笑ふ少女








 ひぐらしのなき声で目が覚めた。

 背中に感じるのは畳特有のごわごわとした感触で、自分は今畳の上に直接寝ているのだと判った。古く乾燥した畳の匂いは嫌いではない。都会のマンションでは味わえなかったものだ。畳の匂いに、家庭料理特有のあの匂いが混じっている。誰かがご飯を作っているらしい。
 天井に吊られた豆電灯の黄色い光に目が眩む。
 今が何時で自分が何処で何故寝ているのか、まったくわからない。
 頭の下に引かれた枕は柔らかく、日頃使っているものよりも感触がよかった。
 誰かが何かを言った。が、寝ぼけた頭が聞き取ってくれない。
 圭一は再び目を閉じ、心の中で五秒数えてからゆっくりと目を開く。
 視界と思考が、ようやく明確になってきた。
「圭一、おはようなのです」
 目と鼻の先に、見知った少女がいた。
 長い髪が重力に引かれて垂れ落ち、前髪が顔に触れるくらいに近かった。驚いて後ろに下がろうとしたが後ろは勿論床で下がれるはずもなく、驚愕に見開いた視線が少女の瞳とぶつかる。その少女が誰なのか、圭一はその瞬間ようやく気づいた。
 友人の古手梨花だ。
 にぱ、と梨花は笑顔を浮かべて、
「よく眠れたですか?」
 梨花の言葉に、混乱した圭一の頭は返事を返せない。
 梨花の言葉は半分も届いておらず、自分が今どういう状況にあるのかを必死に探る。前の前には梨花ちゃんの顔、その奥に見える蛍光灯とさらに奥に見える板張りの天井。自宅ではないことは確かだ。誰かが機嫌よく鼻歌を歌っている。リズミカルに聞こえてくるのは包丁の音。頭の下には――
 心地の良い枕の正体にようやく気づいた。
 ――梨花ちゃんの膝枕か。
 どうりで気持ちいい枕のはずだ、と圭一は内心で納得する。
 ここがどこなのかも見当がついた。梨花と沙都子が住むプレハブ小屋だ。元々は防災倉庫として使われていた、神社の近くにある古びたプレハブの二階。
 つまりところ二人の家だ。
 が、自分が何故ここで寝ているのかは、やっぱりわからない。
 ――クールだ、クールになれ前原圭一。
 混乱する思考を宥め賺して圭一は言う。
「……おはよう」
「はい、おはようなのです。でも圭一、もう夜なのですよ?」
 圭一は梨花の膝の上で顔だけを動かし、窓の外を見る。
 視点が低いせいで窓から見える景色は空しかなく、その空すら夜の闇に染まっている。
 とはいえ、暇見沢の空気は澄んでいて、窓越しにも星の光がよく見えた。
「……なんで俺寝てるんだ?」
 最初に出てきて当然の質問が、ようやく出てきた。
 梨花は再びにぱ、と笑う。
「圭一、覚えてないですか?」
「んー……」
 梨花の言葉に自分の記憶を思い返す。
 真っ先に思い出せるのは昼の事。綿流しの祭りの準備と称して、神社前に集合したのが一時過ぎ。いつもの部活のノリで「おじさんの仕事に付いてこられるかな!?」や「はぅぅぅ〜!! かぁいいよ〜!」などといったいつもの言葉を飛び交わしながら作業をした。
 そこまでは覚えてる。
 作業が五時を過ぎた頃に終わり、そこから正真正銘の部活タイムに突入したことも覚えているが――
 そこで記憶がぷっつりと途切れている。
 意識が戻った時にはもう膝の上だ。
「部活を始めようって魅音が言い出したあたりまでは覚えてるけど」
「疲労と日射病と栄養失調なのです」
 梨花はひと息でそう言った。
 疲労。
 日射病。
 栄養失調。
 不健康のオンパレードだ、と圭一は思う。
「……ひょっとして俺、倒れた?」
「入江先生を呼んでの大騒ぎなのですよ。不健康な生活を送ってるせいなのです」
 不健康な生活――その言葉に圭一は近頃の生活を思い返す。
 両親が数日間家にいないため、ご飯は三食カップ麺。
 夜更かしによる寝不足。
 都会に馴染んだ人間が、帽子も被らず一日中田舎の山で走り回る。
 ……倒れる原因が山積みだった。
「魅ぃから伝言預かってるですよ」
「あーいいいい話さなくて。どうせあれだろ? 「圭ちゃんは軟弱者だな〜!」とかそんなとこだろ?」
 梨花は当たりです、という代わりにいつものように頭を撫でてきた。
 細く小さい手に頭を撫でられるだけで、頭の中身が済んでいくような気がする。
 オヤシロ様の生まれ変わりと称されるにしては、ずいぶんと優しい力だと圭一は思う。
 梨花の「撫で撫で」には、本気で不思議な力があると思う。妙に落ち着くのだ、自分の胸元までしか背のない、幼い少女に撫でられるだけで。
 時折見せる大人びた――達観した雰囲気も含めて、不思議な少女だと改めて思う。

 大切な友人だとも思うが。
「梨花ー! 圭一さん起きましてー?」
 隣りの部屋――台所から沙都子が叫ぶ。鍋の煮立つ音や神社で騒いでいる老人たちの声のせいで声が聞きづらい。
 小声で話していたせいで、圭一と梨花の会話には気づいてないらしい。
 しぃ、と梨花が人差し指を口元にあてる。喋らないように、とのジェスチャーだ。
 不審に思う圭一に構わず、梨花は無邪気な大声をあげる。
「圭一はまだ寝てるのです〜! やっぱり圭一は放っておいてご飯食べるのですよ!」
 ――な、
 叫びかけた声は、梨花の手に塞がれてそれ以上出なかった。
 視線の先、梨花の口元が楽しそうに笑っている。
 扉の向こうで激変する沙都子の気配、
「な! 梨花私言いましたわよね圭一さん満足にご飯食べてないでしょうから夜ご飯に招待しましょうって!」
 マシンガンの如き沙都子の罵声。息継ぎがまったくないその言葉に圭一は驚く。
 普段の沙都子なら、こんなことは言わない。
 たとえそう思っていても、高飛車な態度と罠で覆い隠してしまうからだ。
 ――梨花ちゃんが静かにしろと指示したのはこのためか。
 手の下で圭一がにやりと笑うと、梨花もにぱ、と笑い返す。
 そして、一瞬流れた穏やかな空気を破壊するかの如き足音。
「ちょっと梨花聞いてまして――――あら?」
 伽藍と扉を開けた沙都子の動きが止まる。
 会話がすべて聞かれていたことにようやく気づいたのだ。
 圭一は恐る恐る沙都子の方を向く。
 目が合った。
 固まっていた沙都子の顔が、一瞬で真っ赤になった。
 やあ、とばかりに寝たまま右手を上げて挨拶する。
「……起きてましたの?」
 口を塞いでるああ、ともうん、とも言えない。
 おたまを持った沙都子の手が震えている。恐らくは怒りと羞恥で。
 ヤバい――圭一は自分に言い聞かせる、クールだ、クールになれ、クールに――
 口先の魔術を使う暇も無く、飛んできたおたまが圭一の意識を再び刈り取った。
 最後に聞こえたのは、かわいそかわいそです、と他人事のように言う梨花の声。


        ◆


 さすがに意識が飛んだのは一瞬だけだった。
 意識が戻ってすぐにしたことは、盗み聞きような形になってしまったことを平謝りすることだった。
 よく考えたら非は何もないような気もするが、謝らなければおたまではなく鍋が飛んでくる。
 さすがにそれは避けたい。
 コメツキバッタの如く平謝りした結果、どうにか食事にありつけた。
 メニューはご飯と豚汁。婦人会の方々と買い物に行き、同じものを買ってきたらしい。今ごろ神社にいる成人男性たちにはおばさんたちの作った豚汁が振舞われているのだろう。
 作る人が違うだけでありがたみが全然違うことを、圭一は今日、あらためて思い知った。
 ――おばさん連中が作った豚汁と、梨花ちゃんと沙都子が作った豚汁。
 どちらが素晴らしいかは、考えるまでもない。
 事実、豚汁は美味しかった。
 久しぶりに人間らしい食事をした――と圭一は豚汁と二人の少女に感謝する。
「ふぅ! 食べた食べた美味かった!」
 圭一は座ったまま手だけを使って机から離れ畳の上に寝転がる。このまま豚になっても構わないくらいの心地よさだ。
 沙都子は部屋の中にはいない。食べ終わるとすぐ「私が片づけますわ」と言って台所の方へと出て行った。多分食事前の恥ずかしさが残ってるのだろうと圭一は思っている。
 機嫌が悪いわけではない。証拠に、水音に混じって鼻歌が聞こえてくるからだ。
「圭一、そんなに美味しかったですか?」
 茶をすすりながら言う梨花に、圭一は半身起こして応える。
「ああもうすっごい美味かった。カップ麺とは比べ物にならないな」
「それは比べるものが間違ってるのですよ」
 にぱ、と笑う梨花に笑い返して、圭一は再び横になる。 
 視界を板張りの天井が埋める。歪な木目が生きているみたいで面白い。
 その視界に、突如として梨花が割り込んでくる。
「――あ、」
 音を立てずに忍び寄ったらしく、まったく気づかなかった。
 満腹感に満たされた頭はうまく動かず、あ、の後は続かなかった。
 ただ、梨花を見上げて笑う。
 梨花もまた、圭一を見下ろして笑う。
「あ?」
 笑顔の梨花が聞き返してくる。
 何も考えずに、とりあえず思ったことを口にした。
「梨花ちゃん、そこに立ったらパンツ見えるよ」
 梨花の笑みが濃くなる、
「文脈が繋がってないのです。それに、圭一にならいいのですよ」
「それは光栄だ」
 梨花の冗談に圭一は笑って返す。
 今ここにレナがいたら無事じゃすまないだろうな――圭一はふとそう思う。
 沙都子に見られても無事じゃすまないだろうが。
 魅音に知られた日には村中に知れ渡るだろう。
 ――ひょっとして、誰に見られてもまずいのかもしれない。
 部活の面々はいかに特異なのかを、圭一は改めて思い知る。
「圭一、頭を上げるです」
 何も考えずに頭を上げる。
 圭一が頭を上げたそこに梨花は膝をついて座る。
「いいこいいこです」
 言いながら梨花は圭一の頭を撫で、再び膝枕をした。
 圭一は目を閉じ、頭を撫でる手の感触に集中する。
 何もかもが幸せだった。
 生活感に溢れるこの家も、皿を洗う水音と沙都子の声も、梨花の手も膝も。畳の感触は優しく、遠くに聞こえるひぐらしの声はどこか懐かしい。
 ここにきてよかった。
 暇見沢に来てよかった。
 気の合う仲間との出会い。
 暖かい住人たちとの出会い。
 野山を駈けずり、部活に勤しみ、祭りの用意で盛り上がる。
 今まで住んでいた都会とは違った。
 繋がりと温かみがあった。
 まるで一つの巨大な家族のような村だ、と圭一は思う。
 自分も、その家族に入れるのだろうか?
 自分も、その家族に入れたのだろうか?
 頭の下にあるこの温もりこそが、その回答だと圭一は願う。
 そして祈る。
 この幸せがいつまでも続きますように、と。
 それが不可能なことは判っている。遠くない未来、皆と別れる日は必ず来る。
 村から離れる日が、必ず来る。
 いつまでも学校にいらえるわけではない。部活の時間は、必ずお終いが来るのだ。
 あるいは、突如として災厄に襲われ、否応なしに判れることになるのかもしれない。
 未来を見ることなどできない圭一にはわからない。
 未来を見ることができる人間がいるのなら、自分たちはどうやって終わるのか聞いてみたいと思う。
 幸せに終わるのか。不幸に終わるのか。
 転がり落ちながら否応なしに別れるのか。清々しくそれぞれの人生を歩み始めるのか。
「圭一……」
 梨花の手が止まる。
「――なに?」
 圭一は目を開け、梨花の顔を見る。
 梨花は笑っていなかった。
 いつもの、無邪気な表情をしていなかった。
 何かを達観して、諦めきった人間の顔をしていた。
 たった一つの望みにしがみついて、ぎりぎりのところで生きている人間の貌だった。
 先ほどまでの暖かな雰囲気は、いつのまにか冷たく、波乱を含んだものになっていた。
 何一つ変わらないのに。
 梨花の表情以外は、何も変わらないのに。

 ――いや、違う。それだけじゃない。

 いつのまにか、ひぐらしがなき止んでいた。
 梨花は言う。

「――諦めちゃ駄目なのですよ」

 どう答えればよかったのだろう。
 歳に釣り合わない表情を浮かべた少女に、なんと答えればいいのだろう。
 圭一はわからない。
 喉が詰まる。梨花の気配に圧迫されて空気が薄くなっていくような気さえした。
 そして――

「にぱ〜☆」

 いつものその言葉を口に出して、梨花は笑った。
 空気が元に戻る。日常が戻ってくる。
 圭一はどうにか笑い返した。何も言えずに、ただ笑った。
 古手梨花の本性を覗いて、圭一は何も言えず、笑った。
 その言葉を忘れないようにしよう、と思いながら。
 唇が、緊張で緊張で乾ききっていた。



 どこかで、ひぐらしがなき始めた。






◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あとがき。
ひぐらし小説第1段。梨花ちゃんでした。


↑作品を面白いと感じた方、押していただければ幸いデス↑
 次回のやる気につながりますので……感想、ひと言遠慮なくどうぞ。

あとがきは欠番。
あやまって削除してしまった為。

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