1 EXるーみゃ
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 夜が降りてくるところを、見たことがあるだろうか?
 一度でいい、地球の、陽が去っていくときに、反対側を見上げてみるといい。いや、見上げてもかならず見えるわけではない、じっと目を凝らして、運がよければ、<穴>から見えるというだけだ。
 それでも、見るだけの価値はある。
 どんなに難しいとしても、一度でいいから、見てみるべきなのだ。
 夜が降りてくるところを。
 陽が逃げ去り――夜が『降りて』くるところを、一度でいいから見てみるといい。
 その景色は、まさしく、幻想と呼ぶのに相応しいものだから。
 私は一度だけ見たことある。遠い昔、母様が生きていたころに、一緒に見上げたのだ。
 それ以来、その景色に、私はすっかり魅了されてしまった。
 だから――夜な夜な、私は頭上を見上げて、ずっと待っているのだ。
 夜を。
 夜が降りてくるのを。
 端からみたらおかしく見えるだろう。それもそうだ、私は何をするでもなく、ただひたすらに上を見ているのだから。酒を呑みながらでも、餅を食べながらでもない。
 何もしないのだ。
 何かをして、見逃すことなんてできないから。
 ただただ、じっと上を見上げて――夜が降りてくる、一時間に満たない時間を、座って過ごす。
 初めのうちは、みんな、「何をしているんですか?」と聞いてきた。
 私は正直に「夜を見ているのよ」と答えた。答えを聞いたみんなは、「ああそうなのへえすごいですね」という分かったような顔をするか、それ以上何も言わずに黙って去っていった。
 別にいいのだ。
 誰かに理解してもらおうなんて思ってないから。
 私だけが、この美しい光景を知っていれば、それでいいのだ。
 だってそうだろう。たとえ私が見ていなくても、知っていなくても、その美しい光景は、ただそこに存在するのだから。観覧者の存在と関係なく、ただ美しくあり続ける。
 誰も居なくても、地球が回り続けるように。
 誰も居なくても、月が回り続けるように。
 誰も居なくても、夜はそこにある。
 誰も居なくても、夜は降りてくる。
 その在り方自体も美しいと、私は思うのだ。

「何を見ておられるのですか?」

 今日もまた客がきた。
 もうすぐ陽が沈む――ちょうどそれを見計らったかのように。
 客は、客ではなかった。ある意味では家族だった。けれど、私の習慣を、彼女は知らなかったはずだ。初めての客、でも間違いではない。
 ここは私の世界だ。私だけの世界だ。少なくとも、今だけは。
 だから、たとえ八意 永琳だとしても、今は客なのだ。

「夜」

 私は簡潔に答えた。長い長い時間が、私から説明の二文字を奪っていた。残ったのは夜の一文字だけだ。
 ほとんど意味が不明の私の答えに、永琳はそれでも納得したようにうなずいた。
 
「姫は、夜が降りてくるところを見たいのですね」

 驚いた。
 いくら永琳が天才だとは言えど、たったひと言で理解するとは思わなかったのだ。
 永琳の方を振り向くことなく、夜を待ち続けられたのは、奇跡かもしれない。
 私は永琳の方を振り向くことなく、言った。

「どうして?」

 主語を抜かしたのはわざとだ。
 永琳なら、きっと、それだけでも通用すると思ったから。ひょっとしたら『ど』だけでも通じたかもしれない。
 案の定、永琳は私の意を汲み取って、望みどおりの返答をした。

「昔の文献に載っていました。……もっとも、実際に見たことはありませんけど」

 そう言って、永琳は私の隣に座った。
 二人並んで縁側に座って、二人揃って空を見上げる。
 夜が降りてくるところを待つ。

「姫は?」

 永琳も、空を見上げたまま言った。私のほうを見ようともしない。それはひょっとしたら無礼なことなのかもしれないけれど、私はそれをとやかく言う気はなかった。それほどまでに無粋なことはない。
 私も、空を見上げたまま、答えた。

「あるわ」

 一度だけだけれど、とは言わなかった。
 なんとなく認めるのが悔しかったからだ。
 答えるかわりに、私は空を見上げて、ただただ夜を待った。

 ――予感があった。

 それはひょっとすると希望だったかもしれないけれど、たぶん予感だったのだろう。
 あの日。一度だけ、夜が降りてくるのを見たとき。
 あのときも、母さまと一緒だった。
 誰かと空を見上げたのは、それが初めてで、最後だった。母様は偉い人だから、子供に愛情をさけるような人ではなかったのだ。そのときのそれも、ただの気まぐれか、なにかの奇跡だったのだろう。
 そして、母様がいなくなってからは、そもそも仲が良い相手などいなくなってしまった。
 だから、これは、二度目だ。
 誰かと空を見上げたのは。
 ひょっとしたら――二度目の奇跡が起きるかもしれないと、私はそう思ったのだ。


 そして、それは、叶った。


 永琳の見ている前で。

「姫。あれが――」

 私の見ている前で。

「ええ、そうよ」

 静かに、

「――あれが、『夜』よ」


 夜が降りてきた。


 その景色を、私は今まで忘れていなかった。一日として。
 そして、今、再び見た景色を、私は一日として忘れることはないだろう。
 何と言えばいいのだろう?
 この、美しい景色を。
 言葉に表しきれない、心を魂ごと揺さぶるような光景を。
 夜は中心から、あっという間に、私たちの見えている世界すべてを覆いつくすように伸びていった。
 黒い黒い闇。黒い黒い夜。
 その正体を、遠くから眺める私たちは知っていた。
 夜が生まれる場所。地球の中心。
 そこには、少女がいた。
 黒い服。赤いスカーフ。
 金色の髪は、何にも縛られることはなく、ゆったりと長く風にたゆたっている。
 彼女は目を閉じていた。まずまっさきに、自分の世界を闇に閉ざしたのだろう。
 彼女が目をつぶると、彼女の身体から、闇が飛び出るのだ。
 少女が踊るたびに、回るたびに、闇が広がる速度は速くなっていった。
 腕を振るうと闇が出る。
 髪が揺れると夜が出る。
 そうして、彼女を中心に、闇が、夜が広がってくのだ。
 空に――月の真下に浮かぶ彼女から、夜が、地上へと降りていく。

 夜が降りていく。

 その光景を、私と永琳は、声もなく見つめていた。
 永琳は、始めてみるその美しい光景に、完全に心奪われて。
 私は、再び見ることのできた美しい光景を、少しも漏らさず心に残すために。
 遠く離れた場所。
 38万キロの向こう側。
 手の届かない場所に存在する、美しい世界を、私たちはじっと見続けていた――


 遥か遠い天体。
 38万キロの真空に隔てられた、地球。



 美しき蒼い星に――夜が降りてくる。








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 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。



◆あとがき◆





 ――月だけが、それを見ている。



 闇がまだ幻想になっていなかった時代。
 人間が夜を駆逐する前の時代の御伽噺。



 BGM...夜が降りてくる 〜 Evening Star,






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