1 | 秘封倶楽部は何処にいる? [N/3] |
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00 | ――眩んでいた視界は、すぐに元通りになった。 そこにあるのは豪雨と、豪雨に遮られた灰色の町並みだった。いつも通りの、私たちの町が、そこにあった。 雨は相変わらず降り続いている。勢いを増し、雷とともに、地へ地へ急ぐ雨。傘を痛いほどに叩く雨音のせいで、町の音があまり聞こえなかった。雨の向こうに世界が本当にあるのか、少しだけ不安になってしまう。 傘を完全に開いて、ニ、三歩前に進む。 世界は、ちゃんとあった。水越しに伝わる足元の感触は、冷たく硬いコンクリートだ。地面がいきなり崩れることもない。 町と、雨と、地面が、どこまでも続いている。雨の向こうに、茶色いレンガ造りの高い建物が見える。古い時計台で、あの屋上には小さな天体望遠鏡が置いてある。星と月を見るのが好きな私は、よくあそこを利用していた。 間違いなく、私たちの町がそこにあった。 「……変な店だったね」 そう、変な店だった。店主も品物も変だが、何が一番変かって、正面入り口が森の方を向いていることだ。 その上、裏口が町側へと繋がっている。本当に客商売をする気があるのだろうか? 無い気がする。アレはやっぱり、趣味の店なのだ。同じような趣味を持つものだけが集う、特別な空間。 隔離されたようなお店。 今度、時間があるときにもう一度行こう。 「そう思わない、メリ、」 言いながら、私は振り向いた。メリーの方へと。 そして――私は、言葉を失った。頭をハンマーで殴られたような衝撃で、言葉を続けることができなかった。 振り向いた先。 そこに、メリーはいた。 メリーの後ろには、何もなかった。 いや、何もないわけではない。道が続いていた。車が一台通れそうなほどに広い道が。道は路地に続いていて、奥には民家が見えた。 決定的に、足りないものがあった。 再び雷が鳴る。 辺りが白い光に包まれる。世界が明るく照らされる。 どんなに明るくても――そこに、香霖堂は、影も形も見ることができなかった。 私たちが出てきたばかりの店が、まるで最初から存在しなかったかのように、すっかり消えていたのである! 「――――!?」 ……実を言えば、そのことを不審に思う暇は、いっさいなかった。“今なにか不思議なことが目の前で起こらなかったか?』としか思えなかった。そんなことを悠長に考えているだけの余裕が、私には存在しなかったのだ。 振り返ったその先には、メリーがいる。メリーの後ろに、お店はない。 メリーの横。視界の端には、ヘッドライトの光。 雷の光に混ざる、バイクの光が、メリーに迫っていた―― 「――メリーッ!!」 叫ぶより先に私は動いた。声だけが遅れてついてきた。ついてこられなかった帽子が頭から転げおち、私の手放した傘の中へと落ちた。 「……え?」 呆然と立ち尽くすメリーの手をつかみ、思い切りひっぱる。 メリーの身体はバイクの斜線上から外れ、私の後ろへ。 そして私は――間近に迫った、眩しいほどの光を見ながら――全力で反動を殺した。メリーを後ろに引っ張るということは、エネルギー力学の法則で、私の体は前に出てしまう。それでは、メリーの代わりに私が死ぬだけだ。 必死で踏ん張った。足に力を込め、濡れた地面で滑らないように。 バイクはすぐそこまできていた。 「く、う――ッ!」 手の届きそうな距離に、バイクの光。 あ、死ぬ――と少しだけ思った。走馬灯は襲ってこなかった。そんなものを見ている暇があったら、私の身体は生きるべく動いている。 事実、私は、最後まで動いた。 革靴で思いきり地面を蹴り、勢いを殺して、わずかに後ろに跳んだのだ。 ……サンダルや可愛らしい靴でも履いていたら、間に合わなかったに違いない。 ぎりぎりだった。 本当に、目と鼻の先を、バイクが通過していった。 ぎりぎりで、私は、死ななかった。生きていた。 生と死の境界を、今度こそ、私は渡りかけたのだった。 光が通り過ぎる。 バイクの乗り手を今度こそ確認しようと目を凝らし――同時に、私の視界は遮られた。 光で、ではない。バイクの乗り手が何かしてきたわけでもない。 ただの自然現象だ。 高速でバイクが水溜りを通過したことによって、泥水が跳ね、跳ねた泥水が私の全身を襲ってきたのだった。 頭からつま先まで、一瞬で、泥水まみれになった。 反射的に目をつぶって助かったものの、髪から垂れる泥水のせいで、目をあけることができなかった。 遠ざかってくバイクの音と、遠くから近づく雷の音を聞き取ることしか、できなかった。 私を殺しかけた人間か誰かも、そのナンバープレートも、私は知ることができなかったのである。 「――蓮子!」 「――――…………」 メリーの悲愴な声に、私は応えられなかった。私は無言だった。何も言えなかった。 冷静に、とはとても言えない激情を以って、私は今起きた事を淡々と判断していた。 命は助かった。命だけは。 代わりに、私は下水に住むドブネズミのように、全身泥まみれのびしょぬれになったのだ! 身体に濡れていないところなんて少しもなかった。服に守られた下着まで、ぐっしょりと濡れているのが感触で分かった。 私は傘も差さずに呆然と立ち尽くした。傘を差す意味はなかった。雨は相変わらず降り注いでいたが、もう意味を成さなかった。傘があろうがなかろうが、濡れていることには変わりない。むしろ、泥水を流し落としてくれるだけ、雨水のほうがまだ良かった。 遠くでは雷が鳴っていた。さっきの雷がまだ頭の中に残っていて、ぐわんぐわんと輪唱して聞こえるような気がした。 あの雷が直撃すれば、楽になれるな――そんなバカげたことを、思わず考えてしまった。 少なくとも、今の自分のみっともなさとか、洋服のクリーニング代とか、その他もろもろのことを考えずにはすむ。首を絞められるよりは雷にうたれたほうが楽に死ねるだろう。雷が神の怒りだというのならば、むしろ優しさを以って私におとしてくれればいいのに! しかし神は優しくも怖くもなかった。何も起こる様子はなく、私は濡れ鼠のまま、ただただ立ち尽くすだけだった。 「蓮子、ねぇ蓮子! 大丈夫?」 心配そうなメリーの声。幾度となく私の名前を呼んでくるメリー。もちろんその声は耳まで届いてた。けれど三半規管で蹴り飛ばされ、私の脳までは届いていなかった。 殺されかけたショックで頭が動かない? 間違ってはいない。 恐ろしくて声も出ない? 後半はあってる。 声は出なかった。ただし、殺されかけた恐怖で、ではない。 純粋な怒りで、だ。 私の心にある言葉は一つだった――どうして私がこんな目に!? 殺されかけるのは、まだ分かる。メリーは殺人現場を見てしまったのだし、私はメリーのパートナーだ。本当かどうかはともかく、狙われる理由は十分にある。 だが、しかし、それでも、だ。いくらなんでもこれは酷い。私とて情緒あふれる、思春期の多感な女の子だ(自分で言うのもあれだけれど、間違ってはいない。否定する人がいたら――本当に女の子? とか言ってきてたら――迷わず私は本の角で殴りつけるだろう。背ではなく、角で)。髪から足までびしょぬれになって、何も思わない方がどうかしている。 ほんのちょっとだけ、泣きたかった。 が、泣き寝入りするつもりは少しもなかった。涙の量を乗算したような怒りが、頭よりも下、腹のあたりで煮えたぎった怒りが、ふつふつと昇ってきた。 自分でも意識せずに、肩が震えた。堪えきれない怒りが身体を衝き動かしていた。堪える気もなかった。 心配そうな顔をしていたメリーが、小さく震える私を見て、不思議そうに首をかしげた。 「笑ってるの?」 「怒ってるのよ!」 迷わずチョップを繰り出す。目の前にある、ほわほわした頭にだ。 傘でうまく防いだのか、メリーはほとんど濡れていなかった。代わりに、傘からは泥水が滴り落ちていたが。目立つ怪我もなかった。怒っていない私の一部分が、彼女が無事だったことに安堵していた。 メリーは、痛い痛いと呟きながら頭を押さえ、それでも笑って、 「泣いてるよりマシね」 「誰が泣くもんですか! いーわよ見てなさいよ行くわよメリー!」 「見るの? 行くの?」 「茶々を入れない! 両方よ! もう怒った回りくどいことなんてするもんか秘封倶楽部を馬鹿にしたらどうなるか思い知らせてやる真っ向から乗り込んでやる秘密が封じられてるなら暴いて捌いて晒してやる!」 一気にまくし立てる私を見て、メリーは目を丸くした。 けど、そんなメリーに構っている暇はなかった。やるべきことは決まった。善は急げ、全ては急げ。何はともあれ急ぐしかない。やることが決まったのなら、やるだけなのだ。香霖堂が消えてしまった件も気になったが(これはこれで、不思議と秘密のにおいがした。秘封倶楽部の今度の活動は、香霖堂探しだ!)、今はそれよりもこっちを片付けるのが先だ。 私はポケットから携帯を取り出し、電話録に登録してある番号を呼び出してダイヤルした。今度は圏外ではなかった。プルルルル、という聞きなれた音が耳に届いてきた。 突如動き出した私を見て、メリーは小さく、嬉しそうな溜め息を吐いた。 「なによ、笑ってるじゃない。変な蓮子!」 彼女の声はとても楽しそうだった。私も楽しかった。 怒ってはいたが、楽しかったのだ。ようやくいつもの自分らしさを取り戻した気がした。受身なんて似合わない、積極的に首を突っ込んでいく、それが私たち秘封倶楽部だったはずだ。 自分では笑っているつもりはないが、メリーが言うからには、きっと私は笑っているのだろう。こんなに楽しいのだから、笑っていても仕方はない。電話をしていなかったら、声に出して笑っていたかもしれない。 受身は似合わない。逃げ回るのも。 むしろ、こっちから追い回すくらいの勢いで、私たちは動くべきなのだ! 殺人? バイク? 鬼や天狗の方が何倍も怖い! もし今目の前に犯人がいたら、私は人差し指で犯人をびしっと指して、こう叫んでいただろう。 ――秘封倶楽部をなめないでよ! 電話は犯人ではなく、私の友人へと繋がった。 「あ、もしもし? あのね――」 叫ぶ代わりに、手短に用件を伝える。 どある事情で貴方と貴方の妹の制服二着を借りたいこと。今すぐ、可能な限り早く持ってきて欲しいこと。持ってくる場所は家ではなく指定した場所であること。 友人は、ケーキ二個と代返一回で手を打った。 ああ、なんて素晴らしい友人だろう! この事件が無事に終わったら、二個どころか好きなだけケーキをおごってあげよう(ただし、バイキングでならだ)。無事に終わらなかったときは……まあ、考える必要はないだろう。その時には考えるべき脳ミソは灰になっているはずである。 電話を切って、携帯電話をポケットにしまった。本と携帯電話が完全防水で良かったと、この時ほど思ったことはない。 にこにこと笑っているメリーに私は詰め寄って叫ぶ。 「メリー、メリー、メリー!」 「一度言えばわかるわよ、もう。で、なぁに?」 「行くわよ」 「どこに?」 ――秘密を暴きによ! 格好よくそう言えれば良かったのだが、私はびしょ濡れのままだった。このまま行ったら間違いなく追い返されるだろう。それ以前に、部外者をあっさりと通してくれるはずはない。 それを言うのは、もう少し後だ。 代わりに、私は人差し指をピンと立て、間近からメリーの瞳を覗き込んで、こう告げた。 「コインシャワー」 ……あとになって、私は思うのだ。 もしこの時、素直に警察に電話をしていたら? あるいは、全てを忘れて、家に帰っていたら? 熱いシャワーをあびて、温かいスープでお腹を満たし、お酒を飲んで、ふかふかのベッドに横になっていたら? 事件を解決しようとせずに、秘密に首を突っ込もうとせずに、おとなしくしていたら? 事態は一体どうなっていたのだろうか。 私は事件の真相を知ることはなかっただろう。真犯人の存在を知ることも、そもそもこの事件がいったいどういう事件なのか、そのことに気づくこともなかっただろう。後味の悪い思いをしなくて済んだだろうし、一人の女性の傷をえぐることもなかっただろう。 退屈で平凡な、けれども危険のない生活が続いただろう。そして――きっと私は、行動しなかったことをいつの日にか後悔したに違いない。マエリベリー・ハーンという友人は、私の元から消えてしまったに違いない! ……どちらの方が良かったのか、私には判らない。 けれど、『もし』なんてものはありえないのだ。この世界に『二回目の機会』は訪れることはない。 たとえその機会が訪れたとしても――私が秘封倶楽部である限りは、まったく同じ選択をしただろう! ◆ ◆ ◆ ×月××日 一日中雨。止む気配はまったくない。 ……いつまでも続くわけがないと、私は解っていた。 解っていても、解らないふりをして、ずっと続けていた。 それも、今日、終わってしまった。 終わってしまったのだ。 ずっと降り続く雨音の聞こえる中。 彼女は私の部屋にわざわざ来てくれた。 来なくていいのに。そう思ったのはその時が初めてだった。 「貴方にだけは、ちゃんと言わなきゃいけないと思ったの」 止めて。私はそう言おうとした。声にならなかった。 私が黙っているのを、彼女はきっと、肯定と受け取ったのだ。 私がどんな気持ちでいるか――彼女はきっと、気づかなかったに違いない。 気づいていたら、あんな残酷なことは、言えないだろうから。 「私ね、もうすぐ居なくなるの」 がらがらと。 私の中で、大切なものが崩れ落ちる音が、はっきり聞こえた。 ……。 …………。 そこから先は、よく覚えていない。 私はただただ、バカみたいに頷いて話を聞いていたんだと思う。 そのくせ、話の内容だけはしっかり覚えていた。 卒業を待たず実家に帰らないといけないこと。半ば結婚が決まった見合い相手が待っていること。実家の言葉には逆らえないこと。短い間だけど楽しかったこと。サークル活動をずっと続けていたかったこと。私と別れるのが寂しいこと。 「――でも私、貴方と出会えて、友達になれてよかったわ――」 最後に、そんなことを言って、彼女は私の部屋から出て行った。 何も考えられなかった。 窓の外で鳴り始めた雷の音も、まったく気にならなかった。 ただただ、音が頭の中で響いている。 がらがら。 がらがら。 がらがら。 ◆ ◆ ◆ お湯が熱い。 水が熱い、なら矛盾しているけれど、お湯が熱いのは当然だ。少しばかり熱すぎる気もしたけれど、冷えた体にはそれが丁度良かった。 コインシャワーは、その名前の通りに、ワンコインで使えるシャワールームだ。もっともルーム、というには狭すぎる。棺桶を縦にしたような形で、満足に両手を広げることもできない。 とはいえ、狭すぎるというほどでもない。私は壁の一角に寄りかかるようにして立ち、手のひらに洗髪料を出す。。お風呂セットもコイン一個。シャワールームの外で今もうんうん回っている洗濯機兼乾燥機と合わせて、コイン三個の出費になった。安い、ということはそれだけで素晴らしい。安くて綺麗で使いやすいんだから、狭いことくらいはガマンするべきだ。 扉の向こうから聞こえるメリーの声を、私は髪を念入りに洗いながら聞いた。 「蓮子。貴方のお友達が来てくれたわよ」 「ん――」 口を閉じたまま返事をする。 私の返事が聞こえたのか(あるいは最初から返事を待つ気がなかったのか)メリーは独り言のように話を続けた。 「彼女、言ってたわよ、『蓮子をよろしく』って。別によろしくするようなことはないんだけれど。あ、そうそう。彼女、紙袋置いて帰っちゃったよ。見たいテレビがあるんですって。雷で電線が断線していなければいいけれど」 髪についた泡をすべてお湯で流し、今度は身体を洗う。首筋から下へと、形の良く出た鎖骨を通って、腋や胸を下り、足のつま先まで。こういうとき、余計な肉がついてない自分の身体に感謝する。もし関取のような体つきだったら、シャワールームで一歩も動けなかったに違いない。 もう少し、つくべきところに肉がついて欲しいけれど。 自分の身体をちらりと見下ろし、そのあまりの凹凸のなさに、思わず溜め息を吐いた。この歳でこれというのは結構な絶望だ。これ以上育つことはない、と暗に主張している気がする。絶対に認めたくは無いが、メリーが少しだけ羨ましい。 「でもこれ……蓮子、どういうつもりかしら?」 扉の向こうから聞こえてくるメリーの問い。 メリーの言う「どういうつもり」が、いったい何を指しているのか、私には判っていた。 メリーは見たのだろう。私の友人が持ってきた紙袋の中身を。 紙袋の中には、制服が二着入っていたはずだ。鴉色のセーラーと、赤いリボン、黒いソックス。典型的な女学生の制服。私の友人と、その妹が通っていた学校の制服だ。 そして、それは同時に――今日聞きこみを行った生徒たちの制服と同じものだ。 殺人が起きた女子寮に通う生徒たちと、まったく同じ制服だ。 制服のデザインが、年毎に変わらなくて良かった。私の友人はもう何年も前に卒業しており、その数年の間で制服デザインが変わっていたら、せっかく持ってきてくれた制服は役に立たなかった。 どういうこと。それはつまり、この制服を着て、いったい何をするつもりか、ということだ。 私は平然と答えた。迷いのない、はっきりとした断言を下した。 「決まってるじゃない。――忍び込むのよ」 「それってつまり、忍者ごっこかしら?」 ほわわんとしたメリーの声。 ――あ、現実逃避してる。 そのことはすぐにわかった。メリーは別段頭が悪いわけでもない。本当ならば、制服を持ってきた時点で意図を察していたはずだ。それでも私に尋ねてきたのは、きっと否定されたかったからだろう。それは間違っている、と。メリーの頭にある仮説は間違いであり、私ははもっと平和的なことを考えている。そう思い込みたかったのだろう。 残念ながら、それはハズレだ。 私はシャワーのノズルをきゅっと締め、メリーが一番聞きたくないであろう答えを返した。 「場合によっては正面突破よ」 水の音に遮られなかったせいか、思ったよりも大きな声が出た。聞こえるのは、かすかに反響した自分の声と、ぽたぽたと水の滴る音。 それから、扉の向こうで、メリーが溜め息をついた声。 ――あらあら、仕方が無いわね。まあいつものことだし、付き合ってあげるわよ。行けばいいんでしょ、行けば。もう、蓮子ったらいっつもこうなんだから! でも安心しなさいな。一緒に行ってあげるわよ、ちゃんとね。 私の被害妄想かもしれないが、メリーの溜め息には、そんな意味が混ざっていた。付き合いが長ければそれくらいのことは分かる。 そっくりそのまま言い返したいのを、私はぐっと堪えた。 短く、必要なことだけを言うことにする。 「メリー」 「なーにー」 「……。何その気の抜けた返事は?」 「美味しいのよ、このココア。たまには自販機の、」 「買い食いしない! だいたい、糖分だらけのそんなモノ飲んでたら太るわよ?」 この場合は買い飲みだろうか? いや、そんな些細なことはどうでもいいのだ。 些細ではなく、『些細なこと』で終わらせることなどできない重大な問題は、メリーの返事だった。 「蓮子は少しお肉をつけた方がいいんじゃないかしら?」 「――――」 沈黙。 ひしひしと嫌な予感だけがする。 不穏な雰囲気をまったく感じさせない、のんびりとした声でメリーが言う。 「ほら、む」 「それ以上言ったらスマキにしてスキマに叩き込む」 沈黙。 今度はメリーが黙り込んだ。 当たり前だ、私の言葉には、一片たりとも嘘は含まれていない。やるって言ったらやる。絶対にやる。もしメリーが「ね」の文字まで言ったのならば、私は彼女をぐるぐる巻きにして、彼女が見る境界のスキマに投げ込み、ついでに生ゴミと粗大ゴミと燃えないゴミを投げ込んで、油とガソリンでひたして、それから火炎放射器のノズルをひねってこう叫ぶだろう。 ――さようなら愛しのメリー! 今度から秘封倶楽部の入部条件に体型を加えることにするわ! 残念なことに(喜ばしいことに? さて、どっちだろう)私の愉快な妄想が実現することはなかった。さすがのメリーもまだ死にたくはないらしい。 私は、よろしい、と呟いてから、 「メリー」 「な、なぁに?」 「乾燥機止まった?」 「ええ、ついさっき」 「なら下着と、制服持ってきて。乾いた服は畳んで紙袋の中ね」 「はいはい、分かりました蓮子お嬢サマ。今お召し物をお持ちおいたしますね」 「おいたし、とは言わない。それにはいは一回よ」 「は〜い」 長々とした返事の後、扉の向こう側でがさごそとメリーが動く音。乾燥機のフタを開け、下着をひょいひょいと手にとって、制服の間に挟みこむメリーの姿が容易に想像できた。 乾燥機が置かれている待合室には誰もいなかった。こんな雨と雷の日に、わざわざ外に出てくる人なんてそういないんだろう。ましてや、その雨の中びしょびしょに濡れてしまうような人は。 まぁ、だからこそ待合室と更衣室の扉を開けっ放しにして、喋れたんだけど。 「ここ、置いとくわよ?」 すぐ近くからメリーの声がする。 更衣室にいるのだろう。扉一枚向こう側に。 「扉、閉め忘れないようにね」 一応念を押す。 もしメリーが扉を閉め忘れた場合、通行人から私は全裸を見られることになりかねない。そんなことになれば、私はさっきの妄想を実現して、その上で私も一緒に死ぬことだろう。 「解ってるわよ」 声と同時に、扉が閉まる音。 その音を確認してから、私はゆっくりと扉を開け、棺桶のようなシャワールームの外に出る。 メリーの言葉どおり、扉はきちんと閉まっていた。 棺桶よりは広く、しかし広いとは言えないような更衣室。その半分は洗面台が占めていて、鏡には私しか映っていなかった。 ドライヤーが一台だけ設置してあるのは、管理人の良心だろう。 扉の側には、制服と下着、それに私の帽子が置いてあった。 私はあらかじめ買っておいたタオルで手早く身体を拭いた。こういうことは手早くするに限る。アクシデントにそなえて、更衣室の鍵を閉めるのも忘れない。うっかり着替え覗いちゃいましたイベントは、前世紀の化石となるべきだ、うん。 一通り水を落とし、白のショーツを穿いてから髪を乾かす。できればドライヤーは使いたくなかったのだが、そうも言っていられない。ここは自宅とは違うのだ。自然に乾くのを待つ時間もない。 そう――もう時間はないのだ。 星と月が見えないとはいえ、時間を知る手段は他にもある。古道具屋で買った時計が示す時間は、コインシャワーにたどり着いた時点で六時過ぎ。今この瞬間には三十分を越えているはずである。移動時間も考えると……ぎりぎりと行ったところだ。 恐るべきことに、女子寮には、『門限』というものがあるのだから! いったい幾つだと思ってるんだ、と思ったが、よく考えれば私たちは幾つになろうと子供のようなものである。危ないところに自ら首を突っ込む秘封倶楽部など、その最たるものだ。教師側が門限という規則を作って縛りたがるのも無理はない。 縛れば縛るほど、抜けたくなるのも世の常だけれども。 きっと、女子寮には門限を破る方法がいくつもあるのだろう。正面玄関以外にも、入るべき手段は存在するはずだ。 しかし、私たちはそれを知らない。偶然見つけることができればその手段で入るが、そう簡単にはいかないだろう。 門限が迫った時間――つまり、多くの生徒が帰ってくる時間。それに紛れ込んで正面から入るのが、一番さえたやり方だ。 あまり悠長にしてる時間は存在しないのだ。 時は金なり、どころの話ではない。私ならこう書くだろう――時は今なり、と。『今』よりも大切なものがあるとしたら、是非とも教えてほしいものだ! 「着替え、終わった?」 「もう少し」 答えながら私は着替えを続ける。使い終わったドライヤーを机に置き、白の和製ブラを身に着ける。白いシャツばかり着るので、派手な色のものだと透けてしまうのだ。たとえ透けないとしても、メリーの使っているような紫の下着など、使いたいとも思わないが。 丁寧に畳んである、白のブラウスと鴉色の制服を手に取る。サイズから、それが友人のものではなく友人の妹のだとわかった。友人の体型はメリーに近く、その妹の体型は私に近い。その事実が暗に示していることを、私は意図的に無視した。 何も考えないようにして、ただただ無心で制服を着る。紅色のスカーフはいつものネクタイと勝手が違い、少しだけ戸惑ってしまった。 全てを着終え、鏡の前に立つ。 久しぶりに身にまとう制服は懐かしく、少し昔に戻ったような気さえした。 夜色のプリーツスカートとセーラー、赤いスカーフに紺のニーソックス。いつもの帽子だけが『宇佐見蓮子』を主張していた。 どう見ても女学生にしか見えないのが、嬉しさ半分悲しさ半分といった感じだ。 「蓮子、着替え終わった〜?」 「終わったわよ。今出るからちょっと待って」 使い終わったタオルと洗髪料をゴミ箱に捨てて、私は扉の鍵を開け、待合室へと出る。 メリーは座って私を待っていた。ゆったりとした椅子に深く腰掛けて、扉の方をじっと見ていた。着替え終わった私が出てくるのを、今か今かと待ち受けていたかのように。 「まぁ! 似合ってるじゃない蓮子。本物みたいよ」 「ありがとメリー。貴方は……ちょっと無理がある気もするわ」 感嘆の声をあげるメリーに、私はお礼を返す。 メリーも、私と同じように、着替え終えていた。シャワーを浴びている間に更衣室を使ったのだろう(さもなければ自販機の陰で着替えたに違いない。メリーならやりかねない)。 お世辞にも『似合ってる』とは言えなかった。ひと言で言うならば『ぎりぎり』だ。卒業間際の三年生、と言ってぎりぎり通用するかどうか、といった感じだった。全てはメリーの発育が悪い。制服を無理矢理着ている感がどうしてもそこにはあった。 それでも『似合っていない』わけでもないのが、メリーの不思議なところだった。似合っているのと似合っていないの境界線上、本当にぎりぎりのところにメリーは立っていた。ほんの少し傾けば下品、コスプレと言われかねないのに、そんな雰囲気は微塵もなかった。 人徳の成すものだろう、きっと。メリーののんびりとした雰囲気も理由の一つだろう。 「まあでも問題はないわ。行くわよ、メリー」 「……ホントに行くの? 怒られないかしら」 「怒られるでしょうね、きっと。でも見つかれば、よ! それに大義はこっちにあるわ」 「大義?」 「『封じられた秘密は破るためにある』」 「…………」 「最悪指差して『貴方が犯人だったんですね』って言うわよ」 そう――乗り込むのだ。 事件があった女子寮へと。 それはつまり、犯人がいるかもしれない女子寮に乗り込むということだ。私を轢き殺そうとした誰かさんも、ひょっとしたらそこにいるかもしれない。危ないと言えば危ない。 が、危ないのはいつものことだ。メリーと一緒に境界をくぐるとき、その奥にはいつも危険がある。 危険と、未知の何かが! その何かのためになら、多少の危険は何とやら、だ。恐れて動かなかったら、何も始まらない。 私は――私たちは、秘封倶楽部なのだから! 「覚悟は決まった、メリー?」 「決まってなくても行くんでしょう?」 「その通り。さぁ行くわよ――」 言いながらメリーの前に立ち、私は本を手に取った。本を模った日記帳。私の全てが載っている日記。 この日記に『こうして事件は無事に解決を見せたのだった』と書かれるときは、もうすぐそこまで近づいている。 メリーも立ち上がり、私の瞳を間近から覗き返してくる。 私はピンと人差し指を立て、帽子の鍔を指で弾いて、今度こそ決め台詞を言った。 「――秘密を暴きに!」 ◆ ◆ ◆ ×月××日 豪雨 時折、雷 あれから、何日経ったのか、よく覚えていない。 ずっと雨が降り続いているのだけは覚えている。 そんなに日にちは経っていないはずだ。 よく、分からないけれど。 あの日以降。私の世界からは、色が完全に消えてしまっていた。 ずっと雨が降っている。外にも、自分の中にも。 降り続ける雨が、私の中を、真っ黒に染めていく。 何も考えられなかった。 何も感じられなかった。 居なくなってしまう。会えなくなってしまう。 そのことだけが、ぐるぐると、私の頭の中で回っていた。 ぐるぐる、くるくると。 ゴールのない迷路のように。滑車を回すネズミのように。 どうしようもないものをどうにかしたくて。 それでもどうにもならなくて。 私は、ずっと悩み続けていた。 そして――ひと際強い雷が、すぐ近くに落ちた瞬間。 天啓のように、私はひらめいた。 解決策を。 ぐるぐると、くるくると、狂々と回る思考から、抜け出す方法を。 それは、ひどく簡単な方法だった。 そして、酷い方法だった。 けど、私にはもう、それしか残っていなかった。 彼女はいなくなる。 私だけが残される。 私一人だけが残り、彼女は行ってしまい、私は独りになる。 なら――止めればいい。 止めてしまえばいい。 両手両足を縛りつけ、二度とどこにも行けないようにすればいい。 荒っぽく、私らしくない方法だ。 それでも、それしかないなら、するだけだ。 彼女を何処にも行かせない。 ――たとえ、殺してしまうことになったとしても。 |
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↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑ ◆あとがき◆ 前編も終わり、残るは後編。 名探偵、皆を集めてさてといい――ついに解決編です。 GO TO {F/3} succeed one another from past to present to future |
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