1 歌を聴かせて 〜 Lunatic Ensemble
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 歌が聞こえる。
 ルナサがそのことに気づいたのは、夜毎の暑さが増してきた、七月の初めだった。
 どこか奇妙な宴会が、神社で行われていた日々。夜毎何かに誘われるようにして、ルナサは妹たちと宴会に参加した。
 やることはいつもと変わらない。宴会も盛り上げるべく、そして自分たちの好きなようにするべく演奏をした。三姉妹の演奏は幻想郷で受け入れられやすい。好評のまま毎夜毎夜演奏した。
 それ自体は辛くもなかった。もともと演奏することは好きだ。宴会のようなノリは妹のメルランの領分だが、三姉妹で演奏する分には何の問題もなかった。
 ただ。
 自分の担当するのが欝の領分だからだろうか。
 妹二人ほど宴会そのものに熱狂できなかったルナサは、姉妹の――どころか、幻想郷の誰よりも早くその歌に気づいた。
 幻想郷のどこかから、歌が聞こえてくるのだ。
 歌は、微かな歌だった。
 歌は、静かな歌だった。
 歌は、寂しげな歌だった。
 どこか遠くにいる、別の自分、もう一人の自分がソロで演奏しているようだと、ルナサは思った。歌い手は、独りきりで寂しくて、明るくふるまうこともできず、静かに歌を奏でている。そんなことさえ思った。
 いったい、これを演奏しているのが誰なのだろう。
 分からなかった。幻想郷で曲を奏でるものはそういない。心当たりの二名は、今宴会の席で陽気な曲を奏でている。歌う夜雀を知ってはいるが、あれも陽気な歌ばかりを歌う。
 そもそも、幻想郷では暗い音、静かな音というのをあまり聞かない。大抵の人間と妖怪と妖精は愉しんで生きているし、辛いことがあっても簡単に乗り越えてしまう。ルナサのような性格の方が幻想郷では珍しいのだ。
 だからだろうか、ルナサには、その歌が気になった。
 誰が歌っているのだろう。なぜ歌っているのだろう。
 一度気になってしまえば、もう止まらなかった。気になったことを、気にしないで放置しておくことが、ルナサには出来なかった。
 捜しにいこう。そう決意するのに、時間はいらなかった。
 捜そう。
 静かな歌い手を。幻想郷の端から端まで、空に浮かぶ月の元、夜の闇を切り裂いて、どこまでも飛んで探しに行こう。
 だから、ルナサは独り宴会を抜け出した。
 誰もそのことに気づかない。誰もが宴会に夢中になっている。歌と酒と弾幕に酔っている。萃めたものも萃められたものも、萃まることに夢中になって、萃まらなかったものに気を配っていない。


 月だけが、ルナサを見ている。




          ◆




    ――子の刻――




 どこに行くかは考えていなかった。
 歌のするほうに飛ぼうと思ったが、どこから歌が聞こえてくるのか今ひとつはっきりしなかった。幻想郷中に、静かに、小さく浸透していくような歌だった。
 飛び続ければ、歌の大きさは変わるだろう。それで歌が大きくなるほうへと飛べばいい。
 初めはそう思っていたが、どれだけ飛んでも歌の大きさは変わらなかった。宴会の喧騒から離れて少し聞きやすくなっただけだ。
 静かなのはいい、とルナサは思う。
 騒霊ではあるものの、ルナサは静かな世界が好きだった。余計な光のない夜が好きだった。空気の張った冬が好きだった。その方が、音の通りが良いからだ。ソロのときはなおさらその嗜好は強まった。
 こんな夜なら、一人きりの演奏も悪くない。
 そう思い、ルナサは懐からヴァイオリンを取り出した。
 飛びながらでも演奏はできる。身体がどう動いているかよりも、心の動きのほうが演奏には重要なのだ。心が陽気ならば明るい音、心が沈んでいるのならば暗い音が出る。手足を使わずに演奏ができる騒霊ならばなおのことだった。
 今夜の音は、静かだった。暗くはない。沈んでもいない。やかましくない、ただ静かなヴァイオリン・ソロ。
 我ながらいい曲だ――そうルナサが心中で思ったとき、

「姉のだいじなトラ〜ンペット〜♪」

 静けさをぶち壊す、そこ抜けに陽気な歌声が聞こえてきた。

「…………」

 演奏を止めて、歌声のしてきたほうを見る。
 どこかから聞こえてくる歌声とはまったく別種の、明るさ楽しさ喧しさの象徴そのものな陽気な歌。その歌い手は、案の定浮かれきった鳥頭の妖怪だった。
 見覚えがある。あれは夜雀だ。歌で人を狂わせ、鳥目にする妖怪。
 名前が何だったか、妹から聞いたような気もするが、ルナサはなかなか思い出せない。覚えようとしなかったからだ。

「とっても大事にしてたのに〜♪ 壊してしまった妹が〜♪」

 すぐ近くまできたルナサを気にもかけず、夜雀は歌い続ける。
 その妙な歌詞に心あたりがあることに、ルナサはようやく気付く。気付くが、確証がない。
 妙な言い出しにくさを感じている間にも、夜雀は徐々に近づいてくる。
 顔がはっきりと見える距離まできて、ルナサは夜雀の名前を思い出した。
 ミスティア。ミスティア・ローレライだ。

「どうしよう〜♪ どうしようもないから〜♪ 壊してすてた〜♪」
「その変な歌はなにかしら?」
「とあるキーボーディストの歌よ〜」

 間違いない。自分たち姉妹の歌だ、とルナサは確信する。
 つい最近、メルランが興味本位でリリカのキーボードを奪って演奏したことがあった。それ自体は平穏に終わったのだが、そのことに腹を立てたリリカがメルランのトランペットを借り、わざと壊れるようにして返したのだ。
 ドの音を出す瞬間に、中で詰まった何かが爆発したのは愉快だったが。
 ともかく、壊れた、というか壊したトランペットはリリカの手で捨てられ、ルナサの手でとある古道具屋に運び込まれて修復された。そのことで一時雰囲気が悪くなったが、いつものケンカなのですぐに仲は良くなった。
 問題は、そのことをなぜ目の前の夜雀が知っているのかだ。

「それをどこで知ったの? 誰も知らないはずなんだけど」
「これに書いてあったのよ〜」

 ミスティアがふところから紙を取り出してひらひらと振る。
 もちろん、暗くて何が書いてあるか読めない。
 だが、それが何かはすぐに分かった。文々新聞だ。幻想郷であった『真実』を独断と偏見で書き下ろした(とルナサは常々思っている)新聞。あの文屋なら、人様の家庭問題を嗅ぎつけることくらいはするだろう。
 それを、何をどう間違えたかミスティアは読み、即興で歌った、ということを理解して、ルナサは頭が痛くなった。幻想郷中が、妹たちの不祥事を知っているということなのだから。
 そのことはあとできっちりと考えよう、とルナサは思考を切り替える。身もふたもない言い方をすれば現実逃避だが、本人としては至極大真面目なつもりでいる。
 そんなことより、今の問題は出自不明の歌だ。

「これを歌っているのはあなた?」

 違うと思いつつ聞いてみる。

「これってなーに?」

 それ以前の問題だった。
 首を小さくかしげるミスティアは、歌に気付いている様子もない。無理もない、自分の歌声が大きすぎて、小さな歌など聞こえていないのだろう。
 ルナサはため息をつく。期待と時間の無駄だった。
 が、落ち込むルナサとは対照的に、ミスティアは明るかった。
 その鳥頭は今こんなことを考えている。
 ――遊び相手、見つけた、と。

「そんなことより、一緒に演奏でもしない?」

 ミスティアが言うと同時に、辺りが暗くなる。ミスティアの鳥目にする能力がルナサに働きかけたのだ。
 一緒に演奏する、というのは、弾幕ごっこをしよう、というのと大して意味が変わらない。
 普段なら、ルナサは正々堂々と正面からその誘いに乗っていただろう。
 だが、今はそんな気分ではない。
 弾幕ごっこの気分ではないのだ。
 弾幕ごっこよりも、心魅かれる歌の元を捜している最中なのだ。

「神社に行くといい。あそこの騒ぎは貴方に丁度良いから」

 言いながら、ヴァイオリンで曲を奏でる。途端、楽符が弾幕となり、形を持って突き進む。
 ミスティアの姿は見えない。夜雀はどこにいるか分からない。
 だが、それはルナサには問題にならなかった。
 音符は光の攻撃ではなく、音の攻撃だ。
 見える見えないに関わらず、音ですべてを判断して進む弾幕だ。
 弾幕は暗闇の中に迷わず突き進み、姿の見えないミスティアを正確に探し出し、コツン、とその頭にぶつかって弾けた。
 とたんに闇が晴れる。そこにいたのは、何が起きたのかまるで分っていない、きょとん、とした顔のミスティアだった。こんなにも簡単に暗闇が破られるとは夢にも思っていなかったのだろう。

「宴会で妹たちに会ったら、楽器は大切にと伝えておいてくれないかな」

 そう言い捨てて、ルナサは再び飛ぶ。
 時間がもったいなかった。何となく、夜が終われば、この静かな歌も消えてしまうような気がしたからだ。この歌は、太陽の下で聞くのは似合っていないからだ。
 最後までぽかん、としているミスティアを置いて、ルナサは夜闇の中を飛び続ける。





          ◆




    ――丑の刻――





 次に向かった場所は、適当ではなかった。
 歌い手のいそうな場所にではない。歌い手の居場所を知っていそうな人間のところへ向かうことにしたのだ。
 楽器を直してくれた古道具屋。彼は博識そうだった。彼の店にはたくさんの本が置いてあった。わけのわからない道具や、見たことのない楽器もたくさん置いてあった。
 彼ならば――香霖堂の店主ならば、ひょっとするとこの歌の主を知っているかもしれない。そう思ったルナサは、魔法の森の近くにひっそりと建つ、香霖堂へと向かった。
 魔法の森は静かだった。ここには夜も昼も宴会も関係なく、いつも静かだ。それは心地よい静けさではなく、どこか不安と影をはらんだ静けさだけれど。
 森の奥に、何かが潜んでいるような気がする。
 そんな懸念と緊張を孕んだ、張り詰めた弦のような静かな森。
 この森は、自分よりもむしろリリカの領分だろう、とルナサは思う。あの妹は、こういう絶妙なバランスの上に成り立っている空間での演奏が得意だ。躁の音であるメルランと、鬱の音であるルナサの音をまとめる役をしているおかげかもしれない。
 その辺りのバランス感覚は自分にはないな――そう思っている間に、ルナサは香霖堂へとたどり着いた。
 森の中に忽然と建っている香霖堂には、未だ人の明かりがあった。
 こんな時間に珍しい、とは思う。香霖堂の店主はたしか人間だったはずだ。ひょっとしたら人間のふりをしているだけの妖怪かもしれないが、ルナサには見分けがつかなかった。ただ、人間の魔理沙と仲が良いから人間だと思っただけだ。誰とでも仲が良い魔理沙のことだから、あまり信用はできないが。
 人間でも妖怪でも、ルナサにとってはどちらでもいいが。
 彼女にとっては、他人よりも自分たちの演奏のほうが重要なのだから。
 妖怪であろうが人間であろうが、ルナサにとって付き合い方が変わるわけでもない。この場合は、ただの『店主』だ。

 ――コン、コンコン、コン。

 一応ノックする。

「どうぞ」

 中から応対の声がして、ようやくルナサは扉を開けた。
 扉の向こう、店の奥に、店主・森近 霖之助は座していた。
 蝋燭に炎をともし、気だるそうに背を椅子にもたれさせながら、本を読んでいる。
 いつ寝ているのかはわからないが、この時間帯も彼にとっては行動時間なのだろうとルナサは納得する。
 霖之助は本を閉じないまま、視線だけをルナサに向けて言った。
「律儀にノックをしてくれるのは嬉しいけどね。こんな夜更けに何の用だい? もう店仕舞いなんだけれど」
 言葉には軽い疲れが混じっていた。店主が客に取る態度ではないが、店が閉まっている以上そこにいるのは店主ではなく森近 霖之助一個人なのだろう。
 そのことは、ルナサにとっても都合が良かった。
 今ルナサは、香霖堂に物を買いにきたのではなく、霖之助自身に聞きたいことがあって訪れたのだから。
 その前に、一つだけ聞きたいことがあった。

「本を読んでいるの?」

 霖之助はもうルナサを見すらしない。
 本に視線を落としたまま答える。

「月の光は弱々しいし、蛍も雪もない。蝋燭でもつけなければ本を読めないよ」

 ルナサの顔が糸目の呆れた顔になる。
 こんな時間に本を読んでいるのか、という意味で質問をしたのだが、返ってきたのはとんちんかんな答えだった。
 それが意図的に話を逸らされたのか、ただの天然なのか、ルナサには判断がつかなかった。
 ルナサが考えあぐねていると、霖之助はそれ以上ルナサに話しかけず、本の頁をめくるのに集中した。とことん、客商売をする気はないらしい。
 店の中では、どこかから聞こえる歌はあまり聞こえなかった。店の品物が邪魔をしているのかもしれない。
 この店の中も静かだ、とルナサは思う。ここの空間は停滞している。博麗大結界で封鎖された幻想郷の中において、さらに閉鎖された狭い店。物を流出することを拒む店主による、二重結界のような世界。ここで演奏しても、音はあまり響かないだろうな、と思う。ここにあるのは重苦しく積み重なった時間だけだ。

「少し聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」

 霖之助は本を読んだまま相槌をうつ。
 ちゃんと聞いているのかどうか不安だが、それでもルナサは尋ねた。

「歌が聞こえるんだ。静かで、悲しい歌。幻想郷のどこでも聞こえるけど、どこから聞こえるかは分からない。これって何なのか、貴方には分かるかな?」

 霖之助の、頁をめくる手が止まった。
 なにか、思うところがあったのかもしれない。答えに期待をして、ルナサは霖之助の方へ一歩踏み出す。窓枠から見える月が、ゆっくりと頂から地平へと向かっていた。
 ぱたん、と本を閉じて、霖之助は語り始める。

「幻想郷のどこでも聞こえるということは、全ての場所から音が発されているか、全ての場所から見える位置から音が出ているということだ。音の発生源があまりにも小さかったり、逆に大きすぎたり、あるいは見えなかったりすると、どこから聞こえているのか分からなくもなる」
「見えない?」

 そのひと言が気にかかった。見えない、ということはない、ということだ。何もないところから音は出ない。音を奏でる物か、音を奏でる者がいて、初めて音楽は奏でられる。
 ルナサのその疑問に、霖之助はゆっくりと答えた。

「僕は騒霊ではないから、音は見えない。そして、『幻想の音』を聞くこともできない。君の聞くその『歌』が『幻想の音』なら、それは音の幻想である君たちにしか知覚できないようなものなんだろう」

 霖之助の言っていることは、何となくはわかる。
 つまり、騒霊である自分にしか聞こえない音楽を、波長があった歌だったのでキャッチした。それは普通の音ではない幻想の音で、なにか常識外なものが奏でているだろう、ということだ。
 霖之助の言いたいことは分かった。
 分かったが、それでどうすればいいのかは分からない。

「つまり……見方を変えて捜してみろ、ということかな?」
「そういうことだね。発想の転換、意識の逆転。君はもうすでに、誰が歌っているのか知っているような気もするよ。もちろん、歌の聞こえない僕の仮説に過ぎないけれどね」

 そこまで言って、霖之助は再び本を開いた。話はこれで終わり、ということらしい。霖之助にとっては、外で起こるどんな事件よりも、自分の世界の方が重大なのだろう。
 ルナサにとってもそれは同じだ。不自然な宴会や、薄く広がる妖気は重大な事件なのだろうけれども、そんなものよりも歌や音楽のほうがルナサにとっては重要だった。
 明日世界が滅びるとしても、ルナサはいつもどおりの演奏をするだろう。
 ルナサ・プリズムリバーは、騒霊なのだから。

「ありがとう。何となく目処もたった気もする」

 礼を言ってルナサは踵を返す。
 どこにいくかは決めていない。だが、何となく分かりそうな気がしていた。
 振り返ることなくルナサは歩き、香霖堂の扉を開け、外に出ようとする。
 その背中に、

「ああ、そうそう」

 霖之助の声が投げかけれた。
 ルナサは足を止め、振り返らないまま言葉を聴く。

「幻想郷のどこへ飛んでも音が聞こえるというのなら――上か下に飛んでみるといい」
「そう、ありがとう」

 今度こそ、ルナサは扉を閉めた。
 店主が扉の向こうで、今までの会話をすっぱりと忘れ、本に集中している姿を、ルナサはなぜか鮮明に想像できた。
 さて、とルナサは気合を入れる。

 ――行こう。

 行き先は決まった。
 霖之助は言った。上か下か、どちらかに飛んでみろと。
 下は地面だ。ひょっとしたら下れる場所があるのかもしれないが、ルナサはそんな場所は知らない。
 だから、行き場所はひとつしかない。
 ルナサは顔を上げる。そこには、だいぶ傾いた月と、星の散る夜空がある。


 ――空だ。




          ◆






     ――寅の刻――





 向かう先が決まっていると足も速い。
 いつもより少し速く、空へ空へと登っていく。
 どこへ、ではない。
 どこまでも、だ。
 ただひたすらに高く、どこまでも遠くへとルナサは飛んでいく。
 薄く広まる妖気を抜けて。
 雲の高さを越えて。
 冥界の門を越えて。
 それでも留まることなく、さらに高くへ、さらに遠くへと飛ぶ。
 霖之助の言葉の通り、上へ上へとルナサは飛んでいく。
 どこから歌が聞こえてくるのか。
 そんなことを、ルナサはもう考えようとしなかった。
 考えなくても、もう明らかだったからだ。薄く響いていた歌は、いまやはっきりと聴こえていた。
 上へ飛べば飛ぶほど、音楽は強くなっていく。
 もう、ルナサには全てが分かっていた。
 どこから歌が聞こえるか。 
 歌っているのが誰かも。
 歌い主は、初めからそこにいたのだ。
 初めから全てを見ていた。すべてを見て、見ることしかできず、ただ独りで歌っていた。そのことにルナサは気付かなかっただけだ。当たり前すぎて、そこにあるのが当たり前すぎて、それが歌っているとは、夢にも思わなかったのだ。
 霖之助は言った。
 上か下に行くといい、と。
 下――つまりは、幻想郷そのものだ。
 だがそれは違った。歌っているのが幻想郷ならば、上に行けば行くほど、歌は小さくならなければならない。
 だが、実際には、歌は大きくなった。
 だから、歌っているのは上だ。
 上――
 ルナサは飛ぶのを止め、上を見上げる。
 そこにはもう、雲も、妖気も、なにもない。
 ただ、透明な空気と、星と、月があるだけだ。清浄な場所。静かで、何もない、寂しい世界。そこに、歌声は深々と響いている。
 空の上から、さらに上を見上げる。
 星と月が見える。
 歌声が響く。
 独りきりで、寂しく歌う。助けをこうかのように。叶わぬ愛を歌うかのように。誰にも理解されない言葉で、誰も知らない歌を歌っている。
 ルナサは独り、それを聴く。




 ――月の歌声を、ルナサは聴く。 




 月が歌っている。
 はるか高みに浮かぶ、丸い月。
 誰もが忘れ去った言葉で、誰もが理解できない歌を、月が歌っている。
 天上の歌。
 独りきりの月が、寂しく唄っている。
 人にも、妖怪にも、妖精にも、幽霊にも奏でることのできない、38万キロの真空を隔てて届く歌。
 それは幻想だった。幻想の歌だった。届くはずのない歌だった。
 どこかで、何かがあったのだろう。
 きっとそのせいで歌が聞こえるのだ、とルナサは思う。ソレが何なのかは分からない。だが、今までも、月は誰にも聞かれずに、ただ独りで歌い続けていたに違いない。
 そしてこれからも、月は独りで歌い続けるに違いない。
 それは寂しいことだ。
 けれども、悲しいことだとは、ルナサには思えなかった。
 月には歌がある。そして歌は全てだ。幸せな歌がある。悲しい歌がある。楽しい歌がある。そして、歌は独りでも歌える。寂しくても、だ。
 プリズムリバー幽霊楽団は、三人いなければ歌えないわけではない。
 三人で歌いたいから歌っているだけなのだ。
 リリカも、メルランも、もちろんルナサも。歌は彼女たちの全てで、彼女たちは歌そのものだった。
 その一名であるルナサにとって、欝の領域を歌うルナサにとって、独り歌いつづける月は、親近と尊敬の対象ですらあった。
 だからだろう。
 ルナサは、それが当然であるように、ヴァイオリンを取り出した。
 誰にも聞かれない歌い手がいた。
 月は独りきりで歌い続けてきた。
 今日この夜、その歌を聴こえる者がいた。
 聴こえる者は、演奏者だった。
 ――ならば、やるべきとは一つだ。今日この夜くらいは、独りぼっちでなくてもいいだろう。
 手に持つ必要はない。だが、ルナサはヴァイオリンを手にとった。そうするのが正しい気がしたからだ。
 何もない、空よりも上の空間。地上と宇宙の境目、博麗大結界のそば。なにもない、澄んだ空間。
 ここは自分の領域だとルナサは思う。ここでなら、心地よい演奏ができるに違いない。
 ――たまには、こういうの悪くない。
 ルナサの手が動き、演奏が始まる。
 夜空にヴァイオリンの音色が響く。






 たった独りの幽霊楽団。
 奏で手は、静かに沈む騒霊。
 歌い手は、静かに歌う月。
 聞き手は誰もいない。奏で手が聞き手であり、歌い手が聞き手だった。
 たった二人だけの夜奏が始まる。







 月だけが、それを見ていた。















                           (東方永夜抄 〜 Imperishable Night に 続く のかもしれない)




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・後書きに含めて 『永い夜の始まり』

 どこか遠くから歌が聞こえる。
 月の綺麗な夜にふさわしい、静かな演奏と歌声だ。
 誰が演奏しているのかは分からないが、中々風情がある。
 そして――懐かしい歌だ、と永琳は思った。
 もう、今では聴くことのない、古い古い歌だ。
「……師匠」
 気負った暗い声。弟子である優曇華院の声だ。
 この子も、あの歌くらいにさっぱりしていればいいのにと永琳は思うが、それは仕方がないことだ。
 彼女には、暗くなるだけの理由があるのだから。
 鈴仙・優曇華院・イナバは――月の兎レイセンは、散々言いあぐねた末に、言った。
「――月からの使者が――」


 古い古い月だけが、密室の上から彼女たちを見ていた。



                       BGM. 永夜抄〜  Eastern Night.  END
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。



◆あとがき◆





……最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
投稿ニ作品目、ルナサ・プリズムリバーの物語でした。いかがでしたでしょうか。
今回も主役陣が出ず、騒霊、夜雀、古道具屋を含めた月のお話でした。こんなものばかり書いている気もします。
気にいっていただけたら幸い。

作品について。
月の歌声が聞こえる、というのはニ、三のSFからとってきたもので、東方の公式設定ではありません。
聴こえるのは波長のあう騒霊と月のウサギだけでしょう。
月は、きっとウサギも人も、どちらでも構わないのだろうな、と思いながら書きました。幻想郷が全てを受け入れるように。





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