1 常夜順夜
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 東の空へと陽が沈む。
 人の子らは眠りにつく。
 西の空から月が昇る。
 妖の子らがおき始める。



 幻想郷に、夜が訪れる。



 ――二十時。



 珍しく紅い悪魔が早起きした。身を起こすと同時に、いつの間にか傍にいたメイドの長が召し物を変える。
 緩慢な動作で悪魔は椅子に座り、窓の外を見る。
 窓枠が月の光を浴びて、長机に逆十字架の影を作った。
 満月にはほど遠く。
 新月にもほど遠い。
 ぱかりと割れてしまったかのような半月だ。
 ――こんな月には、甘いワインがよく合う。
 悪魔はそう思い、その心を読んだかのように、メイドの長はワイングラスに紅い液体を注ぐ。
 甘いワインならば白ワインの方が多いのだけれども――あいにくと幻想郷でさえ、白い血を持つものはほとんどいない。
 グラスを傾け、悪魔は微笑み、
「おはよう咲夜――良い朝ね」
 はい、とメイドの長は一礼し、その姿が影に消える。
 紅魔館の一日が始まったのだ。
 やるべきことは、山のようにある。
 慌しさなど何処にもなく、瀟洒に消えたメイドの影をレミリアは追わない。
 世は全てこともなし――そんな雰囲気で、空にかかる月を見ていた。
 半月は、ゆっくりと昇っていく。



 ――二十二時。



 氷精は夜が好きだ。
 より正確に言えば、夜の涼しさが好きだ。
 そしてそれ以外にも、夜が好きな理由はいくつもあった。太陽よりも穏やかな月が好きだった。静まりかえった暗い湖が、湖に映る月と星が、きりりと張り詰めた空気が、広々とした雰囲気が、夜が持つ優しさが、氷精は好きだった。
 湖の上を、氷精は滑るように飛んでいく。
 くるりと反転。青く透き通った羽の先が微かに水面に触れ、四本の長い長い線が水の上に引かれる。
 線は円になり、円は波紋となって消えていく。
 もう一度、くるりと回転。羽が水をすくって跳ねる。水滴が飛び魚のように宙を泳ぎ、水の中へと戻っていく。
 小さな小さな水の王冠が出来る。
 水面ぎりぎりを氷精は飛ぶ。巨きな湖の上を、大きな円を描くようにして。右手の指先、人差し指と中指だけを水面に触れる。指先で水をかき回す。線が円になり、円が波紋になる。
 水に触れた指先が、冷たくて心地良い。
 暗い湖は吸い込まれそうで、少しだけ怖くて、とても綺麗。
 水面から手を離す。ぐい、と上体を起こし、空気を蹴るようにして氷精は飛ぶ。
 上へ。
 ――月へと。
 月を目指して、湖を後にして、氷精は飛ぶ。どこまでも、どこまでも。高く遠く遥か彼方へと。
 けれど、どんなに飛んでも、月には追いつかない。
 月は逃げることもなく、触れることもなく。
 ただそこにいるだけだ。
 氷精は笑い――笑って、羽の力を抜いた。
 浮力を失い、重力に愛されて氷精は落ちていく。
 地面へ、ではない。
 湖へと。
 落下の法則にしたがって、頭が下に来る。湖が迫ってくる。スカートの端がパラシュートみたいに広がり、すぐに手で押さえる。
 ぐんぐんと、速度が上がる。
 氷精の視界の中。
 湖が近づいてくる。
 黒い湖面に映った月が、すぐそこにある。
 氷精は月を掴むかのように手を伸ばし、
 ――あ。届く。
 そう思った瞬間、湖の中へと飛び込んだ。
 大きな大きな水の冠が出来る。
 水月が、ゆらりと揺れて、形を崩した。
 頭上の月は、変わらずそこにある。



 ――二十四時。



 巣から出てきた兎を夜雀が食べた。
 これは共食いなのかなぁ、と考えてみた。
 考えても分からなかったので、夜雀は歌ってみた。
 良い夜は唄わないと損だ。
 悪い夜は唄わないといけない。
 普通の夜は、普通に唄おう。
 今日の夜は普通の夜だ。お腹も膨れた。空は半月。雲はない。
 木の枝に横になって、夜雀はうたた寝する。
 枝から落ちるまで、あと何分?



 ――二時。



 黒猫がふらりと遊びに出かける。
 猫にとって夜は友達だ。黒い闇に黒い毛皮を溶け込ませ、こっそりと遊びにでかける。
 瞳だけが、闇夜の中で光ってる。
 もっとも、その黒猫は、紅い服を着ているせいで、やたらと目立っていたけれど。
 主は昼夜問わずに働いている。
 主の主は昼夜問わずに寝ている。
 というわけで、彼女の遊びは大抵が一人だ。
 尻尾を振りながら、幻想郷を駆け回る。
 今日の獲物は鴉だった。
 やっぱり昼夜問わずに、幻想郷という幻想郷を跳びまわっている鴉天狗。それが黒猫の獲物だった。
 跳びまわっているものを見ると、尻尾の付け根あたりがうずうずするのだ。それは黒猫の本能なので止められない。
 追いつけないと分かっていても、追いかけずにはいられない。
 猫は鴉を追いかけ、鴉はからかうように逃げ回る。
 ――そして、気付けば。
 いつの間にか、鴉はいなくなっていて。
 いつの間にか、黒猫は、まったく知らない場所に来ていた。
 ナワバリの外に出てしまった黒猫は帰れない。
 ベソをかきそうになった瞬間、後ろからぽかりと叩かれた。
 振り返って見上げれば、ちょっと怒った顔をした主の姿。
 顔とは裏腹に、不安げにへにゃりと垂れた九尾の尾。
 黒猫は、迷わずにその身体に飛びついて抱きついた。
 狐はちょっとだけ驚いて、それから優しく笑って、黒猫の頭を今度は撫でてやった。
 大抵の場合、黒猫は一人で遊びにでかける。
 そして、大抵の場合、黒猫の帰りは一人ではない。
 猫と狐が、手を繋いで楽しそうに歩いている。



 ――四時。



 香霖堂には光が宿っている。
 朝が早いのではない。夜が遅すぎるのだ。この時間になってなお、店主は寝ようとしない。
 それどころか、寝る必要がないとでも言いたげに、あくび一つせずに本を読んでいた。
 頁をめくるついでに、眼鏡の位置を直す。蝋燭の炎が眼鏡に反射した。
 店の中は薄暗い。窓から微かに入ってくる月光と、蝋燭の灯火が全てだ。
 その中においてなお、普通の魔法使いの金髪は目立つ。
 まるで、星の光を集めたかのような黄金。
 その髪が、香霖堂の床に広がっている。
 天の川のように。
「――寝たのかい」
 店主の言葉に、魔法使いは寝息で答えた。
 つい先ほどまで起きていたはずなのだ。
 夜中にふらりとやってきて、持ってきた酒で晩酌していた。
 先までは、起きていたはずなのだ。
 店主がちらりと眼をやると、一升瓶が空になっていた。成る程、夜も遅く、あれだけ飲めば眠るはずだ。そう納得してしまう。
 頁をめくる。が、本の内容に集中できない。
 ひとつ嘆息し、本を置き、店主は立ち上がる。襖をあけ、薄い毛布を一枚出して、魔法使いにかけてやった。
 規則的な寝息が、さらに穏やかなものになる。
 まるで、穏やかに時間が過ぎる、この店のように。
 毛布からこぼれる金の髪。まるで星の妖精みたいだ、と店主は思う。
 元の席に戻り、本を再び読み始める。
 今度は、文字が、頭の中に染み込んでくる。
 静かな時間が、ゆっくりと過ぎていく。



 ――六時。



 ゆっくりと夜が降りていく。
 長かった夜の時間が、穏やかに終わっていく。西から昇った半月が、今は、東の空にある。
 東の山間へと、沈もうとしている。
 古くからある大木、太い枝の上に、三精が座っている。
 月と、星と、陽の妖精だ。
 三人はバラバラに座り、ばらばらの方を見ている。
 星の妖精は、仰向けになり、空を眺めている。空に浮かぶ星を見つめている。
 月の妖精は、名残惜しげな顔で、東の空を見ている。
 沈みゆく半月を見ている。
 陽の妖精は、西の空を見ている。
 昇りつつある、太陽を見つめている。
 月が沈み。
 星が消え。
 太陽が顔を覗かせる。
 幻想郷に、朝が訪れる。
 それは人の時間だ。雄鶏が朝を告げるように鳴く。
 男たちが田んぼへと向かう。
 女たちが包丁を手に取る。
 子供たちは眠っている。
 人の世界が動き始める。
 三月精は、それらを見ない。
 星の精は、朝焼けにそまる空を見ている。
 月の精は、消えてしまった月を幻視する。
 陽の精は、昇りつつある太陽を見ている。
 斜陽に幻想郷が紅く染まる。朝霧に光が反射して、世界が輝く。
 草木が顔をあげる。朝の到来を喜んで唄い始める。
 朝の匂いを孕んだ風が吹く。幻想郷の端から中央へ、中央から端へと風が吹き抜ける。
 夜が明け、幻想郷に朝が訪れる。
 一日は繰り返さない。
 何の変わり映えもしない――新しい世界がそこにある。
 新しい朝が訪れる。



 美しい世界が、そこにある。











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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。



◆あとがき◆





 影送りをした。空へと昇る影を不思議に思った。
 秘密基地を作った。森の奥には誰かがいる気がした。
 知らない道を歩いた。どこまでも続いている気がした。
 昇ってくる朝日を大きいと思った。
 沈んでいく夕陽を見て、空を飛ぶ鴉を見て、家に帰ろうと思った。


 忘れてしまった子供の頃の思い出。
 思い出すことのできない心の動き。


 きっと、感情すらも幻想になるのだと、感動すらも幻想になるのだと、誰が言った。









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