1 | 霧雨 魔理沙は此処にいる。 |
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00 | 魔法の森の中を、魔理沙と二人で歩く。 じぃ、じぃ。 遠くで蝉が鳴いている。魔法の森の中なのか、それとも外からなのか。あまりにも蝉の鳴き声が儚すぎて判別がつかなかった。ただ、四方より八方より聞こえてくる蝉の声を聞いていると、彼らはどこにでもいて、どこにもいないようにすら思えた。 じぃ、じぃ。 蝉の鳴き声を煩いとは思わない。むしろ、その喧しさを寂しいと思ってしまうのは、彼らとの別れが近づいているからなのだろう。蝉は死に、蝉は絶え、夏は終わり、秋が来る。冬を越えて春が終われば、また夏は来る――けれども、そこに今年の蝉はいない。見たこともない、新しい蝉がいるだけだ。 一年限りの命。 その場限りの――人生。 まるで、人間の人生のように――短すぎる、蝉の命。その全てを燃やしつくすように、夏の終わりを悲しむように、蝉たちは鳴き続ける。 蝉たちの大合唱が、魔理沙と、アリスの耳に届いた。 「魔理沙、あった?」 「ありそうだぜ」 アリスの問いに魔理沙は簡潔に答えた。二人が探しているのは魔法に使うキノコで――そう珍しくもない、魔法の森を三十分も探索すれば見つかるようなものだった。量が必要なので人手がいるが、一度繁殖群が見つかれば集めるのは容易い。 そう珍しいことでもない。 いつも通りの、日常だ。 いつもと変わらぬ、日常だ。 変わらないからこそ――日常なのだ。 じぃ、じぃ。 夏の日常を演出するかのように蝉たちは鳴き続ける。蝉の鳴かない夏は夏ではない。雪の降らない冬がないように、桜の咲かない春がないように。蝉が鳴かない夏など、ありはしないのだ。彼らは夏のために鳴き続ける。 喜んでいるように。 悲しんでいるように。 じぃ、じぃと――鳴き続ける。 蝉の声に囲まれながら、魔理沙とアリスはキノコを探し続ける。 二人で並んで魔法の森を歩く。 魔理沙の横にはアリスがいる。昨日と同じように。明日と同じように。 アリスの横には魔理沙がいる。昨日と同じように。明日と同じように。 二人で並んで――魔法の森を歩く。 じぃ、じぃ、と。 遠くで、近くで、音がする。歩けど歩けど、付かず離れず、音は付いてくる。 歩くたびに微かに波打つ金の髪が揺れる。長い二人の髪が空中で触れそうになっては離れていく。 金色の髪を持つ、二人の魔法使い。 霧雨 魔理沙は此処にいる。 アリス・マーガトロイドの側にいる。 アリス・マーガトロイドは此処にいる。 霧雨 魔理沙の側にいる。 じぃ、じぃ。 蝉の鳴き声を聞きながら、少女は思うのだ。 ああ――――――――――――幸せだ、と。 満たされたように、魔法使いの少女は、笑っている―― † † † 事の始まりがいつだったのか、アリスは思い出すことができない。そもそも、何が原因か、ということは大抵の場合終わってからでしか気付けないし――終わったときには、もうどうしようもないほどに『お終い』を迎えていて、思い返すことなどできないのだ。 原因の探求など、他人にとってしか意味はない。 本人にとっては――何の、意味もない。他の者が、あとから理由をつけて納得するためだけに存在するのだから。当事者からすればそんなもの、埋没していく日常の一コマにしか過ぎない。流れるように、流されるように過ぎていく日々の一欠片にしか、過ぎない。 だからこれは、記録にも記憶にも残っていない、忘れられた情景の一つだ。 「巧いもんだなー」 アリスの細い指先を見つめながら、魔理沙は感嘆したように言った。口を半開きにして眼を丸くしているから、『ように』ではなく、本当に心の底から感嘆しているのだろう。放っておけば拍手さえしてしまいそうな有様だった。 アリスとしては、こんな、日常レベルの行為を見て褒められても、妙に気恥かしいだけなのだが。 ――ま、大道芸と言われるよりはマシかしら。 そう割り切って、ぐい、と右手薬指を引く。糸と魔力に操られた一体の人形が、宙をふわふわと浮いてベッドに座る魔理沙にコーヒーカップを届けた。 「ありがとさん」 人形に向かってそう言って、魔理沙はコーヒーに口をつけた。ミルクを少し、砂糖を三つ。かなり甘めのコーヒーを音もなくすすって、小さく「ん、美味いぜ」と魔理沙は呟いた。 「お褒めに預かり光栄です――とでも答えるべきかしら?」 「コーヒーを淹れてくれた人形を褒めたんだぜ」 「その人形を操ってるのは私よ」 言って、アリスは薬指を戻した。魔理沙の前に浮いていた人形がふわふわと戻り、タンスの上にずらりと並んだ人形たちに加わる。先までの軽やかな動きが嘘のように、まるでただの人形のように、動かなくなった。 とてもではないが――先ほどまで、人間のように動き、コーヒーを淹れた人形と同じものとは思えなかった。 コーヒーの豆をすり、お湯を沸かし、コーヒーを淹れ、魔理沙の元に運ぶ――その一連の作業をこなしたのは、魔理沙でもアリスでもなく、身長が30センチにも満たない小さな人形たちだった。キノコとりを終えた魔理沙に対して、アリスが「コーヒーでもどう」と誘ってから、ほとんど時間がかかっていない。手際もよく、味も良い。 一家に一人は欲しい人材だ、と魔理沙は思う。 「中の人はどんな奴だ?」 おちょくるようにそう言うと、アリスはキノコをバスケットから収納棚の中へと移しながら、 「綿と絹と魔法の粉と――」 「と?」 「人の髪の毛」 「ぶふぇっ!?」 女の子とはとうてい思えないような悲鳴をあげた。いや、悲鳴だけならまだいい。それに加えて、魔理沙は口に含んだばかりのコーヒーを盛大に吹き出した。量がそんなになかったから大惨事は免れたものの、ほぼ水平に液体が噴出される光景は見事の一言だった。 呆れたような顔をして、アリスは薬指をくいと動かした。 「きったないわね。冗談に決まってるじゃない」 声に命じられたように――今度は別の人形たちが動き出した。一体の人形が小さなバケツに水を汲み、二体の人形が布を持ってくる。手早い動きで魔理沙が汚したフローリングを拭っていく。その様子をやっぱり感心したように見つめる魔理沙と、その魔理沙を呆れたように見るアリス。その間にもアリスの手は細かく動き、人形たちは静かに使命を果たしていった。 手で動かしているわけではない。 手から伸びる糸を使う魔力で動かしている。 どちらにせよ人の手で動かしているには違いなく、一見椅子に座って優雅そうに見えるアリスも、その内実は目まぐるしく忙しいものなのだ。水面下を見せない白鳥――そういう例えが、彼女には相応しいのかもしれない。 「人の髪の毛なんて、普通の人形には入ってないわよ」 「そーかそーか」 安心したように魔理沙は頷いて、 「……普通の人形には?」 「そう」 「…………普通じゃない人形には?」 「もちろん入ってるわよ」 ほら、とアリスは人差し指で戸棚を指した。指しただけにも関わらず――魔理沙の見る前で、戸棚の扉がすっと開き、中から人形が出てきた。人形が、自身で扉を開けたらしい。 出てきた人形は、藁人形だった。 とどめとばかりに、五寸釘が刺さっていた。 「………………」 沈黙する魔理沙に、アリスは淡々と言う。 「中開いて見てみる?」 何気なく言われた言葉の意味を――人形をかっさばいて髪を抜き出すところを――想像して、魔理沙は慌てて首を横に振った。ぶんぶん、と横にたなびく金の髪を見て、アリスはどことなく残念そうに「そう」と呟いた。本当はやりたかったのかもしれない。 出てきたときと同じように、藁人形は自分で扉を閉めて棚の中に戻った。 「……ちなみに聞くけどさ」 「何よ」 「あの中、何体入ってるんだ?」 魔理沙の問いに、アリスは数を数えるかのように沈黙して、 「いやいやいや言わなくていい言わなくていいぜ!」 「そう? せっかく数えてみたのに」 「数えなきゃいけないほどあるのかよ……」 がっくり、と肩を落として魔理沙はコーヒーに口をつけた。先ほど噴出したせいで多少量は減っているものの、まだカップの中には半分ほどコーヒーが残っていた。白と黒がほどよく混ざり合った温いコーヒー。両手で丁寧にかかえ、魔理沙はそっと喉を蠢かす。 アリスも、同じように――コーヒーを飲む。紅い唇をそっとカップの縁につけ、小鳥が鳴くようにコーヒーをすする。 わずかに、沈黙。 かすかな水音と吐息が漂うだけで、人形たちは静寂を保っていた。 部屋の中に飾られている人形たちは何も言わない。作り物の眼球は視線を彷徨わせることをせず、宙の一点に固定されている。物言わぬ、考えることもしない、人形としての人形。上海人形、蓬莱人形、仏蘭西人形、露西亜人形――会話が止まっている間、それらの人形を魔理沙は流し見る。 ただの人形にしか見えない。だというのに、いざ弾幕遊びになれば、人形たちはまるで生を得たかのように自由奔放に弾幕を放つ。それらの行動は全て、アリスの手によって操られているのだ。たとえ上海人形と楽しそうに喋るアリスがいたとしても、それはあくまでも『おままごと』に過ぎない。人形を操るのはどんなに面倒でもアリス一人であり、人形たちは手足に過ぎないのだ。 「……なんでそんな面倒なことしてるんだ?」 ふと思い立って魔理沙は問うた。アリスの器用さは永夜の事件でコンビを組む前からよく知っている。多彩な人形を操るアリスならば、人形を操る人形を作ることくらい簡単だと思ったのだ。 そのことを伝えると、アリスはふん、と鼻をならして、 「人形を作る人形ならちゃんといるわよ」 ときっぱり告げた。 明確な断言に魔理沙が二の句を継げずにいると、アリスは気恥ずかしそうに頬を掻いた。 「いるにはいるのよ、人形を操る人形は。――ほら、見せてあげる」 そう言って、アリスはくい、と小指を動かした。戸棚の上に乗っていた人形が二体、するすると降りてくる。魔理沙の見ている前で二体の人形は立ち止まり、空中でぺこりとお辞儀をした。 「これはこれはどうも丁寧に」 おどけるように言って魔理沙も頭をさげた。その魔理沙の頭を、片方の人形がぽん、ぽんと叩いた。頭をはたかれて、むっとした顔で魔理沙が顔をあげると人形は慌てて飛びのいた。飛びのき、そのまま机の裏に身を隠して顔を覗かせる。脅えたかのように、ぷるぷると震えながら魔理沙を見ていた。 その間、アリスは指先一本動かしていない。 動いていたのは――二体のうちの、もう一体の人形だ。全身を大きく動かしていた人形の指からは、もう片方、机の裏に隠れた人形へと糸が伸びている。 そのことに気付いた魔理沙が「あ、」と口を開けた。 「人形が――人形を動かしてるのか?」 「そういうこと」 アリスは頷き、頷いてから陰鬱そうにため息を吐いた。顔を伏せ、疲れたように言葉を吐き出す。 「でも、駄目ね」 「……何が?」 「面倒であるには変わりがないってこと」 くい、とアリスが指を引き戻す。その指から繋がっている魔法の糸を魔理沙は眼を凝らして追った。糸は、真っ直ぐに――人形へと伸びている。 人形を動かす、人形へと伸びている。 アリスの動きで人形を動かす人形が動き、人形を動かす人形によって、人形が動く。 それは、ようするに。 「結局は全部手動ってことか」 「そういうことね」 「そりゃ面倒だぜ。ただの中継役かあ」 「そういうこと。どういうことだって、楽してずるして――ってわけにはいかないものよ」 再度アリスが指先を動かすと、二体の人形はそろってお辞儀をして棚へと戻った。 即興の小さな人形劇に、魔理沙はぱち、ぱちと拍手を送った。 人形を操ることを止めたおかげで空いた手で、アリスはコーヒーカップをつかんで残りを一気に飲み干した。底の方にわずかに残っていたコーヒーが喉を嚥下していく。ごくり、と一度大きく喉を鳴らして、空になったコップを机に置いた。 小さくひと息深呼吸。呼吸と心を整えて、アリスは魔理沙に言う。 「実際には魔力で操ってるからもうちょっと楽だけど……でも、これは他の人には内緒よ、魔理沙」 「……? そうなのか?」 「そうよ。操作は面倒で大変なんですー、なんて弱点みたいなの、他人に言えるわけがないじゃない。これは魔理沙、」 アリスはちょっとだけ言葉を溜めて、言う。 「貴方だから、教えたのよ」 ほんの少しだけ頬を赤く染めて、気恥ずかしそうに言った言葉。 それをどう受け取ったのか――霧雨 魔理沙は僅かに視線を逸らして、ぽつりと漏らすように、 「――それは光栄だぜ」 とだけ答えた。そのまま黙り込み、残ったコーヒーを一気にすする。ずずずずず、という音だけが、沈黙の落ちた室内に響いた。 コーヒーを呑み終えた後に待っていたのは、完全な静寂だ。 アリスは何も言わないし、 魔理沙も何も言わない。 どことなく気恥ずかしい雰囲気のまま、互いに眼を合わせようとしない。眼を合わせれば、口を開いてしまえば、何か互いの関係を大きく動かしてしまうような決定的な一言を言ってしまいそうで、何をすることもできない。しん、とした静寂だけが場を支配している。 人形たちは、何も言わず。 人形たちは、何も聞かず。 人形たちは、何も考えずに――その静寂の中、音を立てることなく存在している。人形たちが音を吸い取っているかのような静けさだった。 静寂に息が詰まりそうになる。 陸の魚のように、溺れそうになる。 「……あのさ、」 先に口を開いたのは、アリスだった。ぎゅ、とスカートの裾をつかみ、魔理沙をかすかに見ようとして、 見ることができずに視線をそらし、人形たちを見ながらアリスは言う。 「……他にもあるのよ? できないこと。完全自律稼動の人形以外にも」 「……へえ」 魔理沙が、何気なく――何気ないように、答えた。それだけで、先まで存在していたどこか気恥ずかしい雰囲気は霧散してしまった。あとに残るのはいつもの二人の雰囲気だけだ。それを殊更強めるように、アリスは「そうよ」と力強く繋げた。 「例えば……そうね、人形を作る人形も、私は作らないわ」 「へえ。どうして?」 「別に作れないわけじゃないのよ? ただ、そんなものを作ってしまえば――人形の遣い手で私のいる意味がなくなるでしょ。吸血鬼が人間を滅ぼさないのと一緒よ」 「…………?」 アリスの比喩がわかりにくかったのか、それとも最初から考えるつもりがないのか魔理沙が首を傾げた。アリスは「もう」と呟いて腕を組み、魔理沙の顔を見つめて話を続ける。 「人間を滅ぼしてしまえば、血を吸えなくなる。そうなったら吸血鬼たちは存在意義をなくしてしまう。だから、人間を滅ぼすことはしない」 「ああ、そういうことか。回りくどいぜ……つまり人形を操らない人形遣いにいる意味はないってことだな?」 「そういうこと。私、要らない子になりたくないもの。人形に命を吹き込む仕事は、あくまで私のもの」 そういうわけで、別に作れないわけじゃないのよ――アリスはそう話を結んだ。 話しすぎた、と自分でも思ったのだろうか。話を区切るように、アリスは席を立った。魔理沙の側まで歩き、空っぽになったカップを回収する。 二人分のカップを持って流しへと向かうアリス。 その背中に、魔理沙は言葉を投げる。 「ふうん。アリスなら、それくらい楽々とやってのけそうだけどな」 それは。 その言葉は――きっと。 とくに何の意味もない、何の意味を持たせようともしない、何気のない一言だったのだろう。会話を終わらせるための、何気ない一言だったのだろう。霧雨 魔理沙は、意図など何もしなかったに違いないのだ。 それでも。 それでも――受け手は、別だ。 話し手の思いとは関係なく、受け手に届く言葉はある。 魔理沙のその一言は、背中越しに、アリスの心に突き刺さるには十分だった。 「そう」 そっけないように答えて、アリスは流し台へと向かう。 ――良かった、と思う。 流しへと向かっていてよかった。背中を向けていてよかった。今の表情を、魔理沙に見られることがなくて良かった――アリス・マーガトロイドは心の底からそう思った。 † † † その日はそれでおしまいだった。けれど、全てが終わったのも、やはりその日が始まりだったのだろう。 意味がないと判っていても――『もしも』と考えるならば。 もしも、この日アリスと魔理沙が会わなければ もしも、この日魔理沙が人形について興味を持たなければ。 もしも、この日アリスが人形について深く語らなければ。 もしも、この日アリスと魔理沙が、素直に互いの感情を話し合って――関係が変わっていたのならば。 こんなことには、ならなかったのだろう。 けれども『もしも』という仮定は何の意味もなさない。魔理沙が人形について聞いてしまったし、アリスは人形について語ってしまった。その結果出来てしまったものは、もはや取り返しがつくことではないのだ。 そう。 出来てしまったのだ。 アリス・マーガトロイドは――――――――――――――――――人形を、創り上げた。 † † † そしてアリスは、魔法の森を魔理沙と歩いている。 キノコを探しながら、夏の暑い森の中を、二人で歩いている。 じぃ、じぃ、と音が聞こえる。蝉たちの悲鳴のような。誰かの悲鳴のような、遠く近い鳴き声が。 アリスの隣には魔理沙がいる。 魔理沙の隣にはアリスがいる。 昨日と同じように。 昨日と同じように。 昨日と同じように。 二人並んで、夏の森を歩く。 じぃ、じぃ。 蝉の鳴き声だけが、彼女たちを見ている。 部屋の中と違って――人形たちはいない。 人形たちは見ていない。アリスは魔理沙しか見ておらず、魔理沙はアリスしか見ていない。 視界に映るのは、二人の姿だけだ。 じぃ、じぃ、と蝉が鳴く。 丁寧に、魔法のキノコを集める魔理沙を見ながら、アリスは思うのだ。 私は幸せだ、と。 その言葉に嘘はない。 その思いに嘘はない。 アリス・マーガトロイドは幸せなのだ。 望みどおりに。 心の奥底にある望みどおりに、霧雨 魔理沙と共に時間を過ごしているのだから。 その望みは嘘ではない。疑いすらしない。疑うわけがない。 疑っていいわけがない。 それは――アリス・マーガトロイドの、望みなのだから。 それを疑ってしまえば、そう、いつの日か誰かが言ったように―― 「存在意義がなくなってしまう」 じぃ、と蝉が鳴いた。 ん? と魔理沙が顔をあげた。キノコを取るために曲げていた身体を起こし、正面からアリスを見据える。 「何か言ったか?」 「いえ、なんでもないわ」 なんでもない。 なんでもないのだ。 疑うことでも、惑うことでも、嘘でもない。 アリス・マーガトロイドは、霧雨 魔理沙を望んだし。 霧雨 魔理沙に望まれることを、アリス・マーガトロイドは、望んだのだから。 その結果得られた幸福に、偽りがあるはずもない。 だから――アリスは笑っている。 幸せそうに、笑っている。 幸せだと、笑っているのだ。 じぃ、じぃ、と蝉が鳴く。 煩いくらいに、叫ぶように、悲鳴のように。 じぃ、じぃと、鳴いている―― 「ねぇ、魔理沙」 口からすべりでた言葉は、意識したものではなかった。 意識の外から、アリスの意識の外から、言葉はするりと抜け出てきた。別に語りかけるつもりはなかった。気付けば、魔理沙の名前を呼んでいたのだ。 だから、二の句が告げられない。 真っ直ぐに見つめ返してくる魔理沙に対して、次の言葉を、言うことができない。 「なんだよアリス」 魔理沙が言う。優しい声。親しい声。親愛と友愛と愛情を込めた、自分にしか聞かせないような声。 蕩けてしまいそうな声で、名前を呼んでくれる。 それはきっと――望んでいたことだ。 アリス・マーガトロイドが、望んでいて、あの日に言えなかったことだ。 「あのね、」 何を言えばいいのか、迷う。何を言おうかなんて、考えてもいなかった。 そこにいるだけで、幸せだから。 想ってくれるだけで、幸せだから。 何を言う必要なんて――本当は、ないのに。 「私、」 じぃ、じぃ、と蝉が鳴く。 煩いくらいに。 耳の奥で。 脳の奥で。 心の奥で。 響き渡る。 じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ、じぃ―――――― 「魔理沙のこと、好きよ」 ぴたりと、蝉の声が、止んだような気がした。 「そうか」 魔理沙が答える。蝉の声が聞こえない。喧しいくらいに、狂ってしまいそうなくらいに、じぃ、じぃ、と鳴いているのに、耳には届かない。脳には届かない。 心には届かない。 意識にあるのは、魔理沙のことだけだ。 嫌がられたらどうしよう、と思う。そう疑ってしまうこと自体が既に存在意義の矛盾なのに、アリス・マーガトロイドはそのことに気付かない。 仕方がないのだ。 仕方がないことなのだ。 だからこそ、こうして、魔法の森にキノコを採りにきたのだから。 全てのものは、不変ではいられないのだから。 「私は――」 魔理沙が、言う。 霧雨 魔理沙も、幸せそうに微笑んで、言う。 「私も、アリスのことが好きだぜ」 そう言って――魔理沙は。 笑顔のまま、ことりと、地面に倒れこんだ。 じぃ、と一鳴き大きく蝉が鳴いて――遠くへ消えてしまった。 そのことに、アリスは気付かず。 魔理沙が倒れてしまったことにも、幸せそうに笑ったまま動かないことも、開いたままの瞼が閉じないことにも、眼球が動きもしないことにも、呼吸をしていないことにも、心臓が動いていないことにも構わずに。 好きだといってくれたことだけを、心に抱いて。 倒れ伏す魔理沙を見て、アリスは。 にっこりと、幸せそうに、笑ったのだった。 † † † アリスは幸せそうに笑い、幸せそうに笑い続けたまま、じぃ、という鳴き声の中を引き返した。身じろぎもしない魔理沙の身体を背負い、魔法の森で集めたキノコを小脇に抱え、疲労の色も見せずに家まで戻る。 魔法の森の外れにある家は、二人の家だ。以前は別々に暮らしていたものの、今では二人で暮らしている。愛の巣、と口さがない相手には揶揄されるが、魔理沙もアリスも照れるように苦笑するだけで否定はしない。 それを否定する気は、二人にはなかった。 実際――互いに好き合っているからこそ、こうして、一緒に住んでいるのだ。 ついさっき確認したように。 魔理沙はアリスが好きで。 アリスは魔理沙が好きで。 だからこそ、二人は一緒に暮らしているのだから。 「ねぇ魔理沙――」 動かない動きもしない動こうともしない魔理沙の体を椅子に座らせる。自律的な力が入っていないせいで手足がだらんと垂れ、椅子から崩れ落ちそうになるがアリスは気にしない。キノコをすり鉢で粉状にし、あらかじめ作ってあった薬品と混ぜる。 その間にも、蝉は鳴いている。 室内にも関わらず――じぃ、じぃと、鳴いている。 けれどその声はアリスに何等作用しない。今のアリスは幸せなのだから。好きと言ってもらえて、こうして二人でいて、幸福でないはずがない。 他の全てなど、どうでもよかった。 「魔理沙、愛してるわ――」 薬品を作りながらアリスは言う。一昔前ならば、たとえ二人きりだとしても、たとえ心の底で想っていたとしても――そのことを口に出そうとはしなかっただろう。 実際、口に出さなかった。 口に出せなかった。 そんなことを言って変わってしまう関係が怖かったし、魔理沙から拒絶されることも怖かったし、何よりも自身が決定的に変わってしまうであろうことが怖かった。 それを自分で行えるほど、強い魔法使いでは、アリスはなかった。 だからこそ、魔理沙の後押しの言葉を受けて。 アリス・マーガトロイドは、造り得ない人形を造ったのだから。 「ずっとずっと、愛してるわ――」 混ぜ終えた薬を魔理沙の口に流し込む。器に入っていた薬を半分ほど注ぎ、残りを机の上に置く。魔理沙の顎をつかみ、気道を確保して、無理矢理に奥まで流し込む。 消化が目的ではない。 身体の隅から隅まで、流し込み、染み渡すことが重要なのだ。 薬は、命そのものだ。 今の魔理沙は、睡眠で生きていない。 今の魔理沙は、食事で生きていない。 今の魔理沙は、睡眠で動いていない。 今の魔理沙は、食事で動いていない。 今の魔理沙は、魔法で生きている。 今の魔理沙は、魔法で動いている。 じぃ、じぃ、と蝉の鳴き声が、ふと、強くなったような気がした。 その声に応えるようにして―― 「おはよう、アリス」 魔理沙が眼を覚ました。死体そのものだった身体が動き出し、自身の意思を持って椅子に座りなおす。二度、三度と瞬きをし、すぐ近くにあるアリスの顔を見上げ、 「あ、――」 手を伸ばし、身体を少しだけ持ち上げて、魔理沙はアリスにキスをした。 触れるだけの、挨拶のようなキスだった。 いきなりのキスに驚くことなく、アリスは微笑みを浮かべ、 「ええ、おはよう魔理沙」 同じように、今度はアリスからそっとキスをした。 触れて――離す。 挨拶のような、日常的なキス。 愛の証を、交し合う。 そして、キスを終えた魔理沙は立ち上がり、机の側にあった器をつかんだ。器の中には、まだ魔法薬が半分ほど残っている。 器を持ち上げ、魔理沙は言う。 「アリス、口あけて。食べさせてやるよ」 アリスは――逆らわなかった。 じぃ、じぃ、と音の鳴る中、アリスは素直に「あーん」と口を開ける。 魔理沙は「子供みたいだぜ」と笑って、その口に、少しだけ背伸びをして薬を注ぎ込む。ごくり、ごくりと、アリスは意思を持って嚥下した。 命を動かす薬を。 魔理沙と同じように――アリスも、飲んだ。 じぃ、じぃ、と蝉が鳴く。 じぃ、じぃ、と鳴いている。 遠くで、近くで、鳴いている―― ――これが、彼女たちの、愛し合う日常だった。 あの日、無自覚な霧雨 魔理沙にそそのかされるように、アリス・マーガトロイドは創り上げた。 人形を操る人形を。 人形を造る人形を。 有線で操る必要もなく、指示を受けて自分の意志で人形を操ることのできる人形を。 アリスが指示を出す必要もなく、自ら人形を創り上げていく人形を。 それは――人間を作ることと、大した違いはない。 人形だけで閉じた輪だ。 人形だけで完結した世界だ。 人形だけで、完全な世界だ。 人形遣いが存在する意味もない世界だ。 そうして、アリス・マーガトロイドは、己の存在意義を失った。 それでも、人形たちは魂を持たなかった。厳密な意味では、意思など持たない。意志を持たない。 人の形をしているだけだ。 だから、人形。 だから――彼女たちにあるように見える意志は、全て作り手のものだ。『命を吹き込むように』創り上げた人形たちは、アリスの命が込められている。アリスの思いが、アリスの意志が、アリスの望みが、繁栄している。 ただの、鏡だ。 本人が見たくないものまで映す、完全な――人の形の鏡だ。 人形たちはそれを明確に実行した。主の意志を、自分たちを作ったものの願いを忠実に実行しただけに過ぎない。 だから、みんな幸せだ。 幸せになるべく造られて。 幸せになるべく、躊躇うことなく、動いたのだから。 たとえば、それは。 霧雨 魔理沙に愛されるという願いだったり。 霧雨 魔理沙を愛したいという願いだったり。 他の何かに邪魔されて言えなかったことを、他の何かを気にすることなく言えることだったりした。 その願いを、人形たちは、忠実に叶えた。 霧雨 魔理沙を素直に愛するアリス・マーガトロイド。 アリス・マーガトロイドを心から愛する霧雨 魔理沙。 その存在を、人形たちは、忠実に叶えた。 なぜなら。 アリス・マーガトロイドは、造ったのだから。 人形を造る人形を。 そして、それは。 人間を作る人形と、大差のないことだ。 「アリス、愛してるぜ」 霧雨 魔理沙は幸せそうに言う。 「魔理沙、愛してるわ」 アリス・マーガトロイドは幸せそうに言う。 外では蝉が鳴いている。 じぃ、じぃ、と鳴いている。 内では誰かが鳴いている。 じぃ、じぃ、と鳴いている。 じぃ、じぃ、と――――――――――――魔法で動く、歯車の鳴る音がする。 霧雨 魔理沙として造られたナニカは幸せだった。 アリス・マーガトロイドが此処にいるのだから。 アリス・マーガトロイドとして造られたナニカも幸せだった。 なぜなら、そう――彼女は。 存在意義を捨てて、愛情を得て。 アリス・マーガトロイドの側には、深く望んだ愛がある。 霧雨 魔理沙は此処にいる。 (......END?) |
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↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑ ◆あとがき◆
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