1 墓参り
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 ――幼い頃、妖怪と友達になったことがある。


 そう言うと、大抵の人は笑った。笑わなかった人は、心配するか怒るかのどちらかだった。本気に受け取った人などいなかった。次第に僕もそのことを人に話さなくなった。ニ、三度酒の席の冗談として飛び出ただけで、それすらも最近は無くなった。
 僕自身ですら、最近はあれが夢だったのか、幻だったのか、はっきりと覚えていない。記憶が薄れるにつれ、自信はなくなっていく。最近ではもう、そのころの記憶を思い出すことすらなくなっていた。
 今、こうして田舎へ向かおうと決意して――ようやく思い出したくらいだ。
 駅のホームはどこまでも寂れていた。
 僕以外には、人がちらほらとしかいない。それもそうだろう、こんな朝早く、しかも今ではほとんど使われていない地方線の列車に乗る客が多いはずがない。少し離れたところに出来た、近代的で大きな沿線を使うのが普通だ。
 けれど、大きな線路は、大きな町しか通らない。
 僕が向かうのは大都市ではなく、その逆、田舎の果てなのだから。
 コンビニエンスストアが一軒もないような、一日二回しか列車が止まらないような、そんな田舎だ。懐かしき故郷、我が祖邦。そこへ僕は向かっている。
 汽笛が鳴った。朝霧が濃いせいで、それは霧笛のように感じた。まるでハインラインが書いた小説の一シーンだ。人気のないホーム。朝霧の中、顔を現す古びた列車。荷物も持たず、開襟シャツとコールテンのズボン姿で立ち惚ける青年。
 ハインラインよりは筒井かもしれない、そんなことを僕が思うと同時に、目の前で列車の扉が開いた。
 嬉しいことに、自動扉だった。
 驚くべきことに、木製扉だった。
 過去と現在が奇妙に入り混じった列車。なら向かう先は未来か? あるいは宇宙へ?
 けれど僕の胸ポケットに入っているのは、黒いカードでも本の栞でもない。1350円分の片道切符だ。田舎からさらに田舎へと続く道。
 扉が閉まる。カントリーロードを逆走するかのように、列車は動き出す。がたん、ごとんという重い機械音と共に、横殴りの重圧がかかる。真下に向いていた引力が、少しずつ後ろに流れていく。
 駅員しかいなかったホームが、そして僕らの家が、彼方へと置き去りにされていく。
 列車は進む。客の意志を乗せて。何もかもを置き去りにして。
 がたん、ごとん。
「“さらば我が祖国、永久に”――」
 いつかどこかで読んだ詩の一説を口ずさみ、列車の中をくるりと見回した。
 面白いくらいに、人がいない。
 三車両の列車、その真ん中に僕はいる。そしてその車両には僕しかいない。隣の車両には運転手、反対側の車両には車掌。
 客は僕を合わせて三人。でっかいバッグを持った厚化粧の女が前の車両に、この夏の暑い中厚着をした老人が後ろに。
 どう考えても訳有りで、積極的に関わりたいとは思わなかった。
 そこまで考えて、僕は苦笑する。彼らから見れば、僕も『訳有り』に見えるに違いないことに気づいたからだ。
「……か、けほっ」
 笑いとともに、小さく咳込む。咳の声は小さくて、列車の奏でる重低音によって、たちまちのうちに掻き消された。
 目立つのが嫌で、僕は適当な席に座った。列車の座席はボックス式で、僕が座った席は対面掛けで四人座れる席だった。荷物も何もないので、ゆったりと座れる。
 ただ、弁当か本くらいは持ってくるべきだったかもしれない。しばらくすれば腹も減ってくるだろうし、しばらくしなくても暇だった。
 まあいい。ポケットの中には財布とお金がある。機会があれば買えばいいし、なければ諦めればいいだけのことだ。
 椅子に深く座りなおし、閉じた窓の向こうを見た。
 朝霧は消え、朝日が昇ってきていた。斜光が目に入るが、眩しいというほどでもない。徐々に明るくなり、比例する速度で暑くなってくるだろう。
 真夏の一日が始まる。
 鉄筋コンクリートのビルが、大勢が密集して暮らすマンションが、客が減って潰れかけたデパートが、茶色いレンガ屋根の家が、朝日に照らされていく。舗装された道を走る車たちが、信号機に操られるようにストップ&スタートを繰り返す。
 いつもと変わらない町なみ。その全てを置き去りにして、列車は進む。
 安普請な椅子は、列車の振動を吸収してくれない。がたんと音が鳴るたびに跳び、ごとんと音が鳴るたびに沈む。その繰りかえし。乱暴なゆりかごに座っている気分。
 革靴で床を強く踏むと、小刻みに列車の振動が伝わってくる。今さらながらに、僕はこの列車が、時速60キロで走っていることを自覚する。未来に行くには、240キロばかり足りない。何キロあれば、過去へ行けるだろう?
 ――あの暑い夏の日。妖怪と遊んだ子供時代へと、戻ることができるのだろうか?
 虚しい仮定はすぐに終わった。というよりも、強制的に終わらされた。別に列車が事故にあったとか、目的についたとか、車掌が突然暴れて乗客を襲い始めたとか、そういう劇的な理由じゃない。
 たんに、睡魔を堪えきれなくなっただけだ。
 かは、ともう一度咳をして、僕はブラインドを下げた。夏の光は、まどろむには強すぎた。
 固い背もたれに頭を埋めて瞳を閉じる。
 羊を数える必要は、まったく無かった。あっという間に、僕は眠りの世界へと堕ちていく。


         †   †   †


 ずずず、と茶をすする音。見れば、藍色の作務衣を着た老人が、湯飲みを傾けていた。

 ――すぐに夢だと気づいた。

 何故って、今僕の前で茶をのんでいる祖父様は、もう十年も前に死んでいるからだ。縁側に座って、庭の盆栽を見ながら、おいしそうに茶を飲んでいる。
 隣に座る僕はといえば、あの日と同じ五歳のままだ。小憎たらしい、幸せそうな餓鬼。一年後、小学校に入ると同時に都会へと引っ越すことを知らない僕。半年後、大好きな祖父が死ぬことを知らない僕。
 幼い僕は、暑い茶を呑みながら、縁側に垂らした脚をぷらぷらと揺らしていた。背が小さすぎるせいで、地面まで脚が届かなかったんだ。
 夢の中とはいえ、幽霊にでもなったような気分だった。すでに死んだ祖父様と、取り戻しようのない過去の自分が喋るのを、映画か劇か何かのように眺めているんだから。
「タクぅ」
 祖父様が名前を呼ぶ。卓真、の「ま」を抜かして呼ぶ、祖父様だけの呼び名。語尾が尻すぼみで、下手すれば『タクウ』と言ってるように聞こえた。
 幼い僕――タクは、祖父様の顔も見ずに、盆栽を見つめて答えた。
「なんよ」
「妖怪に会ったンか」
 その言葉に、タクは顔を上げる。
 祖父様は、タクを見ずに、盆栽と塀の向こう、遠くに続く山を見ていた。神社もないのに鳥居だけがある山。神隠しの噂がある山。立ち入り禁止の山。
 そして、僕がこっそりと登り、妖怪と遊んだ山だ。
 立ち入り禁止の場所に入りたがるのは、子供たちの常識だった。無論、僕もその例外ではなかった。
 母親にあっさりとばれて、こっぴどく叱られてからは、二度と昇ろうとはしなかったけれど。
「じっさまも疑うんか」
 タクは祖父様の顔を睨みつけて言う。険しい声にも、祖父様はひるまなかった。遠い山々を見つめたまま、
「わしゃ信じとる。信じとるから聞くが――どンな妖怪じゃったか」
 祖父様の言葉に、タクは同じように山を見つめた。
 縁側からでは、鳥居は見えない。鳥居へと続く道も、幼い子供の妖怪も。一日限りの友達の姿は、そこからでは見えなかった。
 山を見つめたまま、タクは言う。
「覚えとらん」
「ほぅか」
 湯飲みを縁側へと置き、祖父はゆっくりと首を傾けた。その視界の先、タクは彼方を見ている。
 彼方を見るタクを、祖父様はじっと見つめて言う。
「二度と昇っちゃならね。戻ってこれのうなる」
 声にも、瞳にも、ふざけた色はなかった。心底から真剣なものだった。
 タクは祖父を見ようともせず、返事の代わりに茶をすすった。
 ずずず、という間抜けな音。
 祖父は肩を竦め、ため息を共に縁側に置いた湯飲みを手に取り、タクと同じように啜ってから言う。
「暑いなぁ、タクぅ」

 ――それが、僕が聞いた、祖父の最後の言葉だった。

 半年後、祖父様は死んだ。寿命。大往生。通夜の席でぼろぼろと泣く両親の姿を覚えている。
 祖父様の骨は、山にある墓へと収められた。
 言葉どおり、祖父様は、二度と戻ってはこなかった。


        †   †   †


「――もし」
 声をかけられて、微睡みから目覚めた。投げかけられた女の声は細くて、大声で怒鳴り起こすような声ではなかった。目覚まし時計に起こされる数百倍も心地良い目覚め。
 小さな声で目が覚めたのだから、深い眠りではなかったのだろうか? 夢まで見たというのに。それとも単に、目覚めかけていたのかもしれない。
 僕は瞳を開ける。眠っていたせいか、視界がぼんやりした。ぼやけた視界の中、ボックス席の隣に人影があった。明瞭としない。声がなければ、男か女かすら判らなかっただろう。
 ぼやけた目を僕は手でこすり、
「あら。目を悪くしますわ。――失礼」
 す、と。女の手が、僕へと伸びた。近くまで寄ったことで、その手に白いハンカチが握られていることを知った。
 白いハンカチが、僕の目へと添えられる。目蓋の向こうに、絹の感触があった。
 女の手は優しく動き、目じりに溜まったゴミと涙を拭い取っていく。
「はい、お終い」
 始まりと同じくらいに唐突に女の手が離れていった。そのことを、僕はなぜか残念だと思ってしまった。絹のハンカチから、良い匂いがしたせいかもしれない。甘い蜜のようなにおい。
 ハンカチが離れれば、そこには正常な視界があった。
「あ、ありがとうございます、」
 言って、改めて声の主を見上げた。
 言葉に詰まった。
 視線の先、微笑む女性は、少女と言ってもおかしくはない年頃だった。体躯は小さく、顔は明らかに少女のそれだ。
 ただし、雰囲気だけが違う。白と紫のドレスに身を纏い、波打つ金の長い髪を持つ少女は、見方によっては童女にも妖艶な女にも見えた。雰囲気がひどく曖昧で一定しない。
 どう見ても日本人ではない。
 そのせいだろう、と僕は自分の心を納得させる。外国の子供は、年が酷く分かりづらい。少女は一人きりで、家族と一緒という風でもない。見た目が幼いだけで、とうに成人している可能性だってあった。
 もっとも、それはそれで謎は残る。
 外国の少女が、なぜこんな田舎へ向かう列車へと乗っているのか。まさか里帰り、というわけではないだろう。少なくとも僕がいたころは、こんなハイカラな服を着た人はいなかった。
 僕が疑問につつまれ、何も言えずにいると、少女はつ、と絹の手袋に覆われた指先で椅子を差した。
「前。よろしいですか?」
 茫然とした思考に、あたらな疑問が浮かび上がる。
 なぜ、こんながらがらの列車の中で、よりにもよって相席しようとするのか。
 そう問おうとして、
 ――がは、と。
 嫌な咳がでた。無理な姿勢で寝ていたせいか、先よりも大きな咳だった。
「すいません」
 一言断って、僕は右手を口にあてる。もう一度大きな咳が出た。苦しくて、体をくの字に曲げてしまう。90度ずれた視界の中、少女がハンカチを突き出そうとしているのが見えた。
 それ以上迷惑をかけるが癪で、僕は無理矢理に体を起こした。もう一度咳が出ないことを祈りながら。
 祈りが神に(あるいは誰かに?)通じたのか、咳はぴたりと止まってくれた。喉がかすかに痛みを訴えていたが、無視できる範囲内だった。
「大丈夫でしょうか?」
 少女の問いに、僕は右の掌をズボンで拭きながら答える。
「少し具合が悪くて……いえ、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
 言って、少女は僕の前の席に、向かい合うようにして腰かけた。
『具合は大丈夫』を、『座っても大丈夫』と解釈したのだ――と気づいたときには遅かった。ひょっとすると、少女はすべて分かっていて、わざと勘違いしたふりをしたのかもしれない。どっちにせよ今さら遅かった。少女は腰をかけ、手にもった傘を手すりにひっかけ、幾度か座りなおしてスカートを弄くっていた。
 まさか、退いてください、とも言えない。
 僕は黙り、少女は笑って、帽子をとって膝の上に乗せた。長い金の髪がふわりと広がる。
 大人びた仕草と、幼い笑み。
 その二つに惑わされて、僕はなにも言えなかった。
「ブラインドを開けますわね」
 それは質問ではなく確認だった。僕の答えを聞かずに、少女はブラインドを固定していた留め金を外した。
 バネの勢いで、するするとブラインドが上がっていく。
 窓の向こうは、いつのまにか姿を大きく変えていた。
 建物が消えた。代わりに田んぼが増えた。大きなビルの代わりに、巨大な山々が見えた。電線がめぐらされていた空には、野鳥が群れを作って飛んでいた。車の代わりに、舗装されていないあぜ道を、プールバックを持った小学生が二人走っていた。
 その全てにつつまれて、列車は走っている。
 けっして置いてはいけない。どこまで走っても、景色に変化はない。山と空と田んぼがどこまでも続いている。置き去りにするのではなく、奥へ奥へと列車は進む。
 ――田舎に、帰ってきたのだ。
 ようやく、そのことを実感した。田舎へと、故郷へと、僕は帰ってきたのだ。
 目に映る景色は記憶のそれと何一つ変わってなくて、列車が過去へと進んだといわれても信じてしまいそうだった。 
 懐かしさが心に満ちる。わけもなく、泣き出しそうになってしまう。
「いい天気ですわね」
 僕と同じように、外の景色を見ながら少女は言った。
 言葉の通り、いい天気だった。これ以上ないくらいに晴れた夏の空。蒼が遠くに見える。地平線の果てに、ゆっくりと歩く入道雲がいる。陽射しは容赦なく降りそそぎ、色濃い影を作り出していた。
 視線を列車の中に戻すと、少女は上品に微笑んでいた。
 目が合う。口を先に開いたのは少女だった。
「――御旅行ですか?」
「いえ、里帰りです」
 目を合わせるのが気恥ずかしく、答えて僕は外を見た。
 懐かしさを感じる、穏やかな田舎の景色。都会の気配を感じない、昔さながらの光景。時速60キロで流れる田舎の夏。
 ふと、祖父様を、そしてさっきまで見ていた夢を思い出した。
 だからだろうか。
 つい、僕は冗談のように、こう付け足してしまった。
「あとは、妖怪に会いに、ですね……」
 言ってから、後悔した。
 笑われるだろうと思った。莫迦にされるだろうと、変な目で見られるだろうと、そう思った。
 恐る恐る、僕は視線を、少女へと戻す。
 けれど――少女の返した反応は、そのどれとも違っていた。
 微笑みは変わらない。けれど、真剣な瞳で、じっと僕の瞳をのぞき込んできたのだ。
「興味深い話ですわ。よかったら、聞かせていただけるかしら」
「退屈な話ですよ」
 思わず即答した僕に対し、とんでもない、と少女は首を振り、
「退屈だなんて――興味深い話だわ」
 その言葉を聞いて、僕の中にある仮説が思い浮かぶ。
 大学で、民俗学やら何やらを専攻している人なのだろうか。その調査で田舎へ向かっている、とか。歳若く見えるだけで、教授という可能性もある。大学教授には、変人が多いと話を聞いた。
 妙に納得できるような気がした。
 少女は続けて言う。
「それに――こうして話すのも好きですから」
 ――成る程。
 旅は道連れ、という言葉を好む人なのだろう。列車の中を一人で過ごすのではなく、見知らぬ人との出遭いを楽しむ人。日本人ではなく、外国の人に多い発想だ。
 そう考えていけば、謎と思っていたことに、あっというまに理由がついていった。
 そう不思議なことではないのだ。
 そう思うと、自然、僕の口は軽くなった。祖父様以外に、真面目に妖怪の話を聞いてくれる人がいたのが嬉しかったせいもあるけれど。
「――昔の話なんですけどね。僕、子供の頃はこっちの方に住んでたんです」
 えぇ、と少女は頷く。
「立ち入り禁止の山がありまして。子供だった僕は、好奇心でそこに昇ったんです。おにぎりもって、一人で」
 えぇ、と少女は頷く。
「注連縄を乗り越えて、獣道を、どんどん登っていったんですよ。怖くないぞ、って自分に言い聞かせて」
 えぇ、と少女は頷き、
「上には、何があったのですか?」
「鳥居です。それと――」
 答えながら、僕は思い出す。白昼夢を見るかのように、頭の中に、あの夏の日の光景が浮かんでくる。
 幼い少年のタク。禁忌を破り山に登った。山道の果てに、鳥居があった。 
 神社が存在しない鳥居が。
「鳥居の向こうで、子供が遊んでいました」
 タクの視線の先、鳥居の向こうでは、和服の童女が地面に棒で絵を描いていた。 
 ねぇ君、どうしたの、と鳥居のこちらからタクが尋ねる。
 どこから声をかけられたのか分からずに、童女は辺りを見回した。タクの姿を見つけることができず、童女は再び絵描き遊びに戻った。
 すっとろい子だと思った。
 何の気負いもなく、タクは鳥居をくぐり、もう一度声をかけた。
「こんなところで一人で遊んでるなんて、苛められてるに違いない。そう思って、鳥居をくぐって、遊ぼうって声をかけたんです」
 童女のびっくりした顔。
 こんにちは。タクは挨拶する。僕、卓真。きみは?
 童女はタクを見たまま首を傾げて問う。
「その女の子、自分が妖怪だって名乗ったんです。幼かった僕は、言葉どおりに信じました」

 人間?
 うん。
 わたし、妖怪。
 妖怪ってなに。
 妖怪は妖怪だよ?
 ふぅん。

「今思えば、村はずれの子供が、立ち入り禁止の場所で遊んでただけかもしれません」

 どこに住んでるの?
 向こうのほう。山の奥。あなたは?
 向こうのほう。ふもとの村。きみ、何してるの?
 遊んでるの。
 楽しい?
 あんまり。
 一緒に遊ぼう。
 うん、いいよ。

「結局一緒に遊ぶことになって。何もないし、二人だけだから大したこと出来なかったんですけどね」

 鬼ごっこ。知ってる?
 知らない。
 ……ダルマさんが転んだは?
 なぁに、それ。
 縄跳びとか、ボールとか。家に帰ればあるんだけどな。
 それ、面白いの?
 すっごい面白いよ。

「でも一緒におにぎりを食べたり。楽しかったです」

 それなあに?
 これ、あげる。
 なにこれ? 
 おにぎり。美味しいよ。
 ふぅん。××より美味しいのかなぁ。
 食べてみなよ。
 あ、美味しい。
 食べたことないの?
 うん。
 おにぎりより、もっと美味しいもの、いっぱいあるよ?
 ――へぇ。人間って、いいね。
 そう?
 うん。わたしも人間になりたいな。

「結局、その場でやれることなんてほとんどなくて。一緒に村で遊ぼうって誘ったんですよ」

 じゃいこうか。
 どこに?
 村に。みんなで遊ぼう。きっと楽しいよ。
 ……鳥居の向こう?
 そうだよ。
 行けるの?
 行けるよ、もちろん! さ、行こう。
 うん――

「それで――それで、どうしたんだっけな」
 記憶の流れは、そこでぷっつりと途切れていた。澱みなく思い出せていたのに、そこから先が、まったく頭に浮かばない。
 童女と遊んだ。おにぎりを食べた。そして、鳥居の向こう――いや、こちら側へと向かった。村で皆で遊ぼうと思って。
 そこから先の記憶が、曖昧になっている。
 霞が掛かったかのように、朝霧につつまれたかのように、思い出すことができない。
「それから、どうしました?」
 少女が言う。僕は一瞬、その声が童女の声に聞こえてしまった。記憶と現在が、夢と現実が、ごちゃ混ぜになったかのような感覚。
 目の前に座るのは、紫と金の色をした少女だ。童女ではない。
 僕はその瞳を見つめて、必死で思い出す。記憶の欠片を無理矢理繋ぎ合わせて、どうにか言葉にする。
「それから、そう、一緒に里へ向かったんです。手を引いて――」
「――手を引かれて」
 僕の言葉に重ねるように、少女が言った。
 その声が呼び水のように、再び僕の脳裏に、記憶が思い浮かぶ。
 過去の情景が頭に蘇る。
 その情景に重なるようにして僕は言い、
「――神社の鳥居を――」
 その記憶に重ねるようにして、少女は言った。
「――鳥居を、くぐったのね? 人間の男の子と一緒に」
 その言葉に、微かな違和感を覚えると同時に。

 ――霧笛を、聞いたような気がした。

 けれどそれは気のせいだ。朝霧は幻視で、汽笛は幻聴だ。少女の言葉が、記憶にかかった霧を払っただけに過ぎない。
 靄が晴れる。あの日、あの夏の日。
 鳥居をくぐった瞬間の記憶が、はっきりと頭に戻ってくる。 
 思い出す。その光景を。
 紅く大きな鳥居。空にそびえたつような立派な鳥居。白い注連縄。存在しないはずの境内。
 手を引かれて、一緒に鳥居をくぐった。半ズボンの男の子が僕の手を引いて、外へ連れて行った。何もないはずの鳥居をくぐった先には、存在しないはずの人里があった。田んぼ、川、そして家。見たことのない景色、見たことのない風景。手を引いている男の子は、鳥居をくぐると同時に、ほら、あそこだよ、と村を指差した。僕はその指の先を追わなかった。指を差す少年の姿をじっと見ていた。父親に言われた言葉を思い出しながら。人を残らず食べたら人間に化けることができるんだよ。皮を食べれば人の姿に。脳を食べれば人の記憶が。私たちの一族はそういうことができるんだよ――そんな言葉を思い出しながら、僕は無防備な背中へと一歩を踏み出し、
 そこまで、思い出して。
 僕はようやく、少女の言葉の違和感の正体に気づいた。
 歪な記憶と共に。
「――違う!」
 気づけば、僕は叫んでいた。列車の中に人がいないのが幸いした。もし誰かがいれば、僕は奇異の目で見られていたことだろう。
 けれど、たとえ人目があったとしても、僕は同じように叫んでいたはずだ。
 思い出した記憶は、とてもではないが認め難いものだったのだから。
「違う、違うっ! これは、これは――」 
 それ以上は言葉にならなかった。僕はむせ、激しく咳き込んだからだ。咳は今までで一番大きく、痰と赤いものが口から跳び出た。目の前の少女は、嫌な顔一つせずに、ハンカチでそれをぬぐってくれた。
 その行為を受けながらも、僕は心の中で叫んでいた。
 これは、これは――これは『僕』の記憶ではない!
 この記憶は、人間、卓真のものではなくて、
「そして妖怪は外へと出た。人に手を引かれることで、幻想郷の外へ」
 言葉を、少女が引き継いだ。
 その言葉に、僕の記憶が無理矢理引きずり出される。
 少女の高い声は、思い出せ、思い出せとしきりに僕の脳へと訴えかける。それを断る術など知らなかった。
 堤防が決壊したかのように、記憶の波が流れてくる。
「人間に憧れていた妖怪は――」
 情景と、その時の感情を思い出す。
 目の前には人間の少年。その奥には、人の里。
 親はいった。人に成れる、と。
 超えられるはずのない結界を、人の手で越えた。
 きっと戻ることはできないんだろうな。子供心に、そう思った。
 それ以上に、強く、人間になりたいと思った。
 少年の言葉が、あまりにも魅力的だったから。
「人間を食べて――」
 それをするのは、簡単だった。僕は妖怪で、彼は人間で。
 ぺろりと一飲み。感想は、『うーん。おにぎりの方が美味しいな』。そんなことしか思わなかった。
 おにぎりより、もっと美味しいものが、向こうにあるんだ。
 そう思うと、心が躍った。
 陽が一個傾く頃には、妖怪の体も心も、変わっていた。
「――人間に成った」
 そこにいるのは、人でも妖怪でもない。
『僕』が、そこにいた。
「そして妖怪はいなくなり、人間もいなくなり。どちらでもない子供は里へと戻った。卓真という子供の皮を被った妖怪は、妖怪の記憶を捨てて、子供の記憶を得て――人間の中で生き始めた」
 そこまで言って。
 少女は、「お終いお終い」と話を括った。
 もはや話し手は、僕ではなく、少女だった。
 記憶の渦から立ち戻った僕は、顔を上げて、少女を見る。
 黄金色の髪と、紫色の服を着た少女は、笑っている。
 話し始めた頃とまったく変わらない微笑みを浮かべている。
「あ、貴方は、」
 女性は答えない。僕の言葉も、それ以上は出ない。
 笑っている。子供とも大人とも付かぬ笑み。
 目の前の少女が、人間だとは思えなかった。
 すべてを思い出した僕は――あるいは思い出さされた僕は――目の前の存在が『何』か気付いていた。
 手の届かないほど強い、人以外の何かは、愉しそうに笑っている。
「愉しかったでしょう?」
 優しく女性は言う。
 母親のように優しい声。
 その声を聞くだけで、僕の瞳からは涙が流れ始めた。なぜ泣いているのかも分からずに、僕は頷く。
「そうでしょうとも――人里は、人の世界は、愉しかったでしょう?」
 頷く。涙は止まらない。
 少女の声は優しく、どこまでも懐かしかった。
 人の世界では聞くことのなかった声。人の世界では見ることのなかった存在。
 忘れていた存在。
 忘れていた故郷。
 優しく微笑んだまま、少女はハンカチを僕へと差し出す。
 涙を拭け、ということか――そう思ってハンカチを見て、その考えが間違っていたことに気づく。
「その結果がこれ。楽しい十数年の結果ね」
 ハンカチは、血でべったりと汚れていた。
「おばかな子。貴方は人に化けるだけ。山から下りて、人の毒気にあたれば、生きれないと知っていたでしょうに」
 僕は答えない。首を縦にも横にも振らない。
 知っていたのか、知っていなかったのか、思い出せない。
 田舎だけならまだ良かったのかもしれない。都会に出て、コンクリートと排気ガスと人間の群れで暮らせば、こうなることを、本能で知っていた気もする。
 けど、それでも僕は選んだ。
 おにぎりが美味しかったから。
 人里が、あまりに面白そうだったから。
 そして当然の如く弱り、僕は故郷へと戻ってきた。
 猫が穏やかな場所で死ぬように。
 開襟シャツの肩で涙をぬぐい、僕は少女に訊ねた。
「僕を、どうするんですか……?」
 弱々しい僕の言葉に、少女は即答する、
「どうにもしないわ。迎えにきただけよ」
 どこまでも優しい声で、僕を突き放す。
 けれど少女は僕を見捨てない。指先で僕の頬を撫でる。白い絹に涙の後が付く。
 優しい微笑みが深まり、少女は僕をしっかりと見詰めて言う。
「幻想郷は全てを受け入れるのよ。貴方の帰還も、貴方の病気も、貴方の死さえも。それはそれは残酷な話ですわ」
 言って、少女は傘を手に立ち上がった。
 涙に濡れる視界の中、少女は微笑んだまま、傘を開く。
 紫の花が、列車の中に咲いた。
 傘を手に立つ少女が、僕を見下ろして言う。
 今までで一番優しい声だった。
「お帰りなさい。そして――さようなら」
 そして、傘がくるりと動き、視界が紫に色に塗り潰されて――



――気づけば、僕は駅のホームに立っていた。



 列車も、少女も、傘も、何もなかった。
 まばらにすら人のいない、無人のホームに、僕は一人立っていた。
「……あ、」
 茫然としたまま、僕は周りを見渡す。
 最初に乗ったホームではない。いつか、遠い昔に見た時と、まったく変わらないホーム。自動改札が存在しない駅舎。駅員すら居らず、切符を入れる箱が置いてあるだけだった。
 故郷の駅。誰もいないホームに、僕は立っていた。
 右を見る。列車はない。
 左を見る。列車はない。
 いつたどり着いたのか、どころか、いつ降りたのかさえ分からない。
 狐に騙されたような気分だった。
 ――短い夢を見ていたのだろう。
 懐かしい白昼夢を見ていたのだ。そう、僕は自分の心に言い聞かせて、歩み出す。
 立ち止まるために、田舎へと戻ってきたのではないのだから。
 切符を箱に放り込み、駅舎を通り越し、僕は思い切り深呼吸をする。肺の中に溜まっていた空気を全て外へと追い出し、代わりに新鮮な酸素を吸い込む。
 田舎の臭いがした。
 土と水と堆肥と人と花と、夏の欠片が混ざり合った空気だった。
 一歩を踏み出し、辺りを見回す。足元は土の地面。周りを見渡せば、面白いくらいに何もない。建物が見えない。自然色しかない。どこまでの道が続いている。
 片側は田んぼへと続いている。
 片側は山へと続いている。
 どこまでも懐かしい――田舎の光景だった。
「ああ、懐かしいな」
 舌に乗せた言葉は、雄大な山に押しつぶされて消えていった。
 山々と田んぼと蒼空を見ながら、僕は思う。
 この景色を懐かしく感じてしまう僕は、きっともう駄目なのだな、と。
 どうしようもないほどに、こちら側の存在に違いない。
 自然の世界を懐かしいと思ってしまうほどに――僕は人の世界に馴染んでいたのだなと、今さら僕は思ってしまった。
 思っても、もうどうにもならないというのに。
 空を見ながら、僕は足を踏み出す。
 田んぼの果てへ、ではない。
 山に向かって。 
「――兄さん、そっちにゃあ何もなかよ!」
 振り返ると、駅舎の中から親切なおばさんが忠告してくれた。そこに人がいたことに、そしてこんな田舎には親切心が残っていることに、僕は少しだけ驚いた。
 駅舎の窓から顔を出すおばさんに、僕は手を振って「大丈夫です」と答えた。
 それで、お終い。
 踵を返し、振り返らない。山を目指して歩き出す。おばさんは、もう何も言おうとしなかった。
 行く手には、青い空と緑の山。
 何もない、というのは半分は正しい。
 山には鳥居がある。神社の存在しない、意味のない鳥居が。
 山には墓がある。名前と姿を奪われた少年の墓が。名前と姿を捨てられた妖怪の墓が。
 墓は、鳥居だ。
 歩きながら、僕はふと思い出す。
 祖父様に言われた言葉を。
 ――二度と昇っちゃならね。戻ってこれのうなる。
 思い出して、僕はかすかに笑ってしまった。
 うん、その通り。僕は二度と戻っては来ないだろう。
 自分の墓を目指して、死に場所を目指して、僕は山を昇る。
 空は青く、どこまでも遠い。

 あの日と変わらない、夏の空だった。




(了)



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 墓参りに行くのか、墓へと参るのか。
 誰の墓か知れずとも、紅の鳥居はそこにある。

↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。



◆あとがき◆




 ……最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
 幻想郷を愛する妖怪と、名前のない妖人の話でした。
 主人公は鳥居です。あるいはそれ以外の全て。







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