1 初めての涙
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 海を見に行きたい――
 一生に一度のお願いとして、紫にそう頼み込んだ。
 紫は、ちょっとだけ意外そうな顔をして、
「それでいいの?」
 と首をかしげた。
『それ』がどういう意味なのか、魔理沙には判らなかったけれど。
 いつものように――こう答えた。

「普通だぜ」




          †





 そして 彼女たち二人は今、夜の海にいる。
 聞こえるものは、波の音だけだ。
 森のように、かすかな虫や鳥のささやき声は聞こえない。
 遠くから人の声が聞こえることもない。
 妖精たちの賑やかな声も。
 夜にうごめく妖怪の音も、聞こえない。
 引いては返す、波の音だけが聞こえてくる。
 ザ―― ザ―― と。
 まるで、何かの音楽のようだと、魔理沙は思った。
 騒霊たちの演奏とは違う。
 幻想郷には存在しないような、静音。
 海が、静かに唄っている。
 静かな夜を喜ぶ唄を。
 辺りは暗い。
 月明かりと、星明りしか存在しない。
 町の灯も、魂の炎も、陽光も、魔法の光も、ここには存在しない。
 月と、星だけが、海と砂浜を照らしている。
 白い砂は、月の光を浴びて、銀色に輝いていた。
 その砂を噛むようにして、

「魔理沙――! 面白いね、これ」

 フランドールが、駆けている。
 銀の砂浜を、触れることのできない波を追いかけるようにして。
 引いていく波を、追い立てるようにフランは沖へと走る。
 返してくる波に、追い立てられるようにフランは浜辺へと戻る。
 その繰り返し。
 ザ――という波の音にあわせて、フランは楽しそうに遊ぶ。
 決して触れられない、海との追いかけっこ。
 その様子を、魔理沙は、箒に腰をかけて眺める。
 混ざる気はなかった。
 こうして見ているだけで、一緒に遊んでいるように思えたからだ。
 波の音楽が、魔理沙と、フランを優しく包み込む。

「フラン、面白いか?」
「うん!!」

 右足だけでくるりと振り返り、フランは満面の笑みを浮かべて答える。
 その笑みを見て、魔理沙もまた笑う。
 フランは体勢をくずしかけ、おっとっと、と呟きながらよろめき、近づく波から逃げるようにとてとてと走った。
 砂に、小さな足跡がつく。
 足跡を追いかけるように、波が満ちていく。
 波が再び引くとき――そこに足跡はない。
 海が、全てを消していく。
 跡は残らない。
 けれど、何度も何度も、フランはそれを繰り返す。
 まっさらになった砂浜に、彼女は足跡をつけていく。
 波が満ちる。
 足跡が消える。
 波が引く。
 足跡を残す。
 その繰り返し。
 飽きることもなく、本当に楽しそうに。
 その遊びを、魔理沙も飽きることなく見守っている。
 手には八卦炉。使うことのない、魔法の道具。
 何も起きなかった。
 弾幕遊びも、幻想郷を揺るがす異変も、終わらない夜も、何もない。
 夜は終わる。この夜は、永遠には続かない。
 頂に座る月は、時計の針の速度で、ゆっくりと海の彼方へと眠りにつく。
 紅色の霧は出ることはない。
 朝の匂いを孕んだ霧が、遠くの海に居るだけだ。
 弾幕遊びは、起こらない。
 ここにいるのは、フランと、魔理沙だけなのだから。
 他には誰もいない。
 二人きりで、海を見ている。
 何も起きなくてもよかった。
 何も起きなくても、世界に素晴らしいものはあるのだと、魔理沙は教えてやりたかった。
 ずっと、素晴らしいものを見ることの出来なかった、フランドール・スカーレットに。
 そして、今。
 フランは、美しい海を見ながら、楽しそうに笑っている。
 得るものは何も無い。訓示も、経験も。
 ただ、美しいものがそこにあるだけだ。
 美しいから。ただ単純に、それだけで十分だと、魔理沙は思う。
 月の光を浴びて、静かに輝く深い海。
 深い深い蒼は、見ているだけで吸い込まれてしまいそうになる。
 どこまでも広がる蒼。そらもまた、暗い蒼。
 光る蒼が、地平の果てまで広がっている。
 あの果てから波はやってくる。
 そして、海岸でフランと遊び、またあの果てへと還っていくのだ。
 銀の光と銀の砂で遊ぶ、フランを見ながら、魔理沙はそう感じた。

「魔理沙も遊ばないの?」
「私も遊んでるぜ」
「え?」
「あんたを見る遊び」
「そう!」

 答え、フランは跳びはじめる。
 ぴょん、ぴょんと。
 砂から砂へと、フランは跳ぶ。
 跳ぶたびに、宝石のついた羽が閃き、月の光を反射して光り輝く。
 音はない。砂を踏む音すら。
 ただ、波の音だけが、フランと魔理沙を見ている。
 人には奏でることのできない、静かな海の声。
 その音を聞きながら、魔理沙は色々なことを思い返す。
 フランと出会ったときのこと。
 それから、色々なことがあって。
 本当に、本当に――色々なことがあって。
 今、ここに、こうして座っている。
 時計の針は逆には回らない。止めることはできたとしても。
 遅かれ早かれ、魔理沙はこうして、いつかは座ることになった。
 彼女が、霧雨 魔理沙である以上は。
 それが幸せなことなのかどうか、魔理沙にも判らない。
 幸せでなくても――満足だった、と思うだけだ。
 悔いなど、あるわけもなかった。
 霧雨 魔理沙は、力の限り、生きているのだから。
 最後の瞬間まで、変わることなく。
 霧雨 魔理沙として、彼女は生きぬくだろう。

「魔理沙――」

 フランの声。波の声に混じるような、高いソプラノ・ボイス。
 フルートのような美しい声。
 彼女は、立ち止まっていた。波が届く、ぎりぎりの処に立ち、魔理沙の方を振り返ることなく。
 遠い、海の果てを見ていた。

「なんだ?」

 魔理沙の言葉に、フランは、すぐには答えなかった。
 じっと、立ち尽くして。
 波の音を聞きながら、輝く海と、その果てを、見つめている。
 遠く、遠く。
 フランの目でも見られない、遠い果てにあるその場所を。
 一度として見たことのない、その場所を、フランは幻視している。

「この先に――」

 波の音が、フランの声に混じる。
 遠い、遠い海の果て。
 一つの大陸と二つの大洋を越えた果て。
 その先にある国と、繋がる海の音が、フランの耳に届く。

「――私の国が、あるんでしょ?」

 国。祖国。
 ただの一度として足を運んだことのない。
 ただの一度として見たことのない。
 ただの一度として住んだことのない。
 名前すら知らなかった――けれど、頭よりももっと下、体の奥にある、深い部分で、その存在だけは知っていた。
 誰もが生まれ、還る場所。
 祖国の存在を。
 そこに行ったとしても、何も得るものはないだろう。
 そこにはただ、何も変わりはしない土地があるだけだろう。
 意味はない。
 意志があるだけだ。
 海と同じだ――ただ、そこにあるだけで、大切なもの。
 心の中の祖国。
 この海は、そこに、繋がっていた。
 遠い距離を置いたとしても、確かに、繋がっていた。

「そうだぜ」
「どんなところ?」

 魔理沙は、即答した。

「美しい場所だよ」

 もちろん――魔理沙は、行ったことも、見たこともない。
 名前と、『祖国がある』ということを、フランの家庭教師となった慧音から聞いただけだ。
 それでも、魔理沙は断言できた。
 フランの祖国が、美しくないところのはずがないからだ。
 いや――
 魔理沙は、ふと思う。
 海を背景に、微笑んで立つフランを見て、思うのだ。
 美しくないものなど、この世界にはないと。
 美しいと感じる心が、自らの中にあるかぎり。

「ふぅん……いつか、一緒に行こうね!」

 言って、フランはまた、波との遊びに戻る。
 飽きることもなく。
 繰り返し。
 繰り返し。
 彼女にとっては、そんな些細な遊びも、楽しくて、美しく感じてたまらないのだろうと魔理沙は思う。
 長い長い時間を、地下で過ごした彼女。
 その世界は、初めて見るものだらけだろう。
 その全てを、彼女は美しいと感じただろう。
 狭い幻想郷の中に存在する、ありとあらゆるものを、美しいと感じただろう。
 魔理沙は、もっと知ってほしかった。
 フランに。
 ありとあらゆるものを壊すことしか知らなかった、フランドール・スカーレットに。
 世界は、壊すのがもったいないくらいに、美しくできていることを。
 誰も教えてくれなかった、単純なその事実を、フランに教えてやりたかったのだ。
 だから――海へと来た。
 美しい、夜の海を、フランに見せるために。
 あの日。
 紅の霧雨が止んだあの事件の後。
 フランの手を取り、外に連れ出したのは、魔理沙だった。
 直接的にでは無かったとしても――地下の外にも、世界は広がっているのだと教えたのは、霧雨 魔理沙だった。
 なら。
 もっと、もっと世界は広いのだと教えてあげるのは、自分の役目だと、魔理沙は思ったのだ。
 遠くに輝く月と星。
 あそこに届くほどに、この世界は美しく広いのだと、彼女に教えてあげたかった。
 世界が美しいことを、彼女に見せてあげたかった。


 そして今――その願いは叶い。


 二人きりで、海にいる。
 周りには誰もいない。二人だけだ。
 霊夢も、咲夜も、どこにもいない。
 レミリアも、パチュリーも、ここにはいない。
 誰もいない。
 二人だけだ。
 魔理沙と、フランの二人だけ。
 幻想郷の外。誰もいない、幻想となった静かな、美しい海。
 波の音だけが、響いている。
 フランは、魔理沙に見守られて、幸せそうに遊んでいる。
 魔理沙は、少しも変わることのない、フランの姿を優しく見つめる。
 フランの姿に、変わりはない。


 数十年が過ぎた今も、変わりはない。


 けれど、その中身は変わったのだと――姿の老い変わってしまった魔理沙は思う。
 髪が純金を失い、肌から艶がなくなり、もうろくに魔法も使えず、光さえ消えかけても――己が霧雨 魔理沙であったように。
 フランドール・スカーレットもまた、あの時と同じ、フランドール・スカーレットだ。
 彼女らしさを損なわないままに、彼女は育った。
 いや――
 違う、と魔理沙は思う。
 変わったのでも、育ったのでもない。
 彼女は知ったのだ。


 世界が美しいことを。
 世界が優しいことを。


 それを教えたのが、自分だというのなら幸いだ、と。
 魔理沙は、最後にそう思った。


「フラン――楽しかったな」


 呟きは、波の音色にまぎれて、フランまでは届かない。
 それでいい、と魔理沙は思う。
 後ろを振り返る必要はない。
 遠く、遠く。あの月を越えて、さらに遠くまで広がる世界へ、フランに旅立ってほしいと。
 495年もの間、見れなかった様々なものを、今度こそ見てほしい。
 先は長く、道は遠く。
 どこまでも続いているのだから。


 魔理沙は、目を細め。
 波打ち際で遊ぶフランを見る。
 その奥へ広がる、美しい世界を見る。


 月は遠く。
 海は広く。
 世界は――どこまでも、美しかった。


 霧雨 魔理沙は――満足して。


 幸せそうに、笑った。


 手から、八卦炉が零れ落ちる。
 銀色の砂に、音も立てず、八卦炉が埋まる。
 その音を聞くものは、もういない。
 恋色の魔法が、二度と放たれることの無い――




             †



 フランは、遊ぶ。
 満月の光の下。初めてみる海に心魅かれ、遊び続ける。
 蒼い海と、銀の砂と、白い光に包まれて、フランは幸せそうに遊ぶ。
 魔理沙がもう動かないことに気づいたのは、月が一つ分、動いてからだった。

「魔理沙! ねぇねぇ魔理――」

 魔理沙の返事はない。
 フランは、砂浜を裸足で駆け、箒に腰掛けたまま動かない魔理沙の元へと歩み寄る。
 魔理沙は、幸せそうに笑ったまま。
 少しも動くことなく、フランを見ていた。
 瞳の中。
 丸い黄金の月が、ひそやかに覗いていた。

「……魔理沙?」

 声に返事はない。
 フランは知らない。そのことを。
 人間が『紅茶』の形でしか知らなかったフランは、そのことが何なのか、知らない。
 誰も教えてくれなかったから。
 そして――
 今、魔理沙が、自らの身をもって、教えてくれたのだ。
 そのことに、フランはまだ気づかない。
 魔理沙は動かない。
 なぜ動かないのか――フランは知らない。

 それでも、フランは解っていた。知らずとも、フランは解っていた。


 霧雨 魔理沙は、もう二度と動くことはない。
 霧雨 魔理沙は、もう二度と怒ることはない。
 霧雨 魔理沙は、もう二度と遊ぶことはない。
 霧雨 魔理沙は、もう二度と笑うことはない。



 これが、『お別れ』なのだと――フランドールは、解っていた。

 

 世界が、月の光を浴びて、美しく輝いている。

 遠い星たちが、少女を優しく見守っている。
 喪失を知って、優しくなった少女を。

 蒼い海の音が、少女を優しく慰めている。
 別れを知って、大人に近づいた少女を。

 誰もが、唄い、悲しみ、尊んでいる。
 流れ星のように駆け抜けた、一人の少女のお終いに。
 長い長い人生を追え――永い永い眠りについた少女を、星と月の光が、優しく称えている。





 瞳から落ちる雫が、ぽたりと、白銀の砂に跡をつけた。






(了)



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何もかもが美しい――――美しいと思える心があるのならば。







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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。





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