い、幻のような希望にすがり付きたかったからだ。
 だから足は自然に――香霖堂へと向かっていた。
 飛ぶこともなく、一歩、また一歩、亀のような速度で魔法の森へと向かった。途中で何度も立ち止まりそうになり、そのたびにレティのことを思い出して前へと進んだ。
 飛べばすぐの距離を、長い時間をかけてチルノは歩いた。
 ようやく香霖堂にたどり着いたとき、開いた扉から漏れ出る光を見てチルノは安堵した。もし扉が閉まっていたり、中の明かりが消えていれば、チルノは店の前で力尽きていただろう。もう、扉を開ける力など、チルノには残っていなかったのだから。
 開いたままの扉から、チルノは香霖堂の中へと入る。
 中は暖かかった。朝と変わらずストーブがついていた。春の暖かさではない、冬の中の暖かさがそこにあった。ヤカンの中にはいくつかの氷柱が突き刺さっていた。見覚えがあると思ったら、朝に放った氷柱だった。朝ここに来たときのことを思い出して、チルノは笑いたいような泣きたいような奇妙な気分になる。
 店の中は、朝とは雰囲気をがらりと変えていた。
 原因は明らかだった。ある一点を除けば、香霖堂の中は朝と変わらなかった。点けっぱなしのストーブに乗せられたヤカン、どことなく薄暗い店内、店主にしかわからない法則で置かれた物の数々、雪を見ながら酒を呑む店主。
 違う点はただ一つ、魔理沙がいない。
 それだけで店の雰囲気は別のものになっていた。奇妙な明るさや楽しさがあった、賑やかな店ではない。今の香霖堂は、暗く静かな、時間が積み重なった古道具屋だった。神秘と呪いの匂いがする宝物庫だった。時間のゆるやかな、まるで止まってしまったような、外の世界から隔離された場所のようだった。
 店主は、森近 霖之助は、朝と変わらぬ姿で、同じように酒を呑んでいた。
 けれども、朝と同一人物だとチルノには思えなかった。魔理沙といるときの、年の離れた妹の面倒を見るような、隠された優しさのにじむ雰囲気は微塵もなかった。そこにいるのは、古びた道具のように冷たい、人の温度を感じさせないモノだった。道具を集め売るための人型の道具。そう言われても不思議ではなかった。彼と彼の集めた道具に、違いはないのかもしれない。
 店に積み重ねられた様々な道具が、じっと自分を見ているような錯覚をチルノは覚える。
 こんな場所で、平然としている店主が、人間には見えなかった。
 こんな場所に独りきりでずっといる店主は、いったいどんな心を持っているのだろうとチルノは今さらながらに思った。周りの世界を見ず、楽しく飛びまわることもせず、ただじっと座って外の世界から流れてくるものを集め、窓の外から季節を楽しむだけの男。そんなモノの内面など、チルノには想像できなかった。代わりに、自分が剥製にされて棚に並べられている情景を想像してしまった。この男ならそれくらいはやりそうだと思った。

「なんの――」

 真っ向から目を見据えてくるモノが、口を開いた。
 怖かった。殺されるような気さえした。レティのことも冬が終わることもここに来た理由も、自分が何なのかさえ、一瞬忘れてしまう。
 今、チルノの心と頭にあるのはひと言だけだ。
 怖い。
 怖い。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い――――――――――

「――用かな? そんなにくたびれて。疲れているのなら、こっちにきて座るといい」

 心が砕けた。
 ぎりぎりのところで、必死に堪えていたチルノの心が、ここにきてついに決壊した。
 優しくされるだなんて思わなかった。
 いっそ冷徹な態度でいてくれたら、無い気力を無理矢理搾り出して真っ向から敵対できたのに。
 気づいてしまったのだ。別に霖之助が恐ろしい存在だったわけではないことに。普通にしているだけの人を恐ろしく感じてしまうほどに、自分の心が弱っていただけなのだ。そのことを、チルノは必死に無視していただけだ。
 心が弱っていることを。
 挫けてしまいそうなことを。
 香霖堂に行けば、冬を止める方法を見つけるまでは。そう思って、空元気を振り絞っていたのに。
 見せ掛けだけだった気力は、もう、少しも残っていなかった。
 必死に誤魔化していた黒い考えが、ついに、口から漏れ出た。

「……う、うぁ……、レ、……レティが、レティがいっちゃうよぅ……っ」

 堪え切れなかった。
 意志とは無関係に、涙が流れ出た。一度流れ出てしまえばもう止まらなかった。小粒だった涙は、瞬く間に滝のようになった。泣くことを恥ずかしいとも、泣き顔を見られなくとも思わなかった。虚勢を張る元気など涙とともに流れ落ちていった。
 怖かった。
 たまらなく怖かった。泣き出したいほどに怖かった。逃げだしたいほどに怖かった。
 レティがいなくなることが怖かった。
 独りきりになるのが、怖くてたまらなかった。
 
「レティ、が……いなくなっちゃうよぅ……うぁ……うぁぁぁんッ!」

 涙も叫びも止まらない。
 扉を開けて周る間、ずっと心に溜めていたものを、今、すべて霖之助にぶちまけていた。別に霖之助だからではない。聞いてくれるのなら、慰めてくれるのなら――そして救ってくれるのならば、家の柱だろうが何でもよかった。
 涙ですべてが滲んで見える。霖之助がどんな顔をしているのか、チルノにはわからない。
 流れ落ちた涙が、チルノの体を離れた時点で氷になり、床にぶつかってあっけなく砕けた。
 氷精の涙は綺麗だな、と泣くチルノを見ながら霖之助はぼんやりと考えている。
 大声で泣き続けるチルノに、霖之助は言う。

「――見つからなかったのかい」

 その言葉で、チルノの心に炎が灯った。
 吹けば消えるような、蝋燭の炎よりも小さい炎だった。炎とすら言えないような火だった。
 それでも、心に燃える火は、叫ぶには充分な力だった。
 チルノは地面を蹴って跳び、霖之助の元へと飛び込む。目から零れ落ちる涙がチルノから取り残されて後ろへと流れていく。香霖堂の中に冷たい風が巻き起こる。積み上げられた品物が微妙なバランスを崩されて倒れる。
 気づけば、チルノは、霖之助の膝元で、その襟首を思い切り掴んでいた。
 朝のときと同じような構図。
 涙が切れたせいで、霖之助の顔がはっきりと見えた。首を絞められても平然としていた。掴んだ襟の部分が微かに凍りかけていた。
 その眉だけが、少しだけ申し訳なさそうに歪んでいた。
 襟首を掴んだ手で霖之助の胸を叩きながら、チルノは叫ぶ。

「なんで、なんでよッ! あんた言ったよね、あたいに言ったよね!? とび、扉をあければさ、冬があるって! 言った、言ったのにっ!」

 叫びながらも、チルノはそれが不当な訴えだとは気づいていた。
 霖之助は確かに言った。扉が冬の世界に通じている『かもしれない』と。あくまでもその可能性がある、とだけ言ったのだ。絶対に通じているとは言っていない。チルノはそれにすがっていただけだ。
 それでも、叫ばずにはいられない。
 コイツが悪いんだと、コイツのせいでこうなったんだと言わなければ、自らの心が保たなかったから。

「ねぇどうすればいいのさ! あたいは捜したよ!? 幻想郷を全部、全部! いっつも行かないような場所までいって、全部扉を開けてきたのに! どこにもないじゃない、ねえ、教えてよ、あんた色んなモノ持ってるんでしょ!? 冬にする道具くらい、あってもいいじゃない、ねぇ……お願い……お願い、だから…………」

 それ以上は、声にならなかった。
 叫びながらも涙は出続けた。泣きながら叫び、叫びながら泣いた。少しでも叫べば、少しでも泣けば、この目の前の男が助けてくれるかもしれない。そんなことさえ思った。
 殴る気力も、潰えた

「うぁ、あ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ! やだ、やだぁ、やだよぅ……レティ、レティィィィっ……うわぁぁぁあぁぁあぁん……」

 もう、泣くことしか出来なかった。泣き声をはり上げることすらできず、すすり泣きながらチルノはぼろぼろと涙を流す。
 チルノは襟首を掴んだまま、霖之助の胸元へと顔を埋める。霖之助の和服が涙で濡れ、濡れたところがすぐに凍りつく。凍ったところにさらに涙がつき、氷の塊が大きくなっていく。
 胸にすがるようにして泣く少女の扱いに、霖之助は少しだけ悩む。こんな状況に遭遇したことなど、今まで一度もなかったからだ。
 仕方なく、目下にある、小さな水色の頭を撫でてやる。
 冷たかった。
 冬の感触がした。扉の向こうに降る雪を触ったときのような、そんな感触だった。
 声を出す元気もなく泣きすがる少女に、何を言ってやればいいのか。
 霖之助にそんなことが分かるはずもなく、目のやり場に困って視線をさ迷わせる。
 その視線が、ある一箇所で止まった。
 開け放たれたままの、香霖堂入り口の扉。
 その先に広がる雪景色を見て、霖之助の頭に、とある可能性が浮かんだ
 最後の、本当に最後の、小さな可能性。チルノを今この一瞬だけは慰めることだけでは出来るであろう、しかしその一瞬が過ぎれば深い絶望の淵に突き通すだけの可能性。
 言うべきかどうか悩む。
 外の景色から泣く少女へと視線を移し、再び外の景色に視線を移し、一秒だけ悩んで、
 霖之助は言った。

「一つだけ残ってる可能性があるよ」

 嗚咽が止まった。
 霖之助の言葉に、チルノの涙が止まった。泣く子供をあやすのは生半可なことではできない。霖之助の言葉には、それだけの威力があった。
 チルノは、恐る恐る顔を上げる。 
 右の手で涙を拭って、チルノは霖之助を見た。
 冷気を直に浴びているせいで、霖之助の肌が紫色に変色しかけていた。それでも平然とした顔で、真っ直ぐにチルノの目を見下ろしていた。
 ためらう。
 果たして、この人の言葉を信じていいのだろうか、と。この希望にすがり付いて、それでもダメだったらどうなるのだろう、と。
 それでもすがりつかないわけにはいかなかった。

「……それ、なに?」

 小さな、そばにいる霖之助にしか聞こえないような声で、チルノは訊ねる。
 その声を受けて、霖之助はす、と腕を伸ばした。そして指差す。
 チルノが入ってきた、香霖堂の入り口を。
 チルノは指された方を振り返り不思議そうな顔をする。そこには何もない。開け放たれた扉と、雪の降る外があるばかりだ。特に目新しいものも目ぼしいものもない。だからどうした、とすらチルノは思った。まさか帰れとでもいう気だろうか。
 チルノの疑問を掻き消すように、霖之助ははっきりと言った。

「まだ扉が残っている。そこの扉が。君が開けていない、ただ一つ残った扉が」

 言って、霖之助は立ち上がる。霖之助の胸によりかかっていたチルノはその反動で体勢を崩し床に片手をつく。

「あ……」

 というチルノの呟きが聞こえるが、霖之助は意識的に無視をした。
 床に散らばった氷を踏まないように気をつけながら入り口まで歩き、今日一日の間開けっ放しだった扉を閉める。早朝から今の今まで、この扉が閉まることはなかった。扉を開けっ放しにしないと雪見酒ができなかったから。魔理沙が来、チルノが来て去った時も、扉は常に開いていた。今再びチルノが来たときにも扉は開けっ放しだった。
 この扉は、今日一度として閉められたことがない。
 それは、扉が一度として開けられていないということでもある。
 チルノが開いていない、幻想郷で唯一の扉。
 それが、香霖堂入り口の扉だった。
 呆然と閉まった扉を見るチルノに、霖之助は言う。

「これが、最後の可能性だ。開けるも開けないも君次第だけれど――」

 それだけをさらりと言って、霖之助は再び奥へと戻ってくる。呆然としているチルノの両脇に手を回し、ひょいと持ち上げて立ち上がらせる。
 霖之助は膝立ちになり、チルノと目線を合わせて言う。

「――可能性は、試さなければゼロのままだよ」

 それ以上、言うことはなかった。
 最後に頭をぽん、と撫で、勢いをつけてやる。ゆるい坂道で押された弾のように、チルノはふらふらと扉へと歩く。途中で氷を踏むのも気にしない。
 その後姿を、霖之助はいつもの席に座って見守る。お猪口に酒を注ぎ足し、今年最後の『冬』の行動を見守る。
 本当にふらふらと蛇行しながら、それでも吸い寄せられるように、チルノは扉の前に立った。
 扉に手をかける。
 手をかけて、それ以上は、手は動かなかった。
 この扉の先に何があるのか。
 扉が閉まっている以上、それを知ることはチルノにはできない。知らないものは怖い。怖くて手が動かない。
 怖かった。
 これが最後のチャンスだ、ということはチルノにも分かる。もう希望はないと思っていたが、最後の最後で霖之助が与えてくれたチャンスだ。これは蜘蛛の糸よりもなお細い命綱だ。触れるだけで消えてしまうなごり雪のような可能性だ。
 そして、最後の可能性ということは、これが『最後』だということに他ならない。
 これが失敗すれば。もし扉を開けた先に、淡く降る雪の世界しか、冬が終わりかけている幻想郷しかないとすれば。
 もう、今度こそ本当に希望は残っていないことになる。
 正真正銘の『もうだめだ』だ。そんなことになれば、きっと自分は壊れてしまうとチルノは思う。希望を与えられた分だけ、裏切られてしまえばさっきよりも深い場所へと沈むのだ。
 開けない、という選択肢も、勿論あった。
 けれど、霖之助の言う通り、開けなければ可能性は零なのだ。開けることで初めて零以外になれる。その可能性が0.0000000001だとしても、それは零じゃない。零と零以外の間には、無限に近い差があるのだ。
 悩んだ。
 怖くて、悩んで、どうしようもないほどに逃げ出したかったけど。
 それでも、逃げ出すわけにはいかなかった。
 怖いと泣くのはもう終わった。
 悩んでいるだけでは、世界は変わらない。
 振り絞るほどの勇気は残っていなかった。
 代わりに、全てを捨てる覚悟だけを持って、

 チルノは、扉を開けた。


 ――からん、という音。


 音の消えた先。




 冬の世界がそこにあった。




「――――ッ」

 声は出なかった。涙すら。壊れることもなく、チルノは呆けたように扉の向こうを見つめる。
 扉の向こうでは、雪が降っていた。
 さっきまでのぬるい雪ではない。心も体も凍りつかせるような、冷たく寒い冬の雪だ。人も動物も妖怪も妖精も生かそうとしない、冬のイキモノしか存在できない極寒の世界がそこにあった。
 幻想郷の冬ですら、これほどまでは酷くない。こんな冬は冬だけの世界にしか存在しないだろう。
 チルノは理解する。
 ここが、冬の世界なのだと。
 今、まさに自分の目の前で、冬への扉が繋がったのだと、チルノは理解した。
 諦めなくて本当によかったとチルノは思う。今日の一日は無駄ではなかったのだ。幻想郷中を駆け巡り扉を開けたからこそ、最後の最後にこうして冬への扉が開いたのだ。もし途中で諦めたり、香霖堂に戻ってこなければこの扉は開かなかった。
 良かった。
 無駄ではなかった。これで冬の世界は目の前だ。願いは叶う。冬が永遠に続く世界に行ける。ためらうことはない、足を一歩踏み出すだけで願っていたものがようやく手に入るのだ。

 ――けど。

 その一歩が、動かない。
 わずか一歩。今日歩きまわった距離にくらべれば、ほんの少しでしかない一歩。
 その一歩が、二百由旬よりも遠く感じる。
 零の壁を打ち破って、一歩が踏み出せない。

 ――あたいが願ってたのは。

 顔を伏せ、自分の足を見たままチルノは思う。

 ――本当に願っていたことは。冬の世界に行くことじゃなくて。

「……行かないのかい?」

 後ろから声がかかる。事態をずっと静観していた霖之助の声だ。声には、若干の驚きが含まれていた。霖之助本人も、まさか本当に自分の店の扉が冬の世界に繋がるとは思っていなかったのだろう。

「君の望んでいたとおり、冬への扉が繋がったけれど」
 
 チルノは振り返らない。黙って、俯いたまま、霖之助の言葉を聞く。
 行かないのかい、と霖之助は言った。
 それは純粋な疑問だった。ただの質問だった。冬への扉を捜し続けていたチルノが、捜し求めていたものを手に入れる直前まで来たのに、なぜ手に入れようとしないのか。そのことを心の底から疑問に思っている声だった。
 チルノにも分からない。
 なぜこんなに迷うのか。
 なぜ一歩踏み出せないのか。
 分からない。考えられない。頭が動かない。
 目の前には、冬の世界。

 ――行く。行くしかない。行くんだ。冬の世界へ、冬だけの世界へ、冬が永遠に続く冬の妖怪と妖精の世界に、あたいは行くんだ。

 弱い心にチルノは叱咤を入れる。
 そして、最後まで前を見ずに、足元を見たまま、
 足を、




「――あんた、それで本当にいいの?」




 踏み出しかけた足が止まる。
 声は、霖之助のものではなかった。
 チルノの声でも勿論ない。さっきまで香霖堂の中にいた誰の声でもない、第三者の声。
 その声には、聞き覚えがあった。
 ずっと聞きたかった声だ。そして、ずっと聞いていたかった声だ。その声の主をチルノが忘れるはずはなかった。顔を見なくても、誰の声かはすぐに分かった。
 今、自分の後ろに、レティがいる。
 けれど振り向くことはできなかった。
 振り向いて何を言えばいいのか分からなかった。振り向いてしまえば、扉の向こうはいつもの幻想郷に戻ってしまう気がした。
 レティがなぜここにいるのか分からず、分からないことは怖かった。
 怖くて振り向けない。
 それでも構わずに、レティは話す。その声は、怒っているようにも、呆れているようにも聞こえた。


「そこはずっと冬だけど、私はそこにはいないのよ?」

 ――――。

 思考が止まった。
 レティの言葉は、チルノの心の、一番奥をえぐった。
 それは、さっき、霖之助に吐露した、チルノの本心だった。
 冬を捜していた。冬を捜して幻想郷中を飛び周った。
 それは、冬の続く世界に行きたかったからだ。
 なぜ行きたかったのか。
 冬の続く世界に行けば、レティと、ずっと遊んでいられるから。そう思ったからこそ、チルノは冬への扉を捜し続けたのだ。
 けれども。
 冬への扉を見つけたところで、その先にレティがいないのでは、扉の向こうに行く意味などなにもなかった。

「――レティ」
「本当に自分が欲しいもの。分からないわけじゃないんでしょ?」

 分からないわけじゃない。
 チルノは、もう、ちゃんと分かっていた。
 何が大切なのか。何が欲しかったのか。
 今から自分がどうするべきなのか。
 顔を上げる。チルノは真正面から扉の向こうを見る。そこには冬の世界が続いていた。極寒の、冬が永遠に続く、理想郷のような世界がそこにあった。けれど、どこを見回しても、
 そこにレティの姿はない。レティは扉の向こうではなく、後ろにいるのだ。
 悩むことは、もうなかった。
 後はもう、最後の一歩を踏み出すだけだった。扉の外側へと、ではない。扉の内へと。
 冬が永遠に続かない、この幻想郷へと。
 レティがいるこの世界へと。
 チルノは足を踏み出した。扉の向こうへ、ではない。扉のこちら側へと。踵を返し、冬の世界から目をそむけ、店内を振り向いた。
 そこには、レティがいた。
 霖之助のさらに奥、裏口から店内に入る場所に、壁によりかかってレティが立っていた。ずっと見たかったその姿を見ただけで思わず泣きそうになる。流れそうになった涙を、チルノは必死で堪えた。堪え切れなかった涙が、ひと筋だけ零れ落ちた。
 零れ落ちた涙とともに、チルノは言う。

「……レティが、いなくなるのがイヤだったから。レティがどっかに行っちゃうから。冬がずっと続けば、ずっと一緒にいられると思ったんだもん」

 チルノの言葉に、レティはため息で返す。
 そのため息に、悪意の色はない。むしろ、親しみすら感じさせられた。
 まるで、手間のかかる妹の面倒を見る姉のような、そんな態度だった。

「バカね、あんたは。大馬鹿よ。私が今、ぎりぎりまでここに残ってる理由。わからないわけじゃないでしょうに」

 なんで? と目で問うチルノ。
 レティは壁から身を起こし、まっすぐにチルノを見て、言う。

「……あんたが心配だったからよ」

 小さく、呟くような声。
 レティのその声と共に、香霖堂の中に雪が舞い吹雪く。レティの心を現すように。レティの感情を現すように。レティの想いを現すように。
 寒気の妖怪は、感情を寒さで示す。
 チルノの冷気もまた、一層強くなる。レティの想いに答えて。
 今朝。雪原に一人だけレティがいた。他には誰もいなかった。冬の妖怪も雪の妖精もそこにはいなかった。見渡す限りの雪原の中、いるのはレティただ一人だった。
 なぜいるのか、チルノは考えもしなかった。
 今なら分かる。今なら、なぜあのときレティがあそこにいたのか、チルノにも分かった。
 ――自分のことを心配してくれたからだ。
 冬が終わり、誰もいなくなって。それでもちゃんとやっていけるか心配して、レティは最後の最後まで、ぎりぎりまで残っていてくれたのだ。そして、自分は、その心に気づけなかった。
 気づけないどころか、気づかないままに飛びまわっていた。見当違いの可能性を求めて。本当に大切なものが何かを考えないままに。

「心配で心配すぎてわざわざこんなところまで捜しにきて……私もおせっかいね〜。ほんと、自分のことながら涙が出るわ」
「――レティ」
「何?」
「…………ありがと」

 面と向かって言うのは恥ずかしかったけれど、チルノは言った。言わなければいけないと思ったからだ。
 チルノの言葉を聞いて、レティは笑う。
 それは、今日初めて見た、レティの優しい笑みだった。

「言うのが遅いのよ、バカ」

 香霖堂の中に雪が降る。
 氷精と寒妖怪の雪が、店の中に降り積もる。
 最後の冬の最後の雪が、なごりを惜しむかのように、狭い店の中に吹き荒れる。その中でなお平然としているのはレティとチルノだけだ。店主は隅の方で丸くなり、成り行きを見守っている。
 けれど、彼女たちは知っていた。
 これが最後の雪であることを。
 これで、冬が終わることを。
 もう、後に残るのは別れだけだということを。
 それを永く惜しもうとは、レティもチルノも思わなかった。
 春の陽射しに消え逝く雪のように。
 あっさりと別れようと、言葉を交わさずとも、二人は思った。

「バイバイ。生きてたら冬に会いましょう」

「うん。バイバイ――」

 それだけを言い残して。
 雪の冷たさをもって、レティは去っていった。
 その後ろ姿が消えるまで、チルノはずっとレティを見ていた。姿が消えるとともに、店の中を舞っていた雪の勢いが消え、静かに降り積もった。
 心の中で、こっそりと付け加える。

 ――また、冬に会おうね。

 それだけを思って、チルノも踵を返す。
 振り向いた先には開きっぱなしの香霖堂の扉。その先にはまだ、冬の世界が続いていた。冷たく、人を拒む冬だけの世界。遠い遠い、ここではないどこかの幻想郷。冬が永遠に続く世界。痛いほどに冷たい雪の世界。
 チルノは思う。今だけは、この消えかけた柔らかい雪の方が好きだと。寒いだけの世界よりも、レティが残していった雪の世界が好きだと、チルノは思うのだ。
 チルノは扉を閉める。覚悟も決意もいらなかった。大した力も使わずに、ぱたんと扉を閉める。
 からん、という音と共に、冬の世界は見えなくなった。


 ――さあ、冬までの辛抱だ。冬に再会できることを祈って、春と夏と秋を生きよう。


 チルノが再び扉を開けたとき、外の雪が止んでいた。
 雪の止まり、雲の消えた、いつもの幻想郷がそこにあった。
 もう、冬はどこにも残っていなかった。地面に積もる雪だけが、かすかに今まで冬だったことを示していた。その雪たちも、陽が昇るころには全て溶けて消えるだろう。
 冬が終わり、春が来る。
 そのことを悲しいとは思わなかった。冬はまた来る。またレティと会える。幻想郷で生きてさえいれば。
 チルノは一歩足を踏み出す。冬の世界にではなく、幻想郷へと。
 外に出て、空を見上げる。
 空には月。
 雪に隠れて見えなかった月が、顔を覗かせていた。



        *



 チルノの後ろからその空を見上げて、霖之助は思う。
 雪見酒が、月見酒へ。
 風はかすかに冷たく、けれど寒くはない。

 春はもう、すぐそこまで来ていた――――









          ◆  ◆  ◆




          終 / それからのお話






 そうして冬は終わり、慌しい春が過ぎて、夏が来た。
 初夏の陽射しは暑く、今年も暑い夏になりそうだと誰もが思った。。早くも夏バテでだらけている巫女や、夏の暑さをものともせずに飛びまわる魔法使い、肝試しに行く妖怪など、幻想郷の皆はそれぞれの夏を過ごしていた。
 霖之助も、いつも通りの夏を過ごしている。
 外の熱気も活気も関係ないとばかりに、香霖堂の中に閉じこもって本を読む毎日。夜は静かに月を見ながら酒を呑み、朝と共に店を開く。客が来ることは稀だけれど、それはいつものことだから気にしなかった。
 その代わり、今年の夏は、いつも違う点が一つだけある。
 客以外の常連者が、一人だけ増えたのだ。
 巫女とも魔法使いとも違う、香霖堂に物を買いに来るわけでもない、常連者が。
 その妖精は、朝早く、陽が昇ると同時に香霖堂へとやってくる。完全に陽が昇ってしまうと、暑くて仕方がないからだ。太陽の光から逃げるようにして、日影になっている香霖堂の中へと飛び込んでくる。ノックはせずに、扉を破るようにしてくるから、霖之助は最近では朝は扉を開けっ放しにしている。
 今朝もまた、その妖精は来た。夏の中では珍しい、冷気を伴って。

「た――の――も――っ!」

 賑やかな声。かしましい、という程ではない。夏の暑い日に、川端で遊ぶ少女のような声。若さと幼さと、ほんの少しだけの女を感じさせる、少女の声。声とともに吐かれる息は、周りの温度よりもずっと低い。
 氷精チルノの声だった。
 六枚羽を垂直に立て、勢いよく飛び込んでくる。扉をくぐると同時に勢いを止め、慣性のままに足を前に放り出し、両足を地面につけてブレーキをかけた。ずずず、と勢いを殺しきれずに床に跡がつく。昨日よりまた距離が縮んだな、とその仕草を見て霖之助は冷静に思う。
 飛んできたその道なりにそって、淡い雪が出来ていた。その雪も、すぐに夏の陽射しに溶けて消える。残ったのはチルノ本人だけだ。
 夏の熱気をかき回すように、透明の羽がぱたぱたと動く。そのたびに香霖堂の中にかすかな冷気が巻き起こる。

「いらっしゃい、チルノ」
「うん。いらっしゃったよ!」

 にこやかに答えて、チルノは地面を蹴る。低くゆっくりと飛んで、霖之助のすぐ隣にお尻から着地する。すぐにいつもの靴を脱いで、あらかじめ置いてあったサンダルに履き替える。
 少しだけサイズの大きいサンダルをぶらぶらさせる。素足にこれを履くのがチルノの最近のお気に入りだ。一度サンダルを履いたまま外を飛んだら途中で落としてしまったので、それ以来香霖堂の中でしか履いていない。

「今日も暑いねー」
「僕は君のおかげで大分涼しいけれどね」
「あたいにはまだまだ暑いよ! もっと涼しくならないよ。あ〜あ、早く冬にならないかなぁ」

 不満げに言って、足を思い切り蹴り上げるチルノ。その反動でころんと後ろに倒れ、板間に軽く頭を打つ。コン、と軽い音が鳴った。中身が入っていないからかもしれない。
 そのまま両手をぱたんと広げ、チルノは起き上がらない。
 冷えた床が少しだけ気持ちいい。

「床を壊さないようにね」

 視線を向ける。斜め上にある霖之助の顔を、チルノは下から覗く。ヒゲが生えているかなと思ったら綺麗なものだった。朝一で剃っているのか、それとも生えてこないのか。そんなことをチルノはぼんやりと考える。
 霖之助はチルノを見ていない。黙々と、手元にある本に視線を走らせている。チルノからすれば信じられない速度で――もっとも、チルノはほとんど本など読まないけれど――頁がめくられていく。
 いつもこうだった。
 梅雨が終わり、夏が始まってから、チルノは毎日香霖堂に来ている。その間一日として、霖之助の生活習慣は変わらなかった。
 つまり、一日中ただひたすらに本を読む。
 外の喧騒も暑さも関係なく、黙々と読む。飯を食べるときと客が来たとき以外はずっとそうだ。飯は食べ忘れるし客は滅多に来ないから、結局はほとんど本を読むのに時間を使っている。たまに魔理沙や霊夢が来たときは、迎え入れることもせずに本を読んでいた。紅白も黒白もそれに慣れているのか特に何も言ってはいなかった。むしろ、チルノがそこにいることに驚いていた。

 ――どうしてあんたここにいるの。
 ――おまえここで何してんだ?

 そう聞かれるたびに、チルノはこう答えてる。

 ――お代を払ってるのよ!

 あんたらと違ってね、と付け加えたらぼこぼこにされたので、それ以来余計なことは言っていない。

「頭のことは心配しないの〜?」
「それくらいで壊れるような頭じゃないだろう」
「そーよーあたいの頭は最強なのよ〜」

 とはいえ、チルノが話しかければ霖之助は相手をしてくれる。興が乗れば色々な薀蓄を話してくれる。その大半は聞いても分からないことだったけれど、それでもチルノにとっては楽しいことだった。普段聞かないこと、普段知らないことを色々と教えてくれるからだ。一番好きなのは外での弾幕ごっこだけれど、暑い夏の日はこういうのも悪くないとチルノは思っている。
 もともとは、お代として半ば義務感で始めたようなものだったのに。
 冬のあの日、冬へと繋がる扉の話。全てが終わったあと、
『あれは情報を売ったんだ』
 と霖之助は言った。つまりあれはタダではなく、取り引きの一環である、と霖之助は主張した。もちろんチルノはゴネた。払えるようなモノは持っていない、と。
 そんなモノは無効だ、と言わなかったのは、本当に扉が冬へと繋がったからだ。
 それを聞いて霖之助は、さらりと当然のように言った。
『身体で払えばいいじゃないか』と。
 どういう意味? と訪ね返すチルノに、霖之助はいつもの調子で長々と説明した。曰く、君は氷の妖精である。氷を作り出すことができるし、体からは常に冷気が放たれている。それは冬に限らず、春だろうが秋だろうが夏だろうが変わることはない。すなわち、君は天然の冷房機である。
 夏の間だけでも香霖堂にいてくれたらとても助かる。
 チルノは、二つ返事で承諾した。
 霖之助にまったく恩を感じていないわけでもなかったし、首を絞めた上に泣きついたという負い目もあった。それを返せる機会があるなら断る理由もない。香霖堂に夏の間いるだけ、というのなら別に大変なことでもない。
 そうして、この夏の間。
 チルノは、ほぼ一日中香霖堂で過ごしている。

「今日も暑いー?」
「僕は涼しい」
「あたいは暑いー」

 いつも通りの、何気ない会話。
 いつも通りの、のんびりとした時間。
 そして、もうひとつだけ、チルノが習慣にしていることがあった。

「よっ」

 小さな掛け声と共に、チルノは上体を起こす。その勢いのまま立ち上がり、飛ぶことはせずに、歩いて扉へと向かう。
 その後ろ姿を、霖之助は本から視線を移して見守る。
 かける言葉はない。
 チルノはふらつくことなく開いた扉の前へとたどり着き、開きっぱなしの扉を一度閉める。
 一度だけ深呼吸。
 取っ手を握る力を込めて、ゆっくりと、扉を開く。
 からん、という音。
 扉の向こうには――

 ――いつもの幻想郷が広がっていた。

 扉の向こうにあるのは、陽射しが照り注ぐ夏の幻想郷だった。
 永い冬が続く世界は、そこにはなかった。
 いつもと変わらない、チルノや霖之助が、そしてレティが生きる幻想郷がそこにあった。

「――うん」

 小さく頷くチルノ。そして振り向く。その顔に悲しみはなく、明るくもなく、どこか優しい笑顔しかなかった。
 その笑顔を見て、霖之助は再び本に視線を戻す。
 いつもの香霖堂が戻ってくる。


 ――あの冬が終わった日以来、幻想郷のどこを捜しても、レティの姿は見えなかった。


 そしてチルノは、冬が終わってもレティを捜そうとはしなかった。冬が終わり、春が過ぎ、夏が来ても、いつも通りに楽しく生きている。ただし、チルノは、毎日朝の始まりに香霖堂に来ては、入り口の扉を試そうとして仕方がない。彼女はいつまでも、香霖堂の扉を試せば、ひょっとしたらもう一度だけ冬へ通じるかもしれないという疑惑を、捨てようとはしないのだ。
 扉を開けたその先に、もう一度冬の世界があると信じるかのように。
 扉を開けたその先に、微笑むレティがいると信じるかのように。
 もし本当に繋がったところで、チルノは向こうへは行かないだろう。あんな奇跡が何度も起こらないことはチルノにもわかっているし、彼女はもう、本当に大切なものを手に入れている。
 それでもチルノは、どんなに繰り返そうとも、冬への扉を捜すのを、決して諦めようとはしないのだ。まるで儀式のように、開いた扉の先にいつもどおりの幻想郷が広がっているのを見て安堵するのを、毎日のように繰り返している。
 そしてもちろん、霖之助はチルノを優しく見守っている。












                                              (終わらない。季節は巡る)



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後書きと共に。 『 暇つぶしと宝物 』

 冬が終わり、春が来るその瞬間を、八雲 紫はマヨイガの縁側に座って見ていた。
 右隣には橙が、左隣には藍が座っている。
 三人で何もせずにのんびりと、ではない。その手には、珍しいものがあった。
 器に注がれたカキ氷だ。
「……紫様、いくらなんでもこの時期にこれは……あた、ツーンて、頭が――」
「あらあら。この時期だからいいんじゃない。幻想郷で一番最初のカキ氷よ」
 手にもった器をかざしてみる。月の光を浴びて氷は美しく輝いていた。
「それにこれは、『本当の氷』で作られたかき氷よ。わざわざ北極まで取りに行ったんだから」
「……また突発的な思いつきでとんでもないことをなさったんですね」
「人助けのついでに、よ。妖精助けだったかもしれないけれど……まあ、美味しいからいいじゃない」
 言って、紫はカキ氷を一口すする。

 カキ氷は、冷たく、冬の味がした。

                                 BGM:クリスタライズシルバー END
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。



◆あとがき◆



 ……長々とした、本当に長いお話を最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。
四作目、そろそろ数えなくていいかなとか思い始めましたが、季節の変わるお話でした。
レティの話なのかチルノの話なのか香霖の話なのか魔理沙の話なのか、悩むところです。
誰が一番賢かったかといえば、それは八雲 紫なのでしょうけど。
賢くなくてもチルノは幸せなので、Hだと言われても、きっとチルノは変わらない思います。怒るだろうけど。
気にいっていただければ幸い。
(二度三度推敲してますが、間違いなく誤字が残ってるような気もします。残っていたらお叱りの言葉と共に教えていただけると幸い。泣きそう。)


最後に謝辞を。
前回、スターサファイア単体というSSを読んで点数や感想を下さった皆様方、本当にありがとうございました。
正直三月精モノは不安だったので嬉しい限りです。
そして、今回話を書くにあたって、アイデア元になったMさん、書き進める活力元になったルナストさんとショタザナさん、そして、進行状況を生暖かい半目でにやにやと見守ってくれた自慰の皆様。本当にありがとうございました。

書き続けられるのは貴方方のおかげです。
では。



最後に一つだけ。
ネタ元はもちろん、タイトルから分かるとおり、某少女と猫好きのためのSFです。大好き。




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